十七年目の満月
僕は集中しているときに邪魔をされるのが極端に嫌いだ。子供の頃からそうだった。だから、邪魔をしてくるような人間にもひどく嫌悪を感じる。いつしか怒ることも面倒になって、今ではそういう人間を無視している。しかし、その無視と云う手は職場ではあまり使えない。僕にも分別くらいはある。職場ですれば人望をなくす。だから、よく『聞こえないフリ』を使う。この手は割りと効くらしく、これを使うことで集中力を切らされる事も減った。しかし、彼女にだけにはこの手は使えない。
「あの、すいません」
聞こえないフリ。
「あの、すいません!これ、どうしたらいいんでしょうか?」
彼女は思い切り顔を近づけて、電子画面に向かう僕の顔を覗く。
彼女の大きい声は睡眠不足の僕の脳を刺激し、頭が鈍く痛んだ。全くこの忙しいときに、思いがけず不眠症に悩まされているときに、パソコンのキーボードを叩く事に集中しているときに、なぜ彼女は空気も読まずよりによって耳元で大きな声を発するのか。ふと、彼女の指す「これ」であろう彼女が持つ紙束を見やった。
「あぁ?来月のコレクションのリストだろう」
「それは分かっています!このリストどうしたらいいんでしょう?」
苛立つ。そんなことをいちいち聞くな。もう君はここに入社して何ヶ月経ったんだ?もうすぐ一年だろう。だいたい君の発言は抽象的過ぎるんだ。これとかそれとかあれとか。カルシウムと睡眠の足りていない頭からいくらでも言いたいことが浮かんだが、その思いを胸の奥底まで沈めた。いくら腹が立ったとしても、抑えなければならない。自分は何でも冷静に振舞うことの出来る人間だ。これはナルシズムでも自己過大でもない。もともと怒りを表に爆発させるようなタイプの人間と言うわけではないのだ。それに、彼女には今まで少し厳しすぎたかもしれないと最近反省したばかりだ。さらにはその反省を彼女にも打ち明けている。
「明日か明後日くらいにコレクションが入ってくる。それとリストを照らしあわさなければならないから」
「それも分かっています!」僕の発言を勢いよく遮る彼女。
「はぁ?分かっているならそれ以上何を知りたいんだ!?」
もはや限界だ。睡眠不足の脳には余裕で沸点を超える。疲れで少し枯れた声を荒げた。彼女は呆然と立ち尽くしたまま驚いた顔をしていた。その瞬間、少し後悔して頭を掻いた。
「あの、リストを何枚コピーしたらいいのか、です」
はぁ。頭を抱えながらため息をつく。
「なら最初からそれを言ってくれ。大体君はどうだとかああだとかまともな日本語は喋れないのか……」
頭がぐらぐらした。言葉を次々考えられるほど僕の脳は健康ではないようだ。
「予備入れて七枚」
「あ、はい。分かりました」
彼女はそう言い残し静かに去っていった。僕はその足音を聞きながら机に突っ伏した。
「最近顔色よくないけど大丈夫?」
隣の席の田中さんが小声で呟いた。僕はおもむろに顔を上げる。そこには相手をどこかほっとさせる丸みのある輪郭と眼鏡が印象的な老紳士の心配そうな顔が在った。
「あ、はい。大丈夫です」
「って、全然大丈夫そうじゃないよ!」
「はぁ、実はここ四日ほどあまり眠れてなくて。理由は分からないけど眠れないんです」
打ち明けてみる。困ったときはやはり自分より遥かに年上の人に縋りたいという思いがどこかにあるらしい。
「不眠症、ってやつだね」田中さんは全ての糸が繋がったと言うかのように目をキラキラさせた。やはり、この人に言うべきではなかったかな、と今更ながらに悔いる。
「なんか、悩みとかあるの?職場とかのストレスとかさぁ。プライベートの悩みでも何でも僕でよかったら聞くし」
「いや、別に心当たりとかはないです」
