第八十九幕 ~焔光の力~
レティシア城を後にしたヨシュアは、広場に停まっている一台の馬車へと乗り込んだ。御者は備え付きのカンテラに火を灯すと、軽快に手綱を振るう。二頭立ての馬車はゆっくりとした速度を保ちながら城門に向かって進み始めた。
(──それにしても意外と王都は平穏だな。余程統制がとれているか、それともただ呑気なだけなのか……この風景だけを切り取れば、まさか王国が滅亡の危機に瀕しているとは誰も思うまい)
仲睦ましく歩く男女や千鳥足の男など、ヨシュアの瞳に映っては消えていく。やがてレティシア城が豆粒大ほどの大きさになったところで、軽いノック音が馬車内に響いた。それとほぼ同時に左の扉が開き、ひとりの男が滑り込むように入ってくる。
「何か不備はございませんでしたか?」
男はヨシュアの正面に腰かけるや否や、義眼を鈍く光らせながら尋ねてきた。
「いいや。実に見事な御膳立てだった。さすがは梟だな」
弱体化しているとはいえ、素性の知れぬ人間が立ち入れるほど王国の警備は甘くない。ましてや元帥を始めとし、将校や有力な貴族などが集う宴である。これはひとえに梟が得意とする情報操作があったればこそだ。
「恐れ入ります。ヨハン上級千人翔に──」
「おいおい。今の俺はヨハン・ストライダーではない。ファーネスト王国の辺境貴族、ヨシュア・リヒャルトだろう?」
ニヤリと笑ったヨハンに対し、ゼファーは苦笑を浮かべる。
「失礼いたしました──それで、件の人物はいかがでした?」
「オリビア・ヴァレッドストームか……まさに絶世という言葉に相応しい美貌の持ち主だった。神国メキアでもあれほどの者はちょっとお目にかかれない。こんなにも心がざわついたのは、生まれて初めてかもしれないなぁ」
コロコロと表情を変化させるオリビアを思い出していると、ゼファーが呆れたような顔を向けてきた。
「容姿については仰る通りだと思います。但し聖天使様を除けば、ですが。しかしながらお聞きしたいのはそういうことではなく……」
ヨハンは笑った。
「わかっている。そうだなぁ……一言で表すのなら、ありゃ化物だ。まぁ、俺たち魔法士も普通の人間からしたら化け物に見えるんだろうが」
オリビアを踊りに誘ったのは伊達や酔狂からではない。踊りとはいえ、ある程度の動きを見れば力量を計れると思ったからだ。隙あればちょっかいをかけてみようとも企んでいたが、実際はオリビアの動きに合わせるので手一杯だった。それだけ身体能力が図抜けているということだ。
「やはりヨシュア様もそうお感じになりましたか。まさにあの少女は人という枠から大きく外れた位置に立っていると思われます」
「死神の異名は伊達じゃないってことだな」
「いかにも」
大きく首肯するゼファー。舗装された道を過ぎたのか、時折馬車が大きく揺れている。ヨハンは銀色の光に照らされた平原を眺めながら告げた。
「ゼファーの見立ては的を射ていると俺も思う。どうやら本格的に実力を計るには、命をかけて臨まないといけなさそうだ」
頭をかきながらカラカラと笑って見せる。窓越しに映るゼファーの顔は苦虫を噛み潰したかのような表情をしていた。
「ヨシュア様。あなたは神国メキアにとってなくてはならぬお人。聖天使様の仰られたお言葉をゆめゆめお忘れなきよう」
「そう心配するな。俺が死んだら聖天使様はともかくとして、アメリア嬢あたりには墓石に蹴りをぶち込まれそうだし。なにより嘆き悲しむ女が両手の指では足りない。そんな残酷な仕打ちをするわけにもいかないからな」
ゼファーに向き直り、おどけた仕草で肩をすくめて見せた。実際のところ、足の指を加えても足りない可能性がある。博愛主義者、ここに極まりだ。
「その言葉を聞いて安堵いたしました。それでも万が一の時は、我々梟がヨシュア様の盾となりますので」
決意を込めた表情を滲ませるゼファー。その様子にヨハンは息をつくと、ゼファーの目を真っ直ぐ見据えた。
「ひとつ、ゼファーの勘違いを正しておく。お前たち梟も神国メキアにとってなくてはならない存在だ。聖天使様が今の言葉を聞いたら叱責を受けるぞ。わかったら二度とそのような言葉を口にするな」
「……梟衆を代表して感謝の言葉を」
ゼファーが深々と頭を垂れたその時、馬の嘶きと共に馬車が急停止をした。互いに前のめりになった身体を支え合っていると、正面の小窓がサッと開き、御者が顔を覗かせた。
「申し訳ありません。どうやら野盗に取り囲まれたようです」
