第2話:地中海にて、ガルム帝国への旅路
イリアーノの地形は、俺の記憶にあるイタリアと良く似ている。
ならば、漕ぎ出したこの海は地中海であろう。
面白いことに、この世界でもこの海を地中海と呼ぶらしい。
この海のほかには、ガルム帝国と南の傭兵王国ディアスポラの間に、血海という海が存在している。
俺たちが乗り込んだ帆船は商業船だったが、思いのほか居住スペースは広かった。
俺は着の身着のまま旅に出てしまったので、船中で生活必需品を買わせてもらった。
いきなり金貨を手渡して乗り込んだ俺たちを、船員たちは訝しく思っているようだった。
だが、金払いもいいし、どうやら剣を使う腕もあるということで、下手な勘繰りや手出しはしないで置こうということになったらしい。
「カイルのお師匠様は結構な使い手よ。ああいった手合いが身近にいると分からないだろうけれども、カイル自身も決して弱くは無いわ。むしろ、この船に乗る男たちでは、貴方の相手にはならないわね」
俺と会話するマギーを、通り過ぎる船員たちが好色な目で見つめる。
彼女は今、肌も露な格好をしていた。
現代風に言うならビキニだ。
ガルム帝国では、より暑い日はこういう、局所だけを覆う衣装を着て、風通しのいいところで昼寝するのだそうだ。
だが、マギーの肌は抜けるように白く、とても南国であるガルムの人間には見えない。どちらかというと北方系の肌色なんだろうか? イリアーノから出たことがない俺にはよく分からない。
一つ確かなのは、彼女はこの南国の習慣を気に入っているようだということだった。
「なんなら、私が稽古をつけてあげるわよ」
あからさまに注がれる、船員たちの目も気にせず、マギーは得意げに微笑む。
むき出しの手足は、細かったが、女性らしい柔らかさと実用性ある筋肉が見て取れた。
「えっ、その格好でか!? 俺は嬉しいけど、ちょっと無用心じゃないか?」
具体的には、色々とポロリしてしまいそうな気がする。
あ、ポロッとするほどのサイズは無いか。
「そう? 邪魔するものが何も無くて動きやすいのよ? 一合打ち合ってみれば分かると思うわ」
「そうか……それほど言うなら、ひとつ胸を借りるとするかな。でも、結構な体格差だけど大丈夫か?」
「戦場では体格差なんて言っていられないわ。それに、剣は力だけで振るうものではないし」
なるほど、この衣装は、しなやかな肢体を見せ付ける意味もあるのか。
女性が身につける衣装は、おおよその場合、布地が多くて嵩張る。俺を城から連れ出したマギーも、その時は黒いミニスカート姿だったが、あのひらひらよりは今のビキニの方が剣を振るうにはいいだろう。
こうしてじっくり眺めると、胸は大きくないものの、マギーの体は繊細な少女の美を完璧に体現していると思える。
彼女は、俺の記憶にあるビーチチェアに酷似したものに腰掛けて、脚組をしてみせた。
布に覆われた際どい場所が見えそうで、俺はちょっと息を呑む。
マギーはと言うと、俺の下のほうに目線を向けて微笑んだ。
「あら、ちょっとそれどころじゃ無くなってるみたいね? それじゃあ、どうかしら。私は貴方を助けたけれど、貴方自身がどういう人間なのかよく知らないわ。詳しいところをお話してくれないかしら。話し終わるころには落ち着くんじゃない?」
どこまでも深く黒く、心の奥底までも見透かすようなマギーの瞳。
俺は心の臓を射抜かれたように感じ、口を開いていた。
――記憶に齟齬があると気付いたのは、幼年の頃だった。
俺は第三王子として、何不自由なく育てられた。
俺の立場は、言わばフェリックやアントニオの予備である。
無事に第一王子か第二王子、もしくは王弟が王位を継げば、晴れて俺は自由の身。
それまでは飼い殺しという訳だ。
王宮は、極めて贅沢で、幽閉された者の生活を満足させるように出来ていた。
俺は全て、望むものを与えられた子供だった。
学問を得、武芸を得、芸術に通じた。
だが、一つだけ得られなかったものがある。
友である。
第三王子と同じ立場の友人など、存在できるはずがない。
例え存在できるとしても、それが第三王子と結託して良からぬ企みを抱かないとも限らない。
みそっかす王子は一人にしておけば、大それたことなど出来ないのだ。
そんな思惑からだろう。俺はずっとボッチだった。
