3話
部屋に吹き込む風が私の頬を掠める。宮原さくらは音を立てずに窓を閉め鍵をかけた。風の音を失った部屋は完全な無音となり、呼吸音が大きく感じる。
「座らないの?」
「えっ」
「見学、しに来たんでしょう?」
「あ、はい…。そう、なんです…、けど」
「なら、ゆっくりすればいいじゃない。…ほら」
椅子をひき私の方を見る。その瞳はあまりにも威圧的で、少し怖くて、私は素直にひかれた椅子へと腰をかけた。すると、宮原さくらは満足気な笑みを浮かべ、隅にある棚の方へ歩き出した。
「コーヒーと紅茶、どっちがいいかしら」
棚の中にあるカップを取り出しながら問う。
「あ、あの!べ、別に気を利かせなくて大丈夫…です」
「あら、どっちも苦手なの?」
「あ、えっ!?えー、えーっと…、そんなことは…な、い…、と、思う…かも……」
「ふふふっ、思うかも?しれない?」
「あっ、や、あの、思わないかも…しれない…、かも…」
話しながら視線を逸らす私を見て、宮原さくらは口元を手で隠しながら、また、ふふふと笑った。可愛らしい笑い方だった。そして、さっきとは180度変わった優しい瞳で私を見つめた。
「そう。でも、何も恥じることは無いわ。私もコーヒーは苦手だもの。匂いは、好きだけれど」
何故か"匂いは"を強調して言う。
「……紅茶、好きなんですか」
「ええ。特にレモンティーが好きね。シフォンケーキを食べながらよく飲むわ。…スイーツはお好き?」
「あっ、はい。あ、甘ければ甘いほど、好き、です」
「じゃあ、今度用意しておくわね」
「えっ」
宮原さくらは私の向かい合わせの場所に座り、手を組み顎をのせて私を見る。長い睫毛が少し揺れた。微かに微笑んでいる口を開け、宮原さくらはこう言った。ゆっくり、一音一音確実に言った。
「だって、入るんでしょう?風紀委員会」
だって、はいるんでしょう、ふうきいいんかい
ダッテ、ハイルンデショウ
ハイルン、デショウ…
頭の中で処理をするのに時間がかかった。
決めていたことだった。私は風紀委員会に入る。なのに、何故か、どうしてか、"はい"と言えなかった。たった二文字の言葉が、口からも喉からもお腹からも出てこなかった。
宮原さくらの顔を見た。お人形さんみたいな美しい顔を見た。口、鼻、眉、目…。
その瞬間、紫に近い黒の瞳の奥に、深い深い奥底に吸い込まれそうになった。なんとか足を広げて踏ん張る。堪える。汗が出た。強い力を感じた。本当に吸い込まれるはずが無いのに。
「そ、そう言えば、ほ、ほ他に来てないんですか、その、見学希望者」
私は顔を伏せ、話を逸らすことにした。
「ああ…、来たわよ」
宮原さくらは手を解き、背もたれにもたれかかって、心底興味が無さそうな顔をする。しかし、私への視線はそのままだ。汗が止まらない。
「でも直ぐに帰ったわ。元々、今日は委員会やってないしね」
「え…。初日なのに、どうして…」
「そんなに新入生いらないの。いても邪魔」
「えっ、そ、そうなんですか」
私、邪魔だった、かも。
でも、なら、どうしてこんなに、色々と…。
「それに…、…………だし」
「……え?」
顔を上げる。
宮原さくらは私との視線が合うと口をつむぎ、少し目を伏せ、もう一度私の顔を見た。そして、美しく、しかし決して近寄らせない笑みを浮かべて言った。
「野次馬が来るからね」
野次馬?