「うーん、まぁさ、あんまり酷いようだったら精神科にでも行って睡眠薬とか安定剤とかさ、もらって来たらどうかな」
「あ、そうですね。ありがとうございます」
出来ればあまり薬は使いたくない。しかしそんな意地も無残に崩れそうだ。四日間ほとんど眠れていない自分にとっては最早限界だ。意地や信念などどうでもよくなるほどに。
「あの、コーヒー置いておきます」
背後から謙虚そうに彼女の声がした。「あぁ、すまない」と礼を言って置かれた珈琲に手を伸ばす。そういえば、いつも緑茶なのに珍しいなと、自分の湯呑みを見て気づいた。この職場では洋茶よりも緑茶を好む社員が多く、僕もそのうちの一人なのだが、緑茶が入れられることが多いので、いわゆる僕の「マイカップ」は湯呑みだったりする。
珈琲の芳ばしい香りが鼻腔を刺激する。香りを嗅いだだけで少し頭がすっきりしてきた。インスタントと分かっていても今はこのカフェインを限りなく愛しく思えた。彼女にしてはかなり気が利くじゃないか。しかしどうせ彼女のことだから緑茶のお茶葉が切れたから仕方なく珈琲にしたとかそういう理由だろう。珈琲の苦味で目も少し冴えてきた。ふと湯飲みを茶托に置こうとすると茶托の上に四つ折のメモが置かれているのに気づいた。なんて事だ。珈琲が運ばれてきた時、いくら四つ折にぽつんと置かれているからといっても、なぜこのメモに気づかなかったのだ。僕の能と目は最早在ったとしても意味を成さないものに成り下がっている。今日は帰りにでも精神科へ行くべきなのかもしれないな、と相手がいるわけでもないのに敵に白旗を揚げるかのような悔しさを感じながらメモを開いた。
『先程は、煩わせるような質問の仕方をしてしまって申し訳ありませんでした。決して盗み聞くつもりではなかったのですが、最近あまり寝ていないと仰っていたのが耳に入ったものですから、ますます罪悪感が沸きました。本当に申し訳ございません。余計なお世話ですが、あまり無理はされないでください。』
なんだか学生の反省文みたいだ。彼女の小さい字は今の僕の目にはきつい。だけど、妙にほっとして少し口角が上がる。ふと、もしかしてどこかから彼女に見られているかもしれないと思って、何事もなかったかのようにメモを胸ポケットにしまった。駄目だ、やはり今日の僕はどこか軽率だ。残りの珈琲を全部飲み干し、電子画面に向かった。少し回復した脳と目をフル活用して、キーボードを叩き込んでいく。珈琲を飲む前より、俄然効率は上がっていた。
車から降りると、吐く息は白く、コートを着ているにも関わらずその下の空間に冷房が入れられているように寒かった。暖かい橙色の建物に吸い込まれるように入り、カード-キーを通す。そしてエレベーターに乗り込み、7のボタンを軽く押した。このマンションの七階の端に僕の部屋がある。2LDKだが、一人で住むには少し広いくらいだ。エレベーターを降り、一番端の部屋にもう一度カードキーを通す。一気に真っ暗な空間が現れ、どこか安心感のある消臭剤の切れかけのシトラスの香りが漂ってきて僕をその途端にほっとさせた。最上階だけあって空気が澄み切っているような気分になる。電気をつけ、テーブルの上に薬用袋を置いた。さっき、精神科でもらってきた精神安定剤と睡眠薬だ。この季節の病院は混んでいて医者も忙しいようだった。忙しいためか、不眠の理由がこれと言って分からない僕にもすぐに薬を処方してくれた。僕はコートを脱いでそのままベッドに倒れこむ。一応薬をもらってきたわけだが、今日はそれに頼らなくても眠れるような気がした。どこかから救急車のサイレンが聞こえた。やはり師走だ。救急車も医者も全力疾走。それも特に今のような十二月末は救急車のサイレンがやたら聞こえる。世間ではもうすぐクリスマスだとか賑わっている時期である。街にはネオンが煌めき、店先にはクリスマスソングがちらほら流れている。今日は何日だったか……日付や曜日の感覚がない。たしか昨日は水曜日だったか……そんなことを考えていたら、知らない間に眠りに落ちていた。