「野盗? 人数は?」
「およそ……五十人程かと」
御者は落ち着いた声色で言う。
「ふっ。たかが一台の馬車に小隊規模でお出迎えか。また随分と人気者じゃないか」
「すぐに私が露払いを」
素早く扉に手を掛けるゼファーの肩をヨハンは掴んだ。
「俺がやろう」
「ヨシュア様が? ──たかが野盗です。頭目を殺せば霧散するでしょう。ヨシュア様自ら出るまでもないと思うのですが……」
一瞬驚き、すぐに困惑した様子でゼファーは再考を求めてくる。
「そう言うな。オリビアの実力を計る前の丁度良い肩慣らしになる。久しくこれも使っていなかったからな」
左手の甲に刻まれた焔光の魔法陣をかざしながらヨハンは微笑んだ。
蟻の這い出る隙間もないよう部下に包囲させたバーナードは、精緻な彫り物がされた黒塗りの馬車を眺めて舌なめずりした。
(これほどの馬車に乗っている人物ならいくらでも金をしぼりとれそうだ。今夜はかなりついているな)
王都から南に広がるズム平原を縄張りにしているバーナード野盗団だったが、最近では獲物が全く引っかからなかった。というのも頻繁に仕事を行った結果、噂が広がってしまったからに他ならない。
さすがに縄張りの変更を視野に入れていたそんな折、一台の高級馬車が護衛もつけず、車輪の音を盛大に響かせながらやってきた。まるで気づいてくれと言わんばかりに。それだけに今回の獲物は濡れ手に粟と言えた。
「おらおら! さっさと出てこねえか! 馬車ごとサクッと燃やしちまうぞ!」
「もしかして怖くて出てこられないのでちゅかー」
「おい! そこのボーっとしたうすらでかい御者! さっさと馬車から降りるよう、まぬけなご主人様に伝えろ!」
部下たちが口々にわめき立てながら、馬車の窓に向けて武器をチラつかせている。やがて観念したのか、金で縁取られた扉がゆっくりと開かれていく。
(くくくっ。どこぞのボンボン貴族で間違いなしだな)
バーナードは思わず口の端を吊り上げた。姿を現したのは綺麗な顔立ちをした黒髪の男。おそらくパーティからの帰りだろう。金糸と銀糸の刺繍が贅沢に施された純白の衣装を身につけている。
続いて灰色のマントを被った義眼の男がのっそりと出てきた。従者にしては出で立ちが異様だと感じたが、マントの隙間から見え隠れする大きな金袋を見て、そんな考えも一瞬で吹き飛んだ。
「ようやく出てきたか──で、お前たち二人だけか? 女はいないのか?」
馬車の中を覗き込みながら鼻歌交じりに尋ねると、黒髪の男は不思議そうな表情を覗かせる。
「女は乗せていない。まぁ、見ての通りだが」
「チッ! ……まぁ、しゃあねえな。贅沢を言ったらきりがねえ。とりあえず今持っている金目のものを全てよこしな。話はそれからだ」
そう言って手を出したバーナードを、黒髪の男はただ黙って見つめている。義眼の男も同様だ。
「おい! なに二人してだんまりを決め込んでいるんだ? あまりの恐怖に口も利けなくなっちまったのか?」
部下たちからどっと下卑た笑いが起きる。すると、黒髪の男はおどけるように両手を広げた。
「いや、失敬。ちょっとばかり新鮮だったのでつい。それにしても野盗とは皆こんなに粗雑なのか?」
黒髪の男がそう言い、義眼の男に視線を向ける。周りを見渡した義眼の男は堂々と口を開いた。
「ヨシュア様、この野盗はまだましです。身なりはそこそこ小奇麗ですから。中には酷い悪臭を放ち、こちらの鼻が曲がりそうな者もいます」
「ほう、そういうものなのか」
「はい、そういうものです」
二人はお互い顔を見合わせ、呑気に笑っている。五十人からなる野盗に囲まれているにもかかわらずだ。不遜とも言える態度に、バーナードの中に微かな疑心が芽生え始めた。
「──てめえらのその余裕ぶった態度はなんだ? まさかこの人数相手に、たった三人でどうにかできると思っていないよな?」
バーナードが右手を上げる。部下たちは一転、目をぎらつかせながら一斉に剣を構えだした。普通の者なら泣いて命乞いをする場面である。だが、やはり二人の男は全く意に返さない。御者も台からピクリとも動かず、無表情で事の様子を眺めている。
「それより後学のため聞きたいんだが、もし女がいたらどうするつもりだ?」
「あ!? 犯して犯して犯しつくすに決まっているだろ! 話反らしているんじゃねえぞッ!」
部下のひとりが声を荒げて言い放つ。途端ヨシュアの顔から笑みが消え、双眸がスッと細まった。