この世界にボッチという単語は存在しない。
これは俺が最近思い出した、異世界の単語である。
だが、俺は物心がついた頃から、存在していないはずの友人の姿を幻視していた。
記憶の中の彼らに向けて、俺は良く話しかけた。
「若様がまた、空想のお友達と喋っておられますわ」
侍女たちはそう言って、俺の不可解な仕草を、子供がするものだと微笑ましげに見ていたものだ。
――そうではない。現実にいるのに。
俺は、どう説明しても分かってもらえない、この現象に腹を立てていた。
どうやらこの光景が、現実のものではないと気付いたのはそれから一年ほど後である。
俺に見えている光景は、常に、同年代の子供たちと遊んでいるものだった。
彼らと俺は、全くの同格だった。どちらが上で、どちらが下ということもない。
王族であれば得ることが出来ない関係。
俺は時々、退屈をもてあますと、記憶の世界に意識を飛ばした。
その頃、侍女たちは、俺が度々放心状態になっていることを噂しあっていたらしい。
その結果、俺はあまり賢くない子供だと、王や王妃、年の離れた兄たちに印象づけられたようだった。
期待されない第三王子になってしまったのだが、それが故に、あの性格が悪いフェリックに目をつけられない理由となったのは、今思えば僥倖である。
少なくともこの年まで生き残ることが出来たのだから。
俺が時折浸る非現実が、どうやら単純な空想ではないと気付いたのはさらに数年後だ。
何せ、俺の非現実には、自動車が出てきた。
馬も人も使わずに、自分で走る車など、高度な魔術を用いた産物である。
それが二台や三台ではない。
コンクリートやアスファルトで舗装された、恐ろしく滑らかな道を無数に行き交う光景。
これを見てから、いよいよ俺は、時折幻視する非現実世界とはこの世界ではない、別に存在する世界なのだろうと確信を深めていった。
だが、こんな与太話を誰に話せる?
話せる友など端からいない。
周囲の大人たちは、全て父か兄の息がかかっているし、愚かと評判になっていた俺の話など、まともに取り合いはしない。
ってな訳で、俺はどんどんと屈折していった。
何せ、人には話すことが出来ない、とんでもなく文明が進んだ世界の記憶が蓄積していくのだ。
あちらの世界の俺は、そこそこに友人がいたようだ。
そして、気になっている女性もいたようだ。
あちらの世界は、誰もが髪が黒かったり茶色だったり、肌は黄色くて顔は平べったかった。
正に異世界。
記憶から戻った俺は、よく鏡を覗き込んだものだ。
そこに映るのは、見慣れた彫りの深いイケメン顔。
いやあ……転生してよかった。
「ふぅん……」
マギーが目を細めた。
猫が撫でられた時、気持ちよさ気にしている顔と同じように見えた。
俺は彼女のことを、猫のように撫でたくなった。
「なかなか変わったお話ね? カイルはそんな世界で生きてきたのかしら」
「俺というか、俺の前の人生かな。今までこんな話、誰にもしてきたことは無かったんだけど……」
だからこそ、俺はこの世界で目にするもの全てを、新鮮な驚きを持って受け止める事ができる。
つまり、大体何か理不尽があったら突っ込めるというわけだ。
とりあえず、マギーのビキニは大変エロくてよろしい。
「信じてくれるなら、俺としても嬉しいけどな。それに、話していて確かにちょっと落ち着いてきたよ。じゃあマギー、始めようか」
「あら、本気でやるつもり? いいわ。お相手してあげる」
ビーチチェアを蹴倒すように立ち上がり、マギーは虚空で何かを掴みとる仕草をした。
刹那の後、彼女の小さな手の中に、一振りの細い剣が握られている。
刀身は青く、柄は黒い。
俺が腰に佩いたアンティノラと同種の武器だろう。
「魔剣カイーナよ。アンティノラの兄弟みたいなものね。さあ、やりましょ」
「おう、胸を借りるぜ。小さい胸だけどな」
「言ったわね?」
一瞬、マギーのこめかみに青筋が浮いたように見えた。
次の一瞬には、彼女の姿が消えている。
俺は慌てて、アンティノラを目の前に構える。
強烈な金属音が鳴り、危うく俺は剣を跳ね飛ばされるところだった。
目の前には、アンティノラへカイーナを噛みあわせるマギーの姿。
この小さな成りで、なんて凄い打ち込みをしてくるんだ!
