人と兎の7
けものノおんがえし 人と兎の7
一人残された職員室で、橋野先生の椅子に座って、一冊のノートを開いた。
「……すごいな、このノートは」
橋野先生から譲り受けた、赤いノートのページを、ゆっくりとめくった。
そこには、学校のことや生徒のことが、一つ一つ丁寧に書いてあった。それを読むだけで、この学校の雰囲気や生徒達の顔が、頭に浮かんできたり、伝わってくるような、とてもやさしさに包まれた、温かいものだった。
俺はゆっくりとノートを閉じた。
「よし……やるか!」
橋野先生が残してくれた、思いに答えるためにも頑張らねばならい。
「まずは……」
(明日の授業の準備に、いままで学習要領の達成度を元に新たな授業の設定、生徒の名前に、家族構成に、学校行事の――)
「うわ!!! できるのか俺!!!」
やることは山積みだった。
そんな心が、もう挫けそうになった時、職員室のドアが開いた。
(橋野先生か? 忘れ物でもあったのだろうか)
「……あう?!」
何か声が聞こえて、扉がすぐに閉まった。
「……あうって、なんだ? ……おっと」
扉の方を向こうとした拍子に、ノートを下に落としてしまった。
「大事にしないとな〜っと……」
机の下へ座ったまま手を伸ばす。
「も〜っちょい〜〜〜も〜……よし!」
手がやっと届いた。
その瞬間、また扉が開く音が聞こえた。
「お?」
急いで元の姿勢に戻る。
だが、扉はそっと閉まった。
「……あれ?」
(おいおい……何なんだ?)
着任早々、学校ならではの怪談沙汰は勘弁してほしかった。
すると、扉がゆっくりと再び開いた。俺は扉を凝視する。
「……うお!」
扉の隙間から、真っ赤な目が、こちらをジッと見ていた。
(で、でた〜!!!)
本当に怪談沙汰になりそうだった。
そんな恐怖する俺にかまわず、扉はすごい速さで閉まった。
(おいおい!)
こんなことになるのならば、早めに今日は帰っておけばよかった。
後悔先に立たず――これをまさに身をもって学習するとは、さすがにおもわなかった。
そして、またゆっくりと扉を開かれた――
いや閉まった。
あ、開いた。
え、閉まる。
お、開いた。
うお、閉まった。
俺は段々とイライラしてきた。
「え〜い! もう〜やめんかい!」
おもわず怒鳴ってしまった。
こんなに頻繁に開け閉めがあるのは、きっと人間のイタズラしか考えられなかった。
そう確信した俺は、急いで扉の前へと駆け寄った。
(よ〜し……)
イタズラの犯人を捕まえようと、俺は扉の前で息を殺して待った。
すると何も知らない犯人は、扉をそっと開いた。俺は勢いよく扉の前へ立った。
(……お)
そこには、想像していた犯人とはかけ離れた小さい犯人――白いポンチョを着た少年が立っていた。
(ほ、ほら! やっぱり人間だった!)
俺は内心、すごくほっとして、胸をなでおろした。
しかし、白いポンチョの子は、俺を見るや否や、真っ赤な目を潤ませ走り出した。
「え、お、おい! お〜い!」
こんな暗い廊下を、あんなに急いで走って、転んだら大変だ。
(お、追うしかない……か)
俺は急いで、少年を追いかけた。
「はぁはぁ……」
俺の前を走る白いポンチョの子は、兎みたいにぴょんぴょん跳ねながら、廊下を右へ左へと動き回りながら走っていく。
その動きに翻弄された俺は、普通に追いかけるよりも、体力を消耗していた。
「ま、まて……」
(な、なんて速さだ)
暗い廊下を縫うように、少年は走っていく。
(も、もう〜……だめだ)
体力の限界を超え、追うのを諦めかけた時――
少年は、その場で立ち止まり、後ろを振り向いた。
(た、助かった〜……)
「ま、待て〜! はあはあ……き、君、そこで待ってなさい!」
「はう〜!」
その言葉に、慌てて少年は、再度逃げようと、俺に背を向けた。
しかし、必死に身体を動かそうとしているが、動けない様子だった。
(チャンスだ!)
