第百二十四幕 ~目覚め~
なにかにつつかれているような感覚を覚えてアシュトンは目を覚ました。ぼやける視界で感覚の元になっている左腕に視線を移すと、死喰い鳥がくちばしでつついている。
「僕はまだ死んでいないぞッ!!」
思わず飛び起きたアシュトンは、全身に激しい傷みが走り思わず悲鳴を上げた。死喰い鳥はアシュトンを威嚇するように艶のある黒々とした羽を大きく広げ、不気味な鳴き声を上げながら空の彼方へ飛び去って行った。
「────っぅ。そうか。僕はなにかに吹き飛ばされて崖から落ちたんだ……」
目の前には見知らぬ光景が広がっている。少なくとも先程までいた森の中でないことだけはわかった。改めて自分の体を確認すると、肌が露出している部分に擦過傷が見られる。全身もずぶ濡れで川に落ちたことは明白だった。
(それにしても川に落ちたのは不幸中の幸いだった。落ちたところが地面だったら即死していたに違いない)
それにしてもとアシュトンは思う。即死は免れても意識を失って川に落ちたのなら溺れるのは必至だ。つまり、どちらにしても死んでいたことにかわりはない。
にもかかわらず、今もこうして生きている。これは十分異常な状態だ。
(まさか無意識で泳いで川を脱出したとも思えない。大体僕はそれほど泳ぎが得意ってわけじゃないし。……そういえば前にも似たようなことがあったな)
以前川で溺れかけてオリビアに笑われたことを思い出していると、いきなり背後から声をかけられ、アシュトンは大きな叫び声を上げてしまった。
「その様子なら大事じゃないみたい。運が良かったね」
痛みを覚えながら振り返ったアシュトンの瞳に、薪を抱えた女性が映しだされた。緑色のマントを羽織り、背中に弓と矢を背負っている。恰好からして狩人ではないかとアシュトンはあたりをつけていると、女性はその場にしゃがみ込み、手慣れた様子で火を起こし始めた。
「……もしかしてあなたが僕を助けてくれたのですか?」
「もしかしなくてもそうだよ」
女性はこちらを振り返りもせず、ぶっきらぼうに言う。程なくして細長い煙が立ち昇るのを見つめながら、アシュトンは礼を述べた。
「助けていただいてありがとうございます。失礼ですが名前を聞いても? 僕はアシュトンと言います」
「あんたの名前に興味はないけど……あたしはステイシア。そんなことよりさ。お金を貰ってもいいかな? ただで助けるほど私ってお人好しじゃないから」
炎が上がったのを確認したステイシアは、アシュトンを見降ろすように立つと、ぶっきらぼうに右手を差し出してきた。結った長い黒髪に整った顔立ち。よく見ると年齢は自分とそう変わらないように見える。
「ねぇ聞いてる?」
「ええと。お金でしたよね?」
「そ、聖翔軍じゃないみたいだけど、それなりの地位にいるんでしょう? その軍服、結構いい生地使っているみたいだし」
「まぁそれなりには。だけど今は持ち合わせが……」
助けた理由はどうであれ、命の恩人であるステイシアに礼としてお金を渡すのは構わない。ただ、狩りにお金が必要なはずもなく、自分の部屋に置きっぱなしだ。
「そんなことはさっき調べたからわかっている」
ステイシアはアシュトンの懐辺りを見つめながら平然と言った。
「調べたって……」
慌てて自分の体をまさぐるアシュトンを見て、ステイシアはなにかを思い出したような表情で懐に手を突っ込んだ。
「もしかしてあんたが必死に探しているものってこれ?」
ステイシアはこれみよがしに銀色のペンをアシュトンの前にぶら下げてみせた。アシュトンが慌てて手を伸ばすも、ペンはスーッと引き離れていく。
アシュトンはステイシアを睨みつけた。
「返してください」
「ふーん。こんなものに必死になるんだ。どうみても価値があるようには見えないけど?」
ペンを目の前に掲げたステイシアは、不思議そうに眺めながら言う。
「価値観は人それぞれです。そんなことよりペンを返してください。勝手に僕の懐を漁って……ステイシアさんは泥棒ですか?」
「おいおい。命を救ってやった恩人に対して泥棒はないだろう。川に流されているあんたを担いでここまで運ぶのに結構な労力を使ったっていうのに」
「助けてくれたことにはもちろん感謝しています。ですが勝手に人の懐をあさっていい理由にはなりません」
ステイシアはペンを懐に戻すと、アシュトンを繁々と見つめてきた。
「まさか貴族じゃないよな?」
「それと今の話となにが──」
「いいから答えて」
ステイシアの剣幕に押される形でアシュトンはすごすごと答える。
「平民ですが……」
「なら大方商家の息子といったところか」
ステイシアは得心が行ったように何度も頷いている。彼女がなにを言いたいのかさっぱりわからず、相手が命の恩人であることも忘れ、だんだん腹が立ってきた。
「商家の息子だったらなにか問題でも?」
「別に問題はないよ。ただ、あんたはさぞや上品に育てられたんだろうと思っただけさ」
「だからさっきからなにが言いた──」
突然アシュトンの髪を乱暴に掴むステイシア。驚きで身を固めるアシュトンに、ステイシアは吐き捨てるように言った。
「いいかいお坊ちゃん。よく聞きな。私が助けなかったらあんたは間違いなく死んでいた。その時点でそれはもう誰のものでもないんだよ。つまりあんたが身に着けているものは当然として、あんた自身も私のものなんだよ」
「…………」
「少しは理解してくれたかい? アシュトンお坊ちゃん」
薄ら笑いを浮かべたステイシアは、アシュトンの額をピンと指で弾く。クラウディアのそれとは違う、なんとも無機質な痛みだった。