「ねえカイル。あなたってとってもいい線行ってるわ。初めてであそこまで、アンティノラを使いこなした剣士はいないもの。だけど……私の魔剣には、もっと先の使い方があるの」
「そいつは……是非ともご教授願いたいねっ」
俺は二の腕に力を込めて、カイーナごとマギーを突き放した。
彼女は圧倒的にウェイトが足りない。踏み込みは強烈でも、受けてさえしまえば、容易に突き放すことができる。
距離を開けた次の瞬間、俺は彼女に一撃をくれてやろうと……、
「”瞬くわ、カイーナ”」
目の前にいたマギーの姿が消えた。
俺は驚愕に、足を止めそうになる。だが、それこそが罠だと直感的に思い、マギーが立っていた場所目掛けて勢いをつけて走った。
俺が今までいたであろう背後に、気配が生まれる。
恐らく、俺が立ち止まっていれば、後ろから首を撫で斬りにされていたことだろう。
冷たい、と感じる、斬撃が呼ぶ風が首筋を撫でる。
後ろ髪を何本か持って行かれつつ、俺はなんとか致命の一撃を回避した。
「本気で殺す気だったな……!?」
「本気じゃなくちゃ強くなれないわ。それに、たかが初見の一撃で死ぬ程度なら、大したことないもの」
とんでもない言い草である。
胸が無いって言ったことを怒ってるんじゃないだろうか。
「怒ってないわ」
「貧乳はステータスだもんな」
「言うなっ! ”瞬くわ、カイーナ”!」
次の気配は一瞬。
姿が消えたと同時に、俺の真横からヒヤリと冷たい風が吹く。
死角から襲う致命の一撃。さっき経験しておいて良かった。
俺は冷気を感じた首筋の間近に、アンティノラを立てた。
強烈な打ち込みが、俺の首を守る魔剣に叩き込まれる。
少し遅かったら、胴と頭が泣き別れになるところである。
「やっぱり怒ってるじゃないか!!」
「なら胸の話はするな! 氷乙女の嘆き、飛び散る涙滴、集って放て、”氷礫”!!」
「うおお!? ”時を見せろ、アンティノラ”!!」
俺がまだ使えない、広範囲攻撃の氷の魔術。
俺は慌ててアンティノラで時の流れを遅くし、致命的な氷の礫を剣で弾き飛ばしながら前進する。
ここには、逃げるなんて選択肢は用意されていない。
離れたとしても、マギーは自在にカイーナの力で間合いを詰めてくるし、例え間合いを詰めるには遠かろうが、そうなれば俺より達者な魔術が飛ぶ。
第一ここは、スペースが限られた甲板だ。
だから、俺は最も得意なフィールド、接近戦を挑むのである。
幾つかの小さな礫は当たるに任せ、俺はアンティノラをマギー目掛けて振るった。
「っく……!! やるわねえ……!」
突き立てたカイーナで、俺の魔剣を弾きながらマギーが呻く。
俺は無理な体勢から放った一撃だったせいか、彼女の剣を落とさせることはできなかった。
気づけば、俺たちの無茶なちゃんばらに魅せられて、船乗りたちが集まってきている。
甲板に与えられたそこそこのスペースで、俺たちは真剣を使った稽古を行っている。
船上は揺れるし、練習用の刃を潰した剣どころか、甲冑の騎士をも切り倒せる魔剣を使っているのである。
正気の沙汰ではない。
しかも、さっきは魔術まで飛び出してきた。
娯楽に乏しい船上で、船乗りたちが見物に来るのも無理はない。