目が覚めると、僕は毛布に包まっていた。昨日帰って来てそのままベッドに倒れこみ知らず知らずのうちに眠り込んだ体が寒いと感じて無意識的に毛布を欲したのだろう。こういう時人間の体はよく出来ていると思える。瞼が重くて、目が開かない。寒くて毛布から出たくない。冬だから当たり前なのだろうけど、今日は妙に頭が鈍く体が気だるい。しかし、起きなければ何も始まらない。糊が付けられているかのように開け辛い瞼を最大限に開き、寝床から出る。携帯電話の時計を見ると12月24日(木)9時13分という文字が羅列されていた。九時!遅刻だ!と焦ったが、直ぐに木曜日は自分の定休日だと気づく。よかった。今日は頭が重い。もしかしたら、熱があるかもしれない。そう思った途端に体が熱くなってきた。とりあえず、ベッドに戻って、寝よう。なるべく、自分の体温を知りたくない。僕は熱に弱い。もともと低体温気味なのも関係しているが、子供の頃に40度の熱を出して死ぬかと思ったことがあって、それ以来自分に高熱があると認識したら意識が飛ぶかというほどのショックを受ける。重い体を引きずって、もう一度ベッドに戻った。
アイボリーの天井が目に入る。普段天井など意識して見ることがないので、綺麗だと思っていた天井にもいくつか染みがあるのだということを初めて知った。僕は煙草を吸わないし、一応部屋も綺麗にしているつもりだが天井までは目が届かなかった。盲目的で中途半端。ふと、初めて彼女に抱いた印象が脳内に電光掲示板のように流れた。全く、自分のことではないか。彼女への第一印象は僕が勝手に盲目的で独断的に決め付けただけのものだ。実際の彼女など、僕には知る由もない。どうも体が弱っていると、普段は意識していない自分の欠点がたくさん浮かんでくるようだ。ひとつ、ふたつ、みっつ……。四つ目の染みを見つけた時、唐突に携帯電話のディスプレイがフラッシュバックしてあぁそういえば今日はクリスマスイヴだとはっとした。僕はクリスマスがあまり好きではない子供だった。僕の家のサンタクロースはクリスマスには本しかくれなかったし、その日にケーキを食べることもなかったからだ。宗教的な理由などではなく、ただ僕の誕生日がクリスマスに近いということでプレゼントもケーキもクリスマスと合同にされたのだ。誕生日にはケーキもプレゼントも自分の欲しいものがもらえる。だから誕生日である十二月三十日は僕の大好きな日だった。仕事で忙しい父もその日ばかりは早く帰ってきてくれたし、なにより父の出張などが多く家族団欒で晩御飯を取ることの少ない家庭に少し寂しがっていた母がその日ばかりは心から楽しそうに祝ってくれることが嬉しくて仕方なかったのだ。キリストの誕生祭など僕にとってはどうでもいい。キリストが神様だろうが、僕には神様よりも、幸せな誕生日を作ってくれる家族の方がよっぽど尊い存在だった。
次に目を覚ましたのは、十二時半だった。昨夜からの睡眠時間も合わせて十時間以上寝ていたことになる。ここ最近眠れていなかった分のツケなのか、はたまた熱があるから不眠症が改善されたのか、どちらにせよ眠れてよかった。朝起きたときよりも大分頭の鈍さがマシになっていたので何か食べようかとガウンを羽織って台所に向かった。とり合えずありあわせの野菜を炒め、色やジャンルにも統一感のない簡単な野菜炒めを作った。そしてインスタントの味噌汁とご飯をテーブルに並べた。野菜炒めとお椀のご飯をそれぞれ半分くらい食べたら腹が満たされたので、味噌汁を飲み干してから残りの昼食を水場の三角コーナーに捨てる。
