02 やてべお
裏野ハイツ公式設定
【201】号室 70代女性、年金暮らし
気さくな面倒見の良いお婆さんで、ここに住み始めてもう20年は経つそうだ。お孫さんのボロボロの写真を大事に持っているが、家族らしき人が会いに来るのを見たことがない。
大学で知り合ったLINE仲間と急遽遊び仲間の募集が入り、平日の昼過ぎから夜まで遊び倒した。多少遊び疲れた感はあったが、帰りの電車の中でも遊びの興奮が冷めやらぬように、話題は尽きず楽しい時間が続いている。ボウリングやカラオケといった定番とはいえ少し古く、その微かなレトロ感がいつもとは違った高揚をもたらしていた。
周りを見ると自分達とは違った意味で疲れている会社員たちが迷惑そうにこちらを見ているが、それすらも自分達だけが持つ大学生という特権を羨む視線のように思えてくる。ふと気づくと、こちらをみる乗客の中に一人周囲に全く溶け込んでいない男性がいた。その男性は周囲の会社員と同じような格好をしているものの、なぜか特異な雰囲気を纏ったまま電車に揺られている。男性はスマートフォンを片手に何か偏執じみた笑みを浮かべていた。
怖いもの見たさというべき好奇心がそそり、友達同士と話をしながらもその男性をなんとはなしに見続けていると、スマートフォンにつけられたストラップが電車内の光を反射して煌めいた。そこには大きな眼球を模した飾りが付けられていて、その眼球はこちらを恨めしそうに見ている気がした。高揚した気分が消え去っていく。
「気持ち悪っ。なんだよあれ」
「どうしたの、いきなり」
「なんかあのサラリーマンの眼球がこっちを見てたんだよ」
「そりゃ見るでしょ、目なんだから。それより、ここってあんたが降りる駅じゃなかった?」
「そう言うことじゃねぇよ。うげっ、あのサラリーマンも同じ駅かよ。なんか嫌だな」
LINE仲間との挨拶もそこそこに電車を降りる。電車で別れたからといっても、短文による会話はスマートフォンの中で続いていたので本当に別れたとは思えない。スマートフォンに映る時計を見ると、夜とはいえ一人家で過ごすにはまだ早いような気がした。
駅の近くのコンビニで発売されて日が経っている週刊漫画雑誌を立ち読みしていると、30代ぐらいの子連れの女性とぶつかってしまった。謝罪する軽い会釈のあとそのまま通り過ぎていくが、その際、幼い子供特有の何を考えているかわからない瞳がこちらを不気味に見つめていた。漫画を読むような気分でもなくなってしまった。仲間と遊んでいた時にはたしかにあった興奮が今は微塵も感じられない。
あの電車での気味悪さが始まりだと思い出す。夏特有のじっとりと湿ったような夜の空気が肌にまとわりつく。あの眼球に見られた時のようにゾクッとした寒気が背中を走る。そんな感覚に対して虚勢を張るように、幾つかアルコール飲料を購入して店を出る。軽く飲みながら自宅まで続く道を歩いていると、寒気が酔いに塗りつぶされていく。
鼻歌交じりに歩いていると、一件の古いハイツが見えてきた。ハイツ入口にある看板には裏野ハイツと書かれていた。自宅ではない。自宅はもっと先にある。何の変哲もない古いハイツだが、そのハイツを見た時になぜか電車の中の眼球やコンビニの子供の目がこちらを見ている情景が頭をよぎった。気味の悪い建物として写真をLINEにのせようかとも考えたが、この気味の悪さを理解してもらえるとは思えなかった。いつの間にか鼻歌も歩みも止めて、赤らんだ顔のままその建物に見入っていた。
「よう来た。よう来た」
突然かけらた声に驚いて後ずさる。いつの間にいたのだろうか。気づかなかったのがおかしいほどの距離で、70代ぐらいの婆さんが人のよい笑みを浮かべて佇んでいた。
「なっ、なんだよ、あんた」
「遠かっただろう。よう来たね」
「婆さん、人違いだよ。他の誰かと勘違いしているよ」
「間違ってなんかおらんよ。ほれ、間違ってなんかないだろう」
婆さんはそう言うと一枚のボロボロの写真を見せてきた。写真には孫だろうか一人の子供が写っている。この婆さんは呆けが始まっているのだろうか。孫と自分を勘違いしているのだろうが、写真の子とは年も背格好も全く違う。
婆さんにやっぱり人違いだと言おうとした時にふといたずら心が走った。アルコールのせいで気が大きなっていたのだと思うが、気味悪い場所と呆けた婆さんという組み合わせは仲間内に話すネタにいいかもしれない。少し話に付き合ってやろうと思い、手に持っていたスマートフォンをパンツのポケットにしまう。