というか、この状況で戦場に対応できる、俺の肉体スペックが高いんだろうな。
現実世界の俺だったら、もうKOされている。
「マギー、彼らを巻き込まないようにしないと」
「私としてはどうでもいいのだけれど……仕方ないわね」
何度目かの鍔迫り合いに持ち込んだ時、彼女に囁いた。
マギーもこういうのは嫌いじゃないらしい。
苦笑しながら頷くと、今度も俺が、彼女を体重で押し切って突き放す。
そこへ、離される寸前にマギーがお返し。
俺の腹めがけて、鋭い蹴りを放っていきやがった。
彼女を突き放すために腹筋を固めていたから良かったが、緩めている時に食らったら、口から中身をリバースする勢いの蹴りである。
本当にこの女は容赦がない。
「アンティノラにも慣れてきたじゃない。覚えが早い子って大好きだわ。カイルってば、何もかも私好みかも」
「そいつはどうも……っと!」
無駄口を叩きながらも、マギーの打ち込みは苛烈である。
電光石火の速度で踏み込むと、喉元を狙った必殺の突き。
俺がこいつをアンティノラで横へ受け流すと、マギーはそこから変化しての軽い斬撃。
片手平突きかよ!
幕末の新選組が学んでいた、天然理心流の技だな。
突きからスムーズに斬撃に移行する。恐らく、カイーナで受けた切り傷は凍りつくから、小さな傷だって洒落にならないことになる。
「っ……!!」
俺はややオーバーアクションに見えるほど、派手に床めがけて身を投げた。
マギーから距離を離すように、一回転すると素早く立ち上がる。
そこへ、さらにマギーの追い打ちである。
俺が体勢を立て直す暇などくれはしない。
まあ、だけどそう来ると思っていた。
「”時を見せろ、アンティノラ”!!」
一瞬だけ、マギーの動きがゆったりとする。
彼女は嬉しそうに笑った。
「”瞬くわ、カイーナ”」
彼女が言葉を唱えて、カイーナの力を開放する。
何合か打ち合って理解した。魔剣カイーナの力は、移動時間のゼロ化だ。時間を止めて攻撃できるならとっくにやっているだろうし、あの効果を発揮した後、マギーは必ず俺の死角にいる。
時間を凍りつかせ、移動すると言う行為に特化した能力という訳だ。
分かってしまえば対処は簡単。
こういう時、前世で読んだ数々のラノベ知識が生きる。
俺に先入観なんてものはない。こういう効果があるならあるで、きちっと対応するのだ。
俺は背負うようにアンティノラを構える。
その直後、俺の背中で魔剣と魔剣がぶつかり合う音がした。
何度か首を狙って、そして背後。パターンが読めたぜ。
「っ……!!」
マギーが驚きに声を上げた。
俺はそのまま、甲板を蹴ってバックステップ。
マギーに体重を浴びせかけた。
「っつう――ッ!?」
俺に跳ね飛ばされて、マギーは尻もちをついてしまったらしい。
これでゲーム終了だ。
船乗りたちから、やんややんやの喝采が飛ぶ。
「凄いな、兄ちゃんたち。まだ若いのに、凄腕の傭兵だったのか!」
「いやあ、いいもん見せてもらったわ。俺、そこのお嬢ちゃんに手を出すのやめておくわ」
手を出そうと思ってやがったのか。とんでもねえこと考えやがる。
まあ、船乗りなんてのは男の園である。