頭も大分楽になったので、一応体温を測った。37・8℃。頭の鈍痛が落ち着いたので熱があったとしても微熱程度だろうと思ったが甘かった。僕の平熱は35・7℃であるから、それより2℃以上高いのは流石にきつい。若干薬に抵抗がある僕も、こればかりは薬に頼りたくなる。明日までにある程度熱を下げないと仕事に響く。いくら普段忙しくないといっても年末はどことも仕事が山積みだ。とりあえず市販の風邪薬を服用して、もう一度床に入る。目を瞑る。しかし眠りに落ちることはなかった。だが、それでもいい。不眠が途切れた今、むしろその方がいい。浅い眠りなら夢を見てしまう。この時期に見る夢は、シュチュエーションが疎らだとしても一貫して十六年前のあの日に通じている。十六年間、僕は何度夢の中であの日に遡ったのだろう。あの日を取り戻したいのだろうか。しかし例え現実に遡れたとして、何ができたのだろう。遡りたいわけではない。今更取り戻したいわけではない。あの日に戻って何かをしたいわけではないのに、僕にとってあの日は後悔として残っていた。否、後悔というよりは虚無感なのだろう。もう二度と母と会うことはないという虚無感なのだろう。
36・2℃。金曜の朝一番の僕の体温。奇跡だ。流石に平熱には戻っていなかったが、昨日よりは大分熱が落ちている。水枕と市販の風邪薬二袋で、ここまでの効果が出せるのかと半ば驚愕した。薬に頼るのもあながち悪くはない。二日風呂に入れず、若干髪の油分が不快だったが、シャワーを浴びる時間が足らなかったのでさっと身支度を済まし部屋を後にした。
職場に着いたのは朝礼三十分前だったが、社員はほぼ全員揃っていて忙しく動いていた。普段のおっとりとした雰囲気がこの時ばかりは嘘の様だ。やはり、年末は仕事量も多いし、気も焦ってしまうようだ。彼女も当たり前のごとくテキパキと動いていた。一瞬彼女と目が合ったが、直ぐにバツが悪そうに視線を下に逸らされた。
「おはよう!昨日は休みだったし、眠れた?」
僕がデスクに鞄を置くと同時に、隣の田中さんが体を向けながら話しかけてきた。
「あ、はい。おかげ様で昨日はさすがに眠れました」
田中さんは笑顔でよかったよかったと反芻しながら頷いている。
「そうだ、今年の忘年会も来るよね?」
忘年会。そうだ、この時期忘年会というイベントがあった。僕の意識からすっかり抜け落ちていた恒例行事は、世話好きな田中さんが毎年幹事を引き受け、遂行してくれている。
「行きますよ、もちろん」
忘れていました。なんて幹事に言えるわけもなく、行くのが当たり前だと言わんばかりに振舞った。
「今年はいつでしたっけ?」
「十二月三十日の夜七時から」
僕の誕生日。嫌な日だ。日も日なので、忘年会に被るのは仕方ないが、去年もそうだっただろうかと考えていると朝礼が始まった。
忘年会は『藤の君』という居酒屋で行われた。職場から車で十五分くらいの場所で、少し店から離れてはいるものの駐車場があると聞いていたので車で行くことにした。甘いかもしれないが、一杯くらいなら飲酒運転で捕まらないだろうという考えからだった。座敷は店の名前に因んでか平安時代を感じさせる造りで、十二単や牛車の小型レプリカなどが飾られている。開始予定時刻五分前だと言うのに、席が半分しか埋まっていなかった。基本的にここの人達はおっとりした気質の人が多い。それは構わないが遅刻は如何なる場合も厳禁だ、と小言を言えば堅いなどとレッテルを貼られるかもしれないが、この状況はそう言いたくなるのも当然だ。隣にいる田中さんに文句を漏らしかけたが、開始予定時刻五分過ぎになってどっと人が入ってきたので、不満の言葉を体の奥底まで飲み込んだ。