俺は、ゆっくりと近づく。
そして、少年の腕を掴んだ。
「捕まえた」
腕を掴んだ今も、少年は、一生懸命に身体を動かしている。
「うう〜……」
少年は、今にも泣き出しそうな顔で、俺の顔を見上げてきた。
そして、俺から顔を背けた。
(あ……痛かったかな)
俺は、掴んでいた手を離した。
(……ん?)
近づくまで、暗くて分からなかったが、廊下の隙間に穴が開いていて、そこに少年の足がすっぽりと入ってしまっていた。
どうやら、このせいで動けなくなったようだ。
俺はしゃがみ、穴に引っかかってる足を手で掴んだ引っ張ってみた。
(あれ……動かないな)
しっかりとハマっているのか、全く動かない。
少年は泣き出しそうな顔で、首を大きく横に何度も振っている。
(もう少しだから……我慢しろよ)
俺は引き抜こうと、一気に力を込めた――
「よし取れた、もう〜動いても、大丈夫だぞ!」
俺は、泣きそうになっていた少年の頭を、そっと撫でてやった。
少年は、その手に擦り寄るように、気持ちよさそうにしている。
「痛くは無いか?」
少年は、その問いに、その場でジャンプして答えた。
そして、俺の顔を見て、何度もうなづいた。
「それはよかった」
俺は、もう一度、少年の頭をゆっくりと撫でてあげた。
少年は、余程気持ちいいのか、嬉しそうに微笑んだ。
しばらく撫でてやり、それを止めると、俺の顔をそっと見上げてきた。
「あう〜……」
もっと撫でてて欲しかったのか、残念そうな表情で瞳を潤ませている。
「まあ、今度な……もう遅いしな」
廊下の窓から見える校庭は、既に真っ暗で何も見えなかった。
「君も、早く帰らないと、ね?」
俺がそう言うと少年は、俺から少し離れて、仰向けに倒れこんだ。
「え? おい! どうした?!」
俺は、少年の突拍子も無い行動に唖然とした。
何か少年が、口を動かしている。
「な……に? え〜……た……べ……て? 食べて?!」
少年は、それが正解だと言わんばかりに、頭を縦に何回も動かした。
(ダメだろ色んな意味で……)
「もう〜しょうがないな……さ〜立って」 俺は少年を抱き起こし、その場に立たせた。
「じゃあ、昇降口まで送るから、ちゃんと帰るんだよ? いいね?」
少年は何回か振り子のように、頭を横にゆっくり動かしたが、最後には首を縦に振って、俺の手を握ってきた。
「さあ、いこうか」
俺と少年は手を繋ぎ、真っ暗な廊下を歩いていった。
昇降口に着くと、灯りが点いていた。
「あれ……橋野先生かな?」
(帰りがけに点けてくれたのだろうか?)
握られていた手に、力がこもり引っ張られた。
少年が、何か俺に伝えたそうな顔で見てきた。
「あう〜あう〜」
「ん? 灯り? あ、橋野先生?」
少年は激しく頭を縦に振った。「君、橋野先生を知ってるってことは……ここの生徒なのか?」
少年はうなづく。
「じゃあ、名前を教えてくれるかな?」
少し悩やむように少年はうつむき、しばらくして顔を上げ、しゃべり出そうとした時――
昇降口の出入り口の方から、それを制すように声がした。
「その子、ハクト君! みんなに、ハクちゃんって呼ばれてるんだよ」
そこには、ここまで案内してくれ、校庭で待たせていた遥が立っていた。「そうか、ハクト君か……俺は紅月セナ、この学校に先生に今日なったんだ。よろしくね」
俺はハクトの頭を、撫でてあげた。ハクトは、嬉しそうな顔をしながら、うなづいた。
「ずるいよ、セナ先生! ボクも撫でてよ!」
遥がこちらへ駆け寄ってきて、俺のシャツを掴んで引っ張った。
「いや、これは、その、違うんだよ」
「何が違うの? ハクちゃんと遊んで、ボクのこと忘れてたんでしょう?!」
顔をいっぱいに膨らませて、遥が怒ったような表情を浮かべている。
「そ、それは……」
これが、この学校で今後も何度となく起きていく修羅場の――
一番最初の修羅場と、なったのであった。