1 目覚めて
いつも通り保健室で目覚め、いつも通り野球部の顧問をしている先生から説教を受けているときだった。ふと、先生が尋ねてきた。
『何故、走り続けているんだ』
強面の顔とがっしりとした体型、三十代前半にしては貫録があり過ぎると有名な先生だったが、面倒見のよさと少し抜けた性格で生徒には男女問わず人気のある先生だった。壱にとっても、野球部の顧問をしながらも陸上部に名義を貸してもらい、それでいて陸上部の部活動にもちょくちょく顔を出してくる先生には感謝してもし切れなく、信頼できる先生だと認識していた。
でも、その質問には答えられなかった。
タイムを伸ばしたいわけでも、陸上選手になりたいわけでも、単純に走りが好きなわけでも、走りの苦しみに快感を求めているわけでも、倒れるのが趣味でも、ない。
ないないないない。
わからないです。
静かに、一瞬の思考から迷うこともなく壱は答えたと思う。答えではない応えを返したわけだが、先生はさして気にしたふうもなく、さらに続けて言う。
『なら、走り続けるべきだ』
理由もなく、ただ走っているだけの壱に、そう助言した。走り続けるつもりだったが、改めて他人から言われると、咄嗟に『何故ですか』と質問せずにはいられなかった。
『だって、走りたいんだろう?』
すぐに質問をして後悔した。つまり無理に解釈をするのなら、理由はなくとも走ることそのものが目的で、走り自体に意味があると、そう言いたいのだろうか。
『そういう意味じゃねえが……まあ、わからないでいいさ』
煮え切らない、まったく意味のわからない回答だった。
でも、先生は続けて言っていた。
『走って走って走って――立ち止まってみればわかるさ』
一体、どういう意味だろうか。
『あ、倒れろって意味じゃないぞ、駄目だからな』
それはわかっている。わかってはいても、起こってしまうのだが。
『立ち止まって、もう一度お前が走り出したときこそが――』
身体全体の痛みは引いていた。
壱は意識が戻ってくるのと同じくしてどうしようもない倦怠感に襲われつつも、何とか目覚め、重たい瞼を開き、まだ動かせない身体の代わりに目線だけを左右に上下に向けていく。
一体此処はどこなのだろうと壱はぼんやりと考える。
目線を動かしていくが、見えるのは僅かに窓から漏れ出す光のみで、全体的に薄暗く覚醒したばかりの壱の目では此処がどこなのか判別がつかない。狭い室内を思わせたが、寝ている木の床は揺れ動き、いや、実際に動き、進んでいるらしい。
徐々に目が覚め、慣れ、探ると、ここは馬車のようなものの中であると壱は思い至った。馬車など乗った経験はなかったが、揺れ動く箱の中という意味では自動車とそう変わりなかった。
もしかしたら馬車を引いているのは馬ではなく見たこともない動物かもしれなかったが、なんとなく状況がわかればそれでよかった。
ゆっくり、目覚めたから起き上がらなければと、だるい身体を動かしにかかると――
――ジャラ。
それは重低の金属音。何処から聴こえてきたのかなど考える必要もなく、それはまさに自分自身の身体から発せられた音だった。
己の身体を見て、驚く。
流石に、壱も驚いた。
手足に付けられた金属製の鎖に、首にはめられた同じく金属製の輪。腕輪、足輪、首輪を取り付けられ、逃げられないようにされていた。身体の自由はある程度はきくが、この場から移動することはかなわないだろう。
壱は座ったままも上半身だけを何とか起き上げ、はめられた首輪に手を伸ばし――
「――やめときな」
背後から投げ掛けられた声は、まだ意識の薄い壱の耳にもはっきりと聴こえる女性の声色だった。重たい身体を動かし、ゆっくりと背後を見遣るが、慣れ始めた目でも、そこに人がいることぐらいしかわからない。
「一度発動したとはいえ魔術が施してある首輪だ、下手に触れば死ぬよ」
魔術、そう聞こえた。そして死ぬと、しっかりと伝わった。
「しかし、運がよいのか悪いのかいまいちわからないねきみは。死にはしなかったが奴隷となって売り飛ばされる何て、もしかしたら死んだ方がましだったかもしれないけれど」
次々と語られる、ゲームや漫画では見聞きしてても日常的には聞き慣れない言葉。
魔術の次は奴隷、それもその口振りからして、壱の身に繋がれた鎖や首輪からして、自分自身が奴隷となっているのは間違いなさそうだった。
異世界に飛ばされ、人を殺し、行き倒れ、目覚めたら奴隷になっていた。
仕方がないどころではない、波瀾万丈過ぎてもはや意味不明だ。
とりあえず、覚悟も決めずに、目を覚まし、目を慣らし、目を凝らし、意識が晴れた先に――いた。
壱のように手足を鎖で繋がれてはいなかったが、同じような首輪をしているから壱と同じ奴隷なのだろうか、でも、注目すべきところはそこではない。
気に掛けるべきは、その容姿だった。
白い白い髪の、紅い紅い瞳を持つ――耳の尖った彼女がいた。