「あと何人ですか?」
「あとは綺麗所2人だね」
辺りを確認するように見渡すと彼女の姿がなかった。年度末だろうが入社初期だろうが彼女の遅刻癖は変わっていない。
「新人2人ですね。もうすぐ新入社員が入ってくるっていうのに、大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫だよ。二人ともだいぶ社会人らしくなってきているじゃないか」
はぁ、そうですかねと小言で呟くのと同時に、襖が開いて「すいません」とお辞儀しながら新人女子社員二人が座敷に入ってきた。
「よし!みんな揃ったし、始めようか!!」
幹事である田中さんは、忘年会の挨拶をするべく勢いよく立ち上がった。
ジントニック、一杯。これが二時間弱に及ぶ忘年会で僕が飲んだ酒量だ。僕は本来酒に強くはない体質だが、弱くもないので正直な所物足りなかった。白ワインや焼酎が嗜好酒だが、帰りは車を運転しなくてはいけないという使命感から極端に氷で薄められジントニック一杯に留まることとなった。そんな僕とは裏腹に今日の忘年会は全体的に深酔いする人が多くて、集団自体が熱気と高揚感に溢れていた。二次会に参加する人数が去年より多くなりそうだ。
店から出ると、冬の冷気が一気に体にまとわりついた。飲み会の熱気の余韻が体に残っていたのでその冷たさが少し心地いい。
「じゃ、一旦ここで解散します。二次会行く方はこっち来て下さい」
赤ら顔の上司が指示を出している。司令塔の周りに一斉に人が群がった。その群集はその場に「お疲れ様でした」と言い残し、司令塔を筆頭に近くにあるカラオケに向かって歩き出した。やはり今年の二次会は人が多い。背後から名前を呼ばれ振り返ると、赤く丸い顔があった。
「僕は潰れた三人を送りながらタクシーで帰るね」
田中さんは笑顔で言う。田中さんのバックには、赤く、ではなく青ざめた酔っ払い三人がげっそりとしていた。この二時間で3キロくらい痩せたように見える。
「良いお年を」
「あ、はい。お疲れ様です。田中さんも良いお年を」
お疲れ様ですお疲れ様ですという言葉があちこちに散乱し、目まぐるしくそれらに対応していくと、気づけば店の前には僕だけになっていた。体はまだ火照りが残っていたが、手元は寒くてコートのポケットに手を突っ込んだ。左の手が車のキーを見つけ、帰ろうかと僕の足が駐車場に向きかけた瞬間、背後の店の戸が勢い良く開けられた。
「あの!!二次会はどこれすか!!?」
振り返ると、彼女が仁王立ちしていた。僕は彼女の登場の仕方があまりにも唐突すぎて、呆然となってしまった。彼女二次会に行ったのではなかったのか。あの群衆の波に呑まれているのではなかったのか。いろいろ考えを巡らせる。彼女は何も答えない僕に苛立ったのか大きな声で叫んだ。
「あも!!にぢかいってどこなんれすか。ミナちゃんもういったんれすか」
呂律が回っていない彼女の声音量の大きさにまずいと感じて、おい近所に迷惑だと言いかけた瞬間彼女がふらふらとこちらに歩きかけて転んだ。
一瞬絶句する。が、彼女がかなり泥酔していると悟り慌てて駆け寄った。
「大丈夫か!? 大分酔ってるだろ?」
彼女は顔こそそこまで赤くないが、近づくとかなり酒の匂いがした。
「だいじょうぶれす。ごしんぱいなさらず」
「呂律が回ってない上に足がふらふらで転ぶんだ。大丈夫なわけない。二次会はやめとけ」
「えー!!らってミナちゃんもさきいったんれすよ」
「今の君が行っても迷惑なだけだ。帰るぞ!」