港に着かなければ女日照りなわけで、連中の気持ちが分からないことも無い。
俺は第三王子と言う身分ゆえ、舞踏会なんかじゃ貴族のお嬢さんがたといちゃつく機会もあったが、普段は侍女以外は女性のいない生活だ。
しかも、侍女に手を出したら後継問題が更にややこしくなるから、どんなに綺麗どころが近くにいても指を咥えて見ていなくちゃならない。
「ふう……汗をかいてしまったわね? ねえ、塩水以外に体を洗えるものってないの?」
「お嬢ちゃん、贅沢言っちゃいけねえ。海の上じゃ、真水ってのは一番価値があるものなんだぜ?」
マギーが無茶な注文をして、早速船乗りに断られている。
「いいわよケチ。魔術で出すから」
「出せるのかよ」
俺は呆れた。
かくして、俺とマギーにあてがわれた部屋(同室である!)に、彼女は内鍵をかけて篭もり、水浴びを始めた。
俺はと言うと、潮風に当たりつつ火照った体を冷ますわけだ。
存外この体は動けたな、という印象。
俺にとって初の実戦は、皮肉にも身内との戦いだった。
持てる限りの手札を使い、師匠を退けた俺だが、その時よりも今は強くなっているのが分かる。
マギーの剣の腕は、師匠といい勝負だろう。
彼女を退けた俺はつまり、ほんの数日で師匠レベルまで強くなったことになる。
実戦を踏むと、強くなるってやつだろうか。
何故、俺がああも動けたのか考察してみよう。
俺は生前、現実世界で高校生だった。
ライトノベルと言われる小説をよく読み、アニメやマンガも好きなタイプだったらしい。
スポーツの経験はあまり無かったように思う。
こちらの世界では、俺は帝王学を叩きこまれ、体には武芸の動きを覚えこまされた。
幼い頃から行った鍛錬で、肉体の基礎はできている。
この二つが合わさり、俺は現実世界で触れた創作物の主人公たちの動きを、ある程度再現できるようになっている。
潮風に吹かれていると、自分でも驚くほどの早さで、疲れからくる体のだるさが消える。
また少しだけ体が軽くなった気がした。
どこかで体を動かそうと周囲を見回す。
すると、船員たちの動きがにわかに忙しいものに変わっていることに気づいた。
「どうしたんです? なんか忙しいみたいですけど」
あえてちょっとフランクに、年下っぽさを出して話しかけてみる。
呼び止めた船員の兄ちゃんは、赤銅色に焼けた肌に、ムキムキで髭面である。振り返って俺を見ると笑顔になった。
「おう、あんたが甲板で剣舞を見せてくれたって兄ちゃんか! いい男だな! この忙しさか? そりゃぁ、あれよ。ここから先に人工島があってな。そこで一つ取引があるってことよ」
「人工島……? 聞いたことないな」
「さては兄ちゃん、イリアーノ側の人間だな? だったら生まれの話は黙っていたほうが良いぜ。ありゃあガルム帝国が出資して作った島だからな。聖王国とガルム、フレートが取引する非公式な場所ってやつだ」
俺とぺちゃくちゃ喋っていたら、船乗りの兄ちゃんは甲板長らしき人にどやされて、慌てて仕事に駆け出していった。
最後に俺の尻を撫でていく。
おいいっ!
随分軽い口で喋ってくれると思ったら、そっちの気がある人かよ!?
