第七十九幕 ~フライベルク高原の戦い~ 其の壱
──中央戦線
グラーデンから第二軍の攻略を一任されたパトリック中将は、敵が構築した防御陣を次々に突破。最終防衛ラインと思われるフライベルク高原に足を踏み入れていた。ここを突破すれば王都への進撃が俄然現実味を帯びてくる。
「どうやらここを自らの墓標と定めたか」
「ええ、ようやく追い詰めましたな」
副官であるアレッシー少佐が、前方にはためく金獅子に二つ星──第二軍旗を眺めながら言う。
「しかしよくもここまで小賢しい手を考えつくものだ」
正面から堂々と戦うことに意義を見出しているパトリックではあったが、だからといって相手に強要できるはずもない。それでも鋼線による進軍妨害に、川の水を引き込み造られた深沼。そうかと思えば至極単純な落とし穴など、およそ正々堂々といった類のものではなく、自身の矜持を深く傷つけられたような気がした。
「そうはおっしゃいますが、戦争に綺麗事など存在しません。罠に落とすも落とされるもまた戦。敵将は戦のことを知り尽くしているのです。我が軍に迎え入れたいほどですな」
「ふん。随分と敵を持ち上げるではないか」
「敵だろうと優れた者には惜しみない称賛を送る。それはごく当然のことです」
兵学者としての一面をもつアレッシーが、訳知り顔で述べてくる。そのことがくすぶっていた苛立ちを爆発させた。
「そんなことはいちいち口に出さずともいい! だいたいお前は昔から一言多いのだ!」
アレッシーは苦笑しながら大きく肩を竦めた。
「……しかし、敵は魚鱗の構えをとっている。あくまでも抵抗を続けるつもりか」
「おそらく第一軍の援軍を知ったのでしょう。敵の戦意が今だ衰えないのはそのためかと」
「どうやら元帥閣下が放たれた工作部隊は、情報封鎖に失敗したとみえる」
「そのようですな。まぁ、そこまで当てにしてもいませんでしたが」
パトリックはアレッシーに向かって鼻を鳴らす。
「無論だ。元帥閣下には申し訳ないが、搦め手を使わずとも正面から打ち破ればいいだけの話だからな」
「それで、これからどう動きます? まずは複数の部隊を先行させて敵の出方を観察しますか?」
「それこそ愚問というものだ。アレッシーは何年副官を務めている。俺の考えなどとうにわかっているだろう?」
「まぁ、基本的に閣下はかなりわかりやすいですから」
そう言うと、アレッシーが口の端を吊り上げる。どうにも口の減らない男ではあるが、優秀なだけにパトリックとしても重宝している。
「ぬかせ。我が軍にあるのはただただ制圧前進のみ。様子を見るなどといったまどろっこしいことは性に合わん。第二軍が魚鱗の構えで来るのなら、こちらは鶴翼でもって包囲殲滅するまでだ」
「ではすぐに手配します」
踵を返したアレッシーは、伝令兵の待機所へと向かっていった。
ブラッドとリーゼは高台から戦況を観察していた。
天陽の騎士団との戦闘が始まってからすでに二週間。コルネリアス率いる第一軍が敵の主力を引きつけてくれたおかげで、負担は大分軽くなった。それでもなお兵力差があり、兵の消耗も著しい。士気はなんとか保たれているが、そう遠くないうちに限界点を突破するのは明らかだった。
「閣下、敵に大きな動きが見られます」
視線の先、敵の軍勢が左右に広がりながら三日月状に形作られていく。無駄のない動きをしており、展開はかなり早い。
「敵の陣は鶴翼か……」
「我々が魚鱗の陣を展開しているからでしょうか?」
「おそらくその判断で間違いないだろう。こちらの戦意が喪失していないことを知って、一気に蹴りをつける腹づもりらしい」
「どう対処いたしますか?」
そう尋ねてくるリーゼの表情は暗い。彼女もこの戦いに勝機がないことはわかっているのだろう。だが、勝てないまでも負けない戦いに徹することは可能だ。
「……翼は両方揃って初めて大空をはばたくことができる」
「つまり片翼を潰し、一時的な行動不能状態に追い込むのですね」
リーゼが即答する。相変わらずの頭の切れにブラッドは内心で苦笑する。
「そうだ。実に情けないが今の俺たちにできることといえば、ただの時間稼ぎくらいだ。それまでに第一軍が勝利することを祈るしかない」
ブラッドの意を汲んだリーゼは伝令兵に次々と指示を飛ばしていく。その姿を横目で見ながら煙草に火をつけた。紫煙が一本の糸のように立ち昇っていく。
「──それにしても、オリビア少佐はまだ到着しませんね。今はひとりでも多くの味方が欲しいところですが」
一通り指示を終えたリーゼがふと口にする。すでにこちらに向けて動いているとの情報は受けていたが、今のところオリビアが現れる気配はなかった。