とにかく人通りの多い店の前から彼女を遠ざけなければという一心から、彼女の腕を半ば強引に引っ張って立たせる。彼女の手首が思っていた以上に華奢なことに気づく。彼女は酔拳の達人のようにふらふら上半身を動かしながら、千鳥足で踊るように歩いている。この状態ではたとえタクシーを呼んだとしても一人で帰れるのだろうかと不安になる。
「君の家はたしかここから離れてなかったよな?」
「はい~。けっこうちかくれすよ」彼女は幸せそうに笑った。全く何が幸せなのか。
「案内してくれ。家まで送る」
はひ?と彼女は言葉にならない間抜けな音を出して小首を傾げた。正直、酔っている女性を一対一で家まで送るという事実に少し躊躇するが、このまま彼女を放って置く方がよほど罪悪を感じる。
「駐車場まで歩けるか?」
答えなど求めていないのに疑問系を投げかける。彼女が何と言ったところで強制的にでも歩かせるつもりだった。僕は彼女から駐車場の方向に視線を流し、道順を示す。
「だいじょうぶれすよ。あるけます」
寒空の下、僕らは歩き出す。居酒屋が多い繁華街で行き違う人はたいてい忘年会で酔っ払ったサラリーマンや大学生だった。彼女がちゃんと付いてきているか数秒置きに後ろを確認する。彼女は上機嫌そうにモンローウォークのような歩き方で後ろから付いてきている。
「カンパリソーダを……飲んだんですよ。もともと好きなんれすが今日のはすっごく美味しくて……気がついたら五杯は飲んでて。飲みました?カンパリソーダ」
「今日は飲んでないよ。というか五杯だけじゃないだろ?その酔い方」
「うーんとあとは梅酒に焼酎に生ビールにカンパリビア三杯」
「どれだけカンパリが好きなんだよ」
たしか彼女は酒に強くない。そのくせ酒をちゃんぽんでガバガバ飲むんだ、いつも。自分の限度を弁えないんだ。いつだって、学生気分で無防備に深酔いするんだ。
「今日は飲みすぎました」
彼女はいきなり立ち止まって、自動販売機に向かって今日の反省を語りだした。相手が人間かどうかの認識も危ういほど酔っているのか。
「今日はのみすひたせいでトイレで吐いちゃいました。そのばつなのかトイレから出てきて店からでたらみんないなかったのれす」
吐いたのか。だからあのタイミングで店から出てきたのか。
「おい、みんなって。僕がいただろう」
一応突っ込んでおく。彼女は僕の方を振り返って、あ!ごめんなさいと本当に申し訳なさそうに合掌した。なんだか、彼女の行動が滑稽なほど穏やかな気持ちになる。不思議だ。今感じている穏やかさはここ最近感じることのなかった感情で、妙に懐かしくなる。
数分夜の冷気に当たっただけでさっきまで酒で少し火照っていた体は死人のように冷えていた。寒い夜風に当たれば彼女も少し酔いは醒めるだろうと思ったが、一向にそんな素振りはない。僕は自販機でミネラルウォーターを買って、彼女の頬にそれを当てた。ひぃーっと奇声を上げて仰け反る彼女にそれを手渡す。
「一応飲んでおいたほうがいい」
遅いかもしれないが。
駐車場まで辿り着いて、キーの遠隔操作で車のロックを外す。乗って、と彼女に言いながら外の寒さに耐えられなくなった僕も俊敏に乗り込む。直ぐにエンジンを掛けヒーターを入れる。車の電子時計を見ると二十三時を通り越していた。
「あ!もうこんな時間れすね!!はっやー」
手渡した水を口に含みながら彼女は驚嘆した。僕としては、時間よりもさきほどまで自販機相手に話していた酔っ払いが時間を認識したことの方に驚愕した。
「ほいじゃあ、ここで大晦日までのかうんとだうんをそましょう!」
「カウントダウンって……大晦日までのカウントダウンをするのか?」
呆れた顔をする僕を彼女は真剣な瞳で見つめる。
「どんな日だって毎日がきねんびなんです!!」
「なら今日は僕の誕生日だ」
