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人と人との伍

けものノおんがえし 人と人との伍



 俺はルシエルと別れ、校舎へと再度入った。

 袖をめくり、腕に赤く残った噛み痕に、軽く息を吹きかける。

「痛っ……やれやれ、ふう〜……」

 あれからもルシエルに、しつこく何回も噛み付かれた。

「ったく……あんなに、ちっこくても、目がすごく真剣だからな〜」

 俺を食おうというのは、あながち嘘じゃないのかもしれない。

 そんなルシエルも、遠くから響いてきた、寺の鐘に慌てた様子で「ヤベェ! 親父に、門限やぶったコロサレルじゃないかよヴァカ! うわ〜ん……」と、泣きながら帰って行った。

 歩きながら腕時計を見る。

「五時過ぎか」

 今時、門限が五時とは、ああみえて、かなり厳しい家庭の子なのだろう。

 しつけの方向は、間違ってはないとおもうのだが、まずは、他人への噛み癖を直すべきだと思う。

 暗い校舎を進むと、一つだけ灯りの漏れた部屋に行き着く。

 入り口の上に掛けられた、白いプレートを見上げると、そこは職員室だとわかった。

「お、ここか」

 捲っていた袖を直し、濡れた上着を隠すように後ろで持ち、職員室の木製の扉を数回叩いた。

「失礼します」

 そう言って、扉を開け室内へと入ると、そこには、笑顔のやさしいお年寄りが座っていた。

「おお〜あなたが、紅月先生ですね? よう来なさった、よう来なさった〜私は、ここの教師をしとります、橋野です。よろしくお願いしますね〜」

 お年を召した老教師が、座ってた椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

「こちらこそ、よろしくお願い致します。新任の紅月セナです」

 歩いてきた老教師に、深々と頭を下げる。

「すいません、もう少し早くご挨拶をと、おもったのですが」

「いやいや〜都会からじゃあ、この里は遠かったでしょう〜?」

「ええ、まあ〜……いや、そ、そんなことは、けして!」

「いいのですよ〜私もね、この里に来た時は、ここへの道のりに、正直驚かされましたよ〜」

 老教師はそう言って笑った。

「はあ……あ、それで、ですね……他の先生方は、どこにいらっしゃいますか? ご挨拶をしときたいのですが」

「この学校の教師は、私一人なんですよ〜」

「え! 先生が全ての生徒を、みていらっしゃるのですか?」

「はい。生徒全員は、私の大事な大事な〜教え子です」

「そ、そうですか……では、そうしますと、私は何年のクラスを受け持てば、よろしいのでしょうか?」

「全学年、全クラスを、お願いします」

「はい! え、ええ?!」

「私はね、紅月先生」

「は、はい」

「この学校を、もう去らねばならないのですよ」

「えっ……それは、どういうことでしょうか?」

「そのままの意味ですよ。私は、今年……いや、紅月先生が、この学校に来てくださった時点で、もう定年退職することに、なっていたのですよ」

 少し寂しそうな表情を、老教師は浮かべ、ゆっくりと夕日の射し込む窓の方へと、歩いていった。

「そう、だったのですが……」

「ここから見える、山も、森も、そして里も、今日で見納めですね……ほんと、今日は綺麗な夕日です」

 どんな気持ちなのだろうか?

 毎日そこにあった風景が、もう明日には、見えないモノになるのは。

 いつかは、自分にもその気持ちが分かる日がくるのだろうか――


 かける言葉が、見つからない俺には、老教師の背中を見続けることしかできなかった。

「でも、よかったです」

 老教師は向き直って、俺の顔を微笑みながらみつめた。

「何がでしょうか?」

「あなたみたいな、真っ直ぐな目をした先生に、生徒達を託すことができて」

 老教師の顔が、この日もっとも、やさしい笑顔になった。


 自分の席に戻り、カバンを持ち上げ、帽子をかぶった老教師は、ゆっくりと扉の前まで歩いていった。

「では、紅月先生。お渡しした、そのノートに、必要とおもわれることは、全て書いてありますので」

「は、はい! 必ず読ませていただきます!」

 俺は老教師から譲り受けた、古い一冊のノートを力いっぱい前へ出した。

 老教師は微笑み、軽く会釈をすると、扉を開けて職員室を出ていった。

「……橋野先生!」

 廊下に急いで出てきた俺に、老教師は驚くこともなく振り返った。

「じゃあ、後は頼みましたよ、紅月先生」

「は、はい! 今日まで……お疲れ様でした」

 こんな短い言葉しか、去っていく老教師に、俺はかけることしかできなかった。

 俺は、老教師が見えなくなるまで、頭を下げ見送った。

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