「実に不快極まる発言だ。お前たちは木の股から生まれたのか? 女を軽んじる者に生きる価値などない」
ヨシュアが左手の指を弾く。それとほぼ時を同じくして、耳をつんざくような叫び声が上がった。振り返ったバーナードが見たもの。それは部下の右腕から炎が吹き上がっている光景だった。
「ななななっ?! なんで俺の右腕から炎が?! は、はやく誰でもいいから消してくれッ!!」
「急にそんなこと言われたって、水なんかねえよッ!」
部下は地面に転がりながら炎を消そうと試みるも、全く消える気配はない。周りの部下たちが右往左往する中、パチンパチンと指を弾く音だけが響き渡る。その度に左腕、右足、左足と炎が次々に噴き出していく。最後は頭に炎が吹き上がり、それっきり動かなくなった。
「「「…………」」」
消炭となった死体を唖然と見つめる部下たち。バーナードはカラカラになった喉を唾で必死に湿らせながら、ヨシュアにおそるおそる尋ねた。
「い、今のはお前がやったことなのか?」
「君たちの中に同じことができる人間がいるとでも? もしいるのなら我が聖翔軍に迎えることもやぶさかではないが」
ヨシュアは薄い笑みを浮かべて言う。
(やっぱりこいつの仕業か。油をかけて火を放ったのならまだ理解もできる。だが、そんな素振りは全くなかった。指を鳴らしただけで火をつける? そんな芸当、人間にできるわけがない!)
大量の汗と共に言い知れぬ恐怖が、バーナードの中で一気に膨れ上がった。それと同時に悟る。得体が知れないものの、目の前の男は間違いなく上位捕食者。そんな相手に対してやることなどただひとつである。
「逃げるぞッ!」
脱兎のごとく駆け出すバーナードを見て、部下たちも堰を切ったように逃げ始める。が──
「逃がすわけないだろう」
バーナードたちの行く手を阻むが如く、目の前に巨大な炎が吹き上がる。
(さっきから一体なんなのだ?!)
次々と起こる現実離れした光景に、バーナードの頭は混乱した。右へ逃げようと左に逃げようと、その度に吹き上がる炎に退路を断たれる。ついには大半の部下もろとも炎の輪に追い込まれてしまった。なんとか逃げおおせた者も、いつの間にか馬車を降りた御者によって殴り殺されている。
「お願いですから見逃してください!」
「こんな奇跡みたいなことができるなんて知っていたら、あんたたちを絶対襲わなかったよ!」
部下たちが必死に命乞いを始める姿を、ヨシュアは冷めた表情で見つめている。このままだと炎に焼かれるのは時間の問題だ。
「ヨシュア──さん。ここは交渉といこう」
「交渉?」
「そうだ。しかもヨシュアさんに利益をもたらす交渉だ」
ヨシュアは顎をひとしきり撫でた後、口を開く。
「──いいだろう。お前が言う交渉の内容に興味がある。話してみろ」
「そうこなくっちゃ! もし見逃してくれるならアジトに貯め込んでいる財宝を全て差し出す。それと、上玉の女も何人か囲っているんだ。そいつらもまとめて全部くれてやる。皆良い声で鳴いてくれるぜ。ただ逃げられないよう足の腱は切っているが、それくらい問題ないだろう? ヨシュアさんにとって損にならない、むしろ得にしかならない交渉だ。だから、な」
バーナードは必死に説得を試みた。金はいつでも奪える。女もまたさらえばいい。しかし、今まさに尽きようとしている己の命だけは代替えがきかない。
(頼む! 頼むから交渉に応じてくれ!)
だが必死の願いもむなしく、虫けらを見るような目と共に返ってきた言葉は──
「風華焔光輪。我が炎に触れし者、その一切の痕跡を消し去ると知れ」
ヨシュアが左手を握りしめると同時に、赤い閃光がほとばしる。すると、炎の輪が大きくうねりながら一気に縮まってきた。一番外側にいた部下たちに炎が燃え移ると、彼らは断末魔を上げながらサラサラと砂のように崩れ落ちていく。
「はははっ! こんな馬鹿げたことが現実に起こるものか! そうだ! これは夢だ! それもたちの悪い夢に違いない!」
眼前に広がる悪夢のような光景に、バーナードは天に向かってただただ笑うのみであった。
「──お見事です。魔法の神髄、しかとこの目で見させていただきました」
「……ひとりだけは生かしておけ。やつらのアジトへ案内させる」
「はっ!」
暴れる野盗を羽交い絞めにしたゼファーが、喉元に短剣をあてがいながら返事をする。ふいに一陣の風がフワリと吹き、かつて人であった大量の黒砂を夜空に舞い上げていく。
その光景をヨハンはただ黙って見上げていた。