「お婆ちゃん。遠かったけど会いに来たよ」
「うんうん。会いに来てくれて婆は嬉しいよ。疲れたろぅ。あがってくかい。どれくらいいられるんだい」
ハイツの2階角の部屋に婆さんが目を向ける。話には付き合うが、家にあがるなんて死んでもゴメンだ。
「あがるのはまた今度でいいよ。そんなに長くはいられないんだよ。ごめんね、お婆ちゃん」
「いいんだよぉ。来てくれただけでありがたいんだから。それじゃ花だけでも見ていくかい。咲くのを楽しみにしていたからねぇ」
婆さんはそう言うと自分の手を掴む。水気の少ない皺ついた皮膚の感触に手を振りほどきそうになる。しかし、ここで振りほどいてしまっては呆けた婆さんと挨拶を交わしただけの話になってしまう。そんな話を仲間内にしたところで、何の笑いも驚きも得られない。
なんとか振りほどきたい衝動を我慢して、婆さんに導かれるままハイツの裏手に回る。夜の闇が一層暗くなった。とたんに不気味さが増してきたが、それでも逃げ出そうとすれば何時でも逃げられる気がする。足の速さで負けるとも思えないし、少し走れば夜とはいえ人通りの多い道に出られる。そう自分に言い聞かせた。
これは空きスペースなのだろうか。駐輪場のような場所の裏にあるポッカリと空いた空間を前にして婆さんが歩くのをやめる。
「ほれ、綺麗に咲いているだろう」
そこには一輪の何の変哲もない向日葵が植えてあった。この時期には咲いていてもおかしくないと思うが、それは蕾のまま地面を見つめていた。
「お婆ちゃん。まだ咲いてないじゃないか」
「あら本当だ。おかしいねぇ、咲いたと思ったのにまだだったんかねぇ」
「いや、残念だよ。咲くのが楽しみだったから」
「婆も本当に残念だよ。でも、喜んでくれるよ」
何がと問いかけようとした時に婆さんが軽く背中を押した。地面が抜けるような感覚と浮遊感が身体を襲い、視界に映る婆さんの姿が急速に上昇していった。自分が落下していると気づいた時には、足がつかないほどに深い水底へと着水していた。粘ついた水をかき分け、なんとか頭だけでも水から脱した。見上げれば3メートルぐらい上の方で穴の入り口から婆さんが微笑みながら覗いている。婆さんに向けて大声で叫ぶ。
「何しやがんだ」
「本当によう来てくれたね」
婆さんの小さく語る嗄れた声が距離が離れているというのによく耳に響く。
「咲くのを孫が楽しみにしていてねぇ」
「助けろよ。聞いてんのか、婆さん」
「あがるのは無理だけど、長くいてくれていいからね」
「おい、聞いてんのか」
「ありがとねぇ、孫に会いに来てくれて。孫も喜んでくれとるよ」
婆さんはその言葉を最後に、穴を蓋のようなもので閉め始めた。
「おい、やめろ。閉めるな。助けてくれよ」
どれだけ叫んでも、自分の声の反響しか帰ってこない。蓋が閉め終わった時にはあたりは闇に包まれていた。とても深い空間ではあるが、広くはなかった。
手を軽く伸ばそうとすると、すぐに硬く滑る壁に手がついてしまう。凹凸でもあれば登れるのだが、壁は磨かれたように平面だった。
着水した際に水没して壊れたかも知れないが、一縷の望みを託してスマートフォンを取り出そうとパンツのポケット部分に手を伸ばすと、水の中で何かが手にぶつかった。その何かを掴んで引き上げてみると、生きていないことが分かるほどにやせ細って骨と皮だけになった人の手があった。水に長く浸かると浸かると膨張してボロボロに崩れると思うが、輪郭を保ちながらも信じられないほど枯れ枯れとしている手が自分の腕に絡みついてくる。
「ひぃっ」
情けない声を上げ、その手を振りほどこうとするも狭い空間でなかなか振りほどけない。その手を直視できず、少しでも遠くに追いやるために後ろを向く。一面黒しか見えない暗闇の中で、後ろの壁には何やら白い奔流のような曲がりくねった長い線が入っていた。水底の奥から上の地表まで続くその線を辿るように視線を上げていくと、入口に近い場所で何やら乳白色の塊に長い線が絡んでいるのが見えた。小さな子どもの髑髏が向日葵の根に絡まりながら楽しげにケタケタと笑っていた。
静かにぽっかり空いた遊び場で、蕾のままの向日葵が楽しそうに地面を見つめている。