4 走って走って走り去った彼
瞬く間の出来事だった。
陽が高く昇っても薄暗さが目立つ森の中、それでも少しだけ拓けた場に茂みを掻き分ける音が響いた。初めはまたあの獣が現れたのかと思ったが、現れたのは強面の男達だった。異国風の服装をした男達はこちらを見るやいなや、腰に提げていた剣を抜き放ち襲い掛かってきた。
結果を言えば、何もできなかった。
私――歩渡歩夢は探索に出ていた面々と同様に不思議な力を身に付けた一人であり、何処か力を持っていることに安堵し、これで皆を守れるなどと舞い上がった考えもしていたが、見せ掛けだけの安心は脆くも崩れ去り、あっという間にクラスメイト達は蹂躙された。
守れるものなど何もなく、自分の身でさえ守れなかった。
担任教師という大人が死んだことで、男達という大人が現れたときに皆は一様に緩んだ。もしかしたら救援に来てくれた大人かもしれないと――もはやその可能性はまったくないというに、淡くあり得ない希望を抱いてしまったのも抵抗ができなかった原因なのかもしれない。
希望を失望してしまったときほど、人が弱々しいものはなかった。
私も一人の男に覆いかぶされ、身体の自由を奪われた。舐めつくすように身体を弄る視線、そのあとに始まることに想像がいき、考えるのをやめた。戦うのを放棄し、逃げ出した。
迫る手を見ても反応はできなかった。
泣き喚く勇気すら湧いてこないのに、一体どんな反応を見せろというのだろう。
諦めていた。
突然森の中に放り出され、見たこともない獣に襲われ、担任教師は死に、消えていくクラスメイト、何もかもが限界だった。
歩夢も同じだった。不思議な力を身に付け、仮初の拠り所を得ようとも、それが更なる責任と戻れない事実を感じさていた。
終わってしまったほうがいいと思ってしまうほどに、歩夢も追い詰められていた。
でも、でも、でも。
嫌だな、とも思った。
思っても、動けないけど。
思うだけなら、できた。
突如、男が身体の上に圧し掛かってきた。ついにか、と思ったが、次の瞬間には男の身体が真横へと弾き飛ばされる。
一体何が起きているのかわからずにいると、男が消えた先に一人のクラスメイトが立ち、こちらを見ていた。
その顔を見て、心から人を心配してくれている表情を目の当りにして、我慢できなかった。
瞳から零れ出す涙はゆっくりと頬を伝っていく。逃げ出し、諦めていたはずの心が、たしかに戻ってくるのを感じた。
彼は上着を私へと被せると、辺りを見渡し、走って行った。
走って走って走って、助けて助けて助けて、そして最後には――
――走り去って行った。
「すまん、俺がもっと早く戻っていれば……」
自分は決して悪くないというのに、クラスメイトの一人は己の失態だと思い、謝罪までしていた。
最後の男を後ろから突き刺した彼は、すぐさまに皆の安否を気遣い、確認し始めた。走り去っていった彼の話題を意図的に避けているようであったが、落ち着きを取り戻し始めた場で彼が切り出した話に、全員が今助けてくれた彼のことを忘れてしまう。
忘れてしまうほどに、待ち望んだ言葉だった。
「実はな、俺達を助けてくれる人達が――安全な場所が見付かった」
その言葉に場は一瞬だけ静まり返り、次の瞬間にはこの森で目覚めて以来の歓声で沸き立った。何でも森を探索しているときにこの前襲われた獣に取り囲まれている一団を見付け、『彼』を筆頭に助けに入ったらしい。
もはや獣は彼らの相手ではなく、難なくと蹴散らし、襲われていた一団を助け出した。
「その襲われていたのが……あー、やっぱり異世界と言うべきなのかな、王都の貴族らしくてな、王様に会わせてくれるそうだ」
特にあいつが気に入られてな、まあ獣を蹴散らしたのもほぼあいつの力だけみたいなものだったから当然なんだが、とぼやきつつも、喜び合うクラスメイト達の姿を見て嬉しそうだった。
歩夢も勿論嬉しかった。やっとこの状況から抜け出せるのだと思うと、泣き出しそうだった――けど、でも、今は違った。嬉しくて泣きそうでも、心から喜べなかった。
その理由は知っている。
彼だ。
助けてくれて、去っていってしまった彼のことだ。
それだけが心残りで、気掛かりで、歩夢はつい訊いてしまった。
「行方不明のクラスメイトはどうするの?」
数日前に消えた数人を気にするようでいて、それとなく彼を追うのかと尋ねる。他の人は数日経っていて捜索は難しくとも、彼が去ったのは数十分前、今から追えば十分に間に合うだろう。何故去ってしまったのかは歩夢にはわからなかったが、戻ってきてくれればお礼が言いたかった。
助けてくれてありがとう。
そう告げたかったが、すぐに彼が去った理由を知る。
歩夢が訊き、その意味を知ってか知らずか、一人の男子生徒が叫んだ。
「そ、そうだ、あいつを追ってくれ」
思い出し、焦り出した男子生徒は続けざまに言い放った。
「あの―――狂って逃げた奴を!」
え?
歩夢の思考は一瞬止まったが、すぐさま動き出し、思った。一体、何を言っているのだろうと。
反射的に発言をした男子生徒を見て、その目を見て、察した。まさかと周囲のクラスメイト達の顔を見渡してみても、殆どが同じだった。
これが彼が去った理由なのかと。
こんな、こんな目で彼は―――見られていたのか。
走り回り、助け回った、つまりは――殺し回ったあとに受けた仕打ちが、これなのかと。
彼も別に好きに殺し回ったわけでも、お礼の言葉が聞きたかったわけでも、称賛を浴びたかったわけでもないだろう。
でも、それなのに、あまりにも、あまりにもこれは――
ひどすぎる。
あんまりではないか。
目の当りにした事実に打ちひしがれる歩夢を余所に、男子生徒は次々に捲し立てる。
「あいつが走り回って、こいつらを殺し回ったんだ!」
そう、私達を助けるために。
「そのうえ笑ってたんだ! 人を殺して、笑ってたんだ!」
笑い、嘆き、泣いていた。
ああ、彼は気付いていたのかと歩夢は思う。
「だから逃げやがった、狂ってるのがばれて、逃げたんだ!」
こうなることを初めから知っていた。
傷付く覚悟も、死ぬ覚悟も、殺す覚悟もした彼が走り去った、覚悟が決まらなかったもの。
彼は強くなどなかった。本来なら、舞台上に現れるような人ではなかった。
弱くもなかったが――強くもなかった。
だから、逃げ出した。
弱さを知っている彼は、彼自身と、弱い弱い私達の為に、去った。
男子生徒の言葉に反論する気にもなれなかった。
これが本当に彼の真意かは定かではないが、もう、彼は行ってしまったのだ。
今迄になく活き活きと喋り続ける男子生徒と、それに賛同するクラスメイトを見て、歩夢は静かに決意する。
弱い弱い自分だが、あのとき助けられたときの彼の顔を忘れないと。
弱くとも人を助け、安堵していた表情を――
――決して、忘れない。