俺が悲しい顔で自分の尻を気にしていると、船室からマギーが上がってきた。
船室は、船の後方に集められている。
船底に向かって下っていく方式で、最上階は船長室。
甲板の真下は客室と上級船員の部屋である。
濡れた質感の黒髪が艶めかしい。
潮風で乾かすと髪が痛むぞ。
俺がそんなニュアンスの事を言うと、マギーは鼻で笑った。
「いいのよ。風に吹かれるのが好きなのだもの。それに潮風程度でどうにかなるほど、脆弱な髪をしてないわ」
そうだ、マギーは人間ではないっぽいのだった。
「それより、騒がしくなってきたようだけど、どうしたの?」
「なんでも人工島に到着するらしい。そこでまた一商売するんだと」
「へえ……」
マギーはちょっと、目をキラキラ輝かせる。
この娘、そういうのが好きなんだな。
さて、いよいよその人工島というやつが見えてきた。
その姿は、幾つもの船を桟橋でつなぎ、海のど真ん中に浮かべたものである。
無数の筏が連なり、船の外へ、内へと人口の陸地を広げている。
でかい。
一体どれだけの船を使えばこれほどの規模になるのだろう。
そこは、完全に俺が知らない世界だった。
遠くからでも、熱を発するような活気が伝わってくる。
島の構造上、直接船を乗り付けることはできない。
船に搭載している小舟を使い、人と荷物を運びこむのだ。
俺たちの船の登場で、人工島も賑やかになった。
しばらくこの島に滞在するというので、俺はマギーを連れて降りることにした。
また出発するときには呼んでくれるそうである。
桟橋に降り立つと、船上と変わらない、ふわふわした地面の感触である。
そんな俺達に、物売りが群がってくる。
「お二人さん! 人工島名物の焼きガニはどうだね! 今朝採れたばかりだよ!」
「珊瑚の飾りはどうだね? 人工島の下でしか採れない特別な珊瑚だよ!」
俺は立場上、本物の美食を体験しているし、本物の宝石や珊瑚の類だって目にしている。
そんな俺の目から見て……これは偽物だね。
「いらないって。第一俺たち、着いたばかりよ? これから店を冷やかして回ろうってのに、比較検討もしないでいきなり買うわけないでしょ。それに……この珊瑚って安物じゃないか」
俺が言うと、物売りは渋い顔をした。
「なんだ、そうなの? 私はこういうちゃちな玩具なんかきらいじゃないけれど」
マギーが珊瑚の首飾りのいい加減な作りを笑う。
物売り達は、言いがかりだ、と突っ張ってくるが、俺たちがちょっと剣を手に掛けると慌てて逃げ出した。
直後、人工島に所属する兵士らしき人物が走ってくる。
「島内で武器を使われるのはご遠慮願えますか」
「あ、そうなの?」
確かに現実的に考えれば無理も無い。
街中で刃物を剥き出しで持ち歩くなど、正気の沙汰ではない。
俺とマギーの剣には、封印のシールを貼られてしまった。
剥がせば罰金なんだと。
「つまらないルールねえ。第一、私の剣を封印しても、魔術を使い放題な時点で意味は無いじゃない」
マギーがぶうぶうと不平を口にした。いやいや。そうたくさん、魔術を使える人間がいてたまるかい。
だが、彼女はすぐに機嫌をよくしたようだ。
視線の先には、昼なお眩く輝く船の集まり。
「私、あのキラキラしているところに行くわね。カイルも一緒に行く?」
「いや、遠慮しておくわ。俺はぶらぶらと屋台を冷やかす」
城にいては、ジャンクフードなど食えないのだ。この機会に普段は口にできないものをたっぷり食いたい。
「それじゃあ、夕方には桟橋で合流ね」
「はいよ、了解」
俺たちは分かれた。
今にも空を飛びそうなステップを踏んで、マギーがきらびやかな船に消えていく。
さて、俺は……と。
揺れる地面の上をぶらつきながら、手近な屋台の前に立ち止まる。
そこに、真っ白なものがいた。
いや、それはこの場に似つかわしくない格好をした女性だった。
真っ白なドレスに、純白のフリルがついた日傘。
「困りました……。どうしましょう」
「困ったねえ……どうするよ」
女性と、屋台のおっちゃんが二人で悩んでいる。
聞こえてくるのは、聖王国地方の公用語である。この島で聞こえてくるのは、ガルム帝国語とフレート語が半々。だが、共通語として用いられているのは聖王国エルベリアの言語である。
さて、一体何事であろう。
「何かあったんですかね」
俺が顔を出すと、おっちゃんは重々しく頷いた。
「いやな、こちらのお嬢ちゃん……いや、お嬢さんがうちの磯焼きを買いに来たんだが、金貨しか持ってないって言うんだ」
「ああ、そりゃお釣りがないですよね」
「そうなんだよ……。しかも中金貨なんか、使いどころが無いだろうに」
「中金貨……! 大金ですよね。それじゃ、俺が出しますよ。大した金額じゃないでしょ」
「まあそうだけど……」
「ええっ、それは悪いです。初めて会う方から施しを受けるなんて……」
「いいって」
磯焼きは、魚やエビや貝なんかを塩味で表面カリカリ、中はふんわりと焼き上げたもの……らしい。
そいつを串に刺して直接かぶりつくのだが。
串を手渡すと、日傘の影から真っ白な指先が伸びてきて掴んだ。
「ありがとうございます」
見知らぬ俺に奢られることは割りきったようだ。
彼女はくるり、こちらに振り向いた。
俺は一瞬、呼吸をするのを忘れてしまう。
その瞬間から、周囲の時間が止まり、世界の風景が色褪せたように見えた。
黄金の色彩が、日傘の中に広がっていた。
これ以上の金色は存在しない、そう思わせる、眩いばかりに輝く金髪をお団子にまとめている。
長い睫毛の下、どこまでも深い、清浄な湖を思わせる青い瞳が俺を映し出していた。
一言で言うなら、腰が抜けるほどの美少女がそこにいたのだ。
「お、おう」
屋台のおっさんは、彼女を見てよく平常心でいられたな?