彼女は大きく目を見開いて、きょとんとした。すると直ぐに興奮したように、「おめでとうございます!!」と満面の笑みで言った。
「そして今日は僕の母の命日でもあるんだ。正確には明日の零時十分なんだけど」
なぜ、言わなくてもいいような事を言ってしまったのだろう。しかし僕の脳裏に浮かんだそんな気持ちを無視して僕の口は閉じることをしなかった。
「僕の十歳の誕生日、夜に家族でケーキを囲んで僕を祝ってくれた。そしてプレゼントを貰って、僕は舞い上がって、そのプレゼントに夢中で、そしたら台所から大きな音がして、急いで駆けつけたら、母が倒れてたんだ、苦しそうに唸りながら」
一気に言葉を弾丸のように出す。大丈夫だ、相手は酔っ払いだ。何を言ったって明日にはけろっと忘れているだろうという根拠のない自信と、これを言うことによって長年の悪夢に起因している不眠症が改善するかもしれないという根拠のない期待が自分の中で蠢く。
「救急車を呼んだ。この時期は急患が多いからなのか救急車が着くまでの時間がすごく長く感じられた。僕はこの時始めて救急車に乗ったんだ。涙は出なかった。泣く余裕もないほど焦ってたんだな。病院に着いて緊急治療室に運ばれたけどまもなく息を引き取った。急性心不全だった」
不意に隣を見やると、彼女は泣いていた。一瞬心臓を鷲掴みされたような気分になる。話すのに必死で彼女の涙に気づかなかった。
「あの時もっと……もっと早く救急車が来てくれたら……もっと早く緊急治療室に運ばれたなら、もっと腕のいい医者なら。もっと僕が母の異変に……」
鼻がむず痒くなる。このまま続けたら水滴が零れそうで、口を紡いだ。彼女の小さい手が僕の左腕を擦った。
「誰の所為でもないから辛いんですよね。そして本当に誰も悪くないです」
彼女は少し低く、そして優しい声で言った。彼女の方を向くのが妙に嫌で、フロントガラス越しに冬の夜空を仰いだ。丸い月が不気味なほど美しく揺らいでいる。
「月が、綺麗だ。そういえばあの日……母を亡くした後、病院から見た月も綺麗だったんだ。こんな風に」
だけど、どこかが違う。
「あの綺麗な月はきっと先輩のお母様なんですよ。その日からずっと先輩を照らしてくれてるんです」
そのメルヘンな発想は酔っ払いの特権なのだろうか。そうだ、あの日の月は満月ではなくて、惜しくも満月から1パーツほど欠けていた上弦の月だった。
「私ね、現実が辛くなったらよくお月様を見上げるんですよ。お月様って綺麗じゃないですか、だから月に行きたい!こんな現実は嫌だ!って気持ちで月を見上げるんです。で、じっと見てたらね、月が私を照らしてくれている事に気づくんです。それも私だけじゃなく私の周りや足元も。その時やっと私のいる世界にも綺麗なものがあるんじゃないかって、ただ暗くて見えていないだけで本当はあるんじゃないかって教えられるんです」
彼女は意識を持って言っているのだろうか。そこに策略は存在するのだろうか。
僕は彼女を直ぐに否定したくなる。だけどそれは全否定ではなく、一部を肯定しつつも一部を否定したくなる。妙に彼女を知りたいと思える時もある。そしてそれ以上に僕を知って欲しくなるのだ。きっと『話す』ことによって気持ちは楽になるだろう、相手が誰であっても。だけどその相手は彼女でなくては改善などされることはない。そう、なかったのだ。
時計を見ると零時まで十分を切っていた。今日、いや明日からはきっと悪夢を見ることはないだろうという意味不明な達成感に似た感情が湧き出た。さっきから僕の左腕にある華奢な手に右手を覆い被せる。そしてその手を握り返してくれればいい、と思いながら。
「大晦日です、先輩」
零時丁度にそう彼女は言いながら、僕の右手を強く握った。