「まともな部隊ならいざ知らず、所詮寄せ集めの兵だからな」
「統率するのに手を焼いている、ということですか?」
「その可能性は十分にあり得る」
「ですが、すぐそこまで近づいているかもしれません」
ブラッドはリーゼの言葉に頷いて見せた。
「否定はしない。だが、いずれにしてもあまりあてにしないことだ」
リーゼの言う通り、今このときに六千からなる援軍は非常に魅力的だ。普通ならもろ手を上げて歓迎するところではある。しかし、統率されていない部隊はある意味敵よりも厄介な存在だ。下手をするとこちらの指揮系統を乱し、崩壊の要因ともなり得る。それだけにブラッドの胸中は複雑だった。
「──よし、我々も動くぞ。時間稼ぎとはいえ、敵の陣が完成するのを待ってやる必要はない。若干動きが鈍い左翼を狙う」
「はっ!」
ブラッドの号令の元、第二軍は敵左翼に向かって進撃を開始した。
──激戦が始まった。
パトリックは第二軍が右翼に向けて進撃を開始したことを見るや否や、重装大盾兵を前面に立たせる。部隊指揮官の号令と共に、一糸乱れぬ動きで大盾が左右前後へと隙間なく並べられた。天陽の騎士団が得意とする防御陣《天守の構え》である。
攻撃を仕掛けたブラッドは守りが固いと見るやすぐに転進。今度は右翼に向けて攻撃を集中させた。凡将であれば事前の作戦通りに事を進めようとするが、この切返しの速さこそがブラッドを第二軍の将たらしめている。これに対しパトリックもまた、中央の兵を左翼に振り向け迅速に対応する。
二人の優秀な指揮官による一進一退の攻防が続いていく。
──戦いが始まってから七時間。
さきにほころびが生じたのは第二軍だった。一瞬の隙をつかれ、防御陣の一画が突き崩される。攻勢を得意とするパトリックがその隙を逃すはずもなく、穿たれた穴に向かって一気に突撃を仕掛けた。ブラッドはすぐさま穴を塞ぐべく予備兵力を投入するが、伏兵によって妨害される。このことが両軍の趨勢を決定づけた。
「閣下ッ!」
「穴を塞ぐ暇も与えないか。なかなかどうして、これはかなりのやり手だな」
「感心している場合ではありません!」
「その通りだ。そしてこうなった以上、最早分断されるのも時間の問題だろう。その後に待っているのは……言わなくともわかるな?」
「では……」
リーゼの薄い唇が僅かに震える。
「残念だがここまでだ。これより第二軍は撤退行動に移る。ここより東のカスツール盆地に行け。あそこなら堅固な陣を張ることができる。それまでは俺が三千の兵と共にこの場で敵を釘付けにする」
「では私も最後までお供させていただきます」
リーゼは一歩前に出ると強い口調で言った。眼鏡越しでもわかる深い青色の瞳は、絶対に譲らないという強い思いが感じられる。そんな彼女の細い肩をブラッドは優しく叩いた。
「ダメだ。ここで戦いは終わりではない。リーゼ大尉にはひとりでも多くの味方を逃がす義務がある。いいか、これは命令だ」
「アダム少将を始め、適任者はほかにいくらでもいます。それに理不尽な命令を受けた場合、副官には拒否する権利が与えられています」
「……初耳だな。そんな軍紀があったか?」
おぼろげな記憶を辿るも一向に思い出せない。そもそも、そんな軍紀があるのなら副官時代に幾度となく活用していたはずだ。
「ありません。今、私が作りました」
ぬけぬけと真顔で言うリーゼ。切迫した状況にもかかわらず、ブラッドは思わず吹き出してしまった。
「なかなか豪胆だな。ここにきてそんな冗談が言えるなら大丈夫だろう」
「冗談なのではありません。私は閣下と共に最後まで戦い──共に死にます」
「大尉、いい加減にしろ。それにまだ死ぬと決まったわけでもなければ、死ぬつもりも毛頭ない。前にも言ったと思うが、国のために命をかけるなんて俺のガラじゃないからな」
「ではなおさら問題ありませんね」
リーゼは透き通った笑みを浮かべると、ブラッドに寄り添ってきた。
「リーゼ、頼むから聞き分けてくれ。もうそれほど時間は残されていないんだ」
「…………」
「リーゼ?」
「…………」
「リーゼ、聞いているのかッ!」
リーゼは全く返事をしない。呆けたような表情を浮かべながらブラッドの背後を凝視している。半ば釣られるように後ろを振り返ると──
「ふっ、ここにきてようやくのご到着か。それにしても随分と派手な登場だな」
丘の上、漆黒の鎧に身を固めた女が威風堂々と立っている。
その隣では、髑髏に二挺の大鎌が描かれた黒旗が雄々しくはためいていた。