いや、日傘でよく見えていなかったのだろう。
この美貌は、見るものの思考を止める次元のものだ。傾国ってのはこういう容姿の事を言うのだろう。
そんな彼女が、大きく口を開け……。
「んむっ……!」
よく焼けた貝柱に齧りつく。
薄桃色の唇の隙間から見える、白い歯すら艶めかしい。
というか、きちんと大きく口を開いて食べるんだな。屋台のマナーを知っている。
「おいひいれす」
口元を手のひらで隠しながら、にっこり微笑んでもぐもぐ。
超かわいい。
俺も彼女に倣って、磯焼きに齧りついた。
うん、美味い。
やっぱ、取れたてを、余計な手を加えずにシンプルに焼く!
そして塩だけ!
最高に美味い。
彼女はパクパクと、あっという間に磯焼きを食べてしまうと、口元を押さえてしばらくもぐもぐとやっていた。
俺は気を利かせてお茶を買ってくる。
海水を蒸留した真水は結構な値段で、その水で煎れたお茶は、ちょっといい食事一食分くらいの価格である。
彼女は俺からお茶を受け取ると、こくこくとお上品な仕草で飲んだ。
「ぷあ……ありがとうございます、何から何まで……」
「困った時はお互い様。気にしないでよ」
俺の言葉に、彼女は首をかしげた。
おっと、今のは、非現実世界の言い回しだったか。
「いいえ、受けた恩は返すのが、わが国の慣わしです。お名前を伺いたいのですが」
彼女の聖王国語は、とても流暢で響きが美しい。
ネイティブなんだろう。それに、良い教育を受けている。
「俺は、カイルです」
カイル。
かつて、世界を股に駆けて冒険した勇者の名前である。
世界中に、冒険の痕跡を残し、彼が行った冒険は、いまや英雄の物語として語り継がれている。
俺の名前は、そんな勇者にあやかった、この世界では比較的ありふれたもの。
王になれば改名してしまうのがほとんどだから、王子たちの名前は第二王子以降、比較的気軽に付けられる。
俺の名前など、やっつけもいいところである。
だが、そんな俺の名前を聞いた瞬間、彼女は劇的な反応を返した。
「カイル……! その姿、確かにあの時の……!!」
青い瞳に、見る見る、大粒の雫が浮かび上がる。
彼女は俺も反応できないほどの勢いで、俺の体を抱きしめていた。
「ああ、カイル……! ずっと、ずっと待っていました……!!」
「!? ちょ、ちょっと……!?」
俺は戸惑う。
投げ出された日傘が風に舞う。
それを、キャッチした者がいた。
どうすればいいか分からず、俺は視線を巡らせた。
いきなり泣かれてしまった。
一体何なのだ、これは。
困り顔の俺の前で……。
飛ばされたはずの日傘を持って、大柄な壮年の男が俺を睨んでいる。
腰には、封印を施された業物と見える剣。
「貴様……殿下から離れろ」
底冷えするような声が、俺の耳朶を打った。
やばい。面倒なことになりそうだ。