「それって、新入生が、ですか」
宮原さくらは席を立ち私に背を向ける。
「そうよ。あの噂は本当なのか〜って来るのよ」
「噂って、先輩は裏で悪いことしてるっていう…あっ!」
私の声に驚き、宮原さくらは振り向く。目玉が出てきそうだった。初めて宮原さくらの素の顔を見れた気が、する。
いや、そんなことは、どうでもいいんだよ、多分、きっと、どうでもいい。や、良くは無くはないけど、…ん?良くは無くは無くはないけど?ん?良くは無くは無くは無くは無くは…ってあーもう!違くて!!
言ってはいけない事だった…。
そう、これ、言っちゃいけないこと。
冷や汗。寒気がする。
"ちなみにこれ、秘密だからね。知ってるなんてバレたら、いじめられちゃうかもだから"
ここに来る前に楓から言われた言葉が繰り返される。
楓ちゃん、ごめんね…。私、いじめられるかも。
ああ、折角心配してくれたのに。あの時間が私のせいで無駄になっちゃった…。私のせいで…。
せめて死ぬ前に学校の近くにあるレストランのデラックスミラクルロイヤルチョコレートバナナパフェ(生クリーム付き)を食べてみたかった…。
「…ふっ、はっ、ははははっ」
ほら、天使に化けた悪魔の笑い声が聞こえる…。
…ん?
いや、これ、悪魔じゃない。全然悪魔じゃない。むしろ―――
「天使……」
「天使?私が?…ふふふっ、あは、ははっ、っはーー」
開いた口が塞がらなかった。
私の前にいる人物は、さっきと同じ人物なのだろうか。目に涙を浮かべ、お腹に手を当て、腰を曲げて笑っている。
あの冷たい笑みを浮かべていた顔と同じとは考えられない。
「はあぁぁ……。やっぱり貴方、面白いわね」
「…わ、私が、ですか」
「ええ。面と向かってこんなことを言われたの初めてよ」
「あ、すいませ…」
「いいえ、いいわよ。気にしてないわ。だって知ってたもの」
「え…」
「注目される人に噂はつきものよ」
ドンッ
壁が降ってきた。大きくて分厚い。
私はこれまでもこれからも、絶対に確実に、注目されることは無いだろう。宮原さくらが感じたモノは、宮原さくらしか感じない。私と宮原さくらは住む世界が違うのだ。
注目される人に噂はつきもの
線引きをされたように感じた。
「……………ねえ」
宮原さくらは私の近くに来て、机の上に手をついた。そのまま頭を私の顔に近づける。宮原さくらの髪が肩から机に流れる。甘い香り。
「み、宮原…先輩?」
「…このまま顔を近づけたら、どうなるかしら」
「え?」
「この、お互いの吐息が混じって溶け合う距離で、もし、私がこうして顎を持って…」
「せんぱっ」
「唇を近づけたらどうなるかしら」
残り1センチ。
「はぁっ」
まるでキスをする3秒前。
指一本しか入ることの出来ない距離。お互いの顔しか見えない。少し動いただけで唇が触れてしまう。
こんなの、ドキドキしないはずがない。
呼吸をしたくないのに、荒くなって、鼓動が早くなって。
―――――涙が出た。
「………」
宮原さくらは私の顔を見ると、何かを確信したような表情をして手を離し、少し距離をとって、私の髪を撫でた。包み込む様な撫で方。
「貴方にとって、今日は最悪な日になるかもしれないわね」
長い睫毛が瞳を隠す。邪魔だった。
「一つ、間違っているわ」
「え?」
「貴方の発言は決して完璧なものとは言えない」
「どういう意味…、ですか」
「私の噂はもう一つある。…まあ、噂かどうかは分からないけれど」
窓の方へ宮原さくらは歩く。窓を開けた。長い髪が靡く。甘ったるい匂いが鼻を覆った。
「貴方に問うわ」
窓枠に軽く腰をかける。顔にかかる髪が邪魔そうだ。しかし、そんなことに気にかける様子もなく、宮原さくらは言った。
「私がレズビアンだと言ったら、どうする?」
逆光で顔は見えなかった。