第2話 新人は書類を焦がす
翌朝、午前八時四十二分。
総務課のデスクに、煙の匂いがした。
「……またか」
久我誠司は端末から目を上げる。
花村ひなたが直立していた。昨日と同じポーズ。だが顔色が昨日より少し蒼い。
「久我課長っ」
「焦がしたか?」
「はい!」
「どれだ」
「第七層調査班の備品補充申請、書式Dを……エーテル複写にかけたら」
「また焦げたか」
「はい……」
誠司は静かに目を閉じた。
引き出しの上のコマルが赤くなった。昨日もそうだった。二連続で赤くなるのはコマルにとっても不本意らしく、色が昨日より少し濃かった。
「……才能だな」
「笑えないです!」
「俺も笑ってない」
花村ひなた、十九歳。魔力ゼロ。情熱はS級。書類への思いが、どこかで熱量に変換されているとしか思えない。
されなくていい。
二連続というのは、前代未聞だった。
「内部再発行、できますか?」
「今日は難しい。書式Dは原本照合が必要な様式だ」
「じゃあ、班の人たちが」
「今月中には通す。ただし手続きが一本増える」
ひなたがうなだれる。
「……ごめんなさい」
「お前が謝るな。俺に謝れ」
「課長にごめんなさい!」
「いい。次は焦がすな」
誠司は端末を操作しながらつぶやく。
「それにしても二連続は……」
「才能ですよね!」
「喜ぶな」
電話が鳴った。ひなたが飛んで出た。
誠司はコーヒーを一口飲む。
今日の受信メール、朝八時台ですでに五十三件。
補助金申請の月次締め切りは、本日十七時。
修羅場だった。
◇
午前十時から十一時の間に、誠司は十三件の申請をさばいた。
スプリングスの天城蒼が来た。第四層挑戦に向けた装備補充申請を手に、おずおずと立っていた。「書式、合ってますか?」「合ってる」「本当に?」「本当だ。出せ」「ありがとうございます!」。三回頭を下げた。一回でいい。
蒼が出ていった後、廊下の端に人影があった。白石楓だった。誠司の方を一瞬だけ見て、また離れた。声はかけなかった。
グレイラインの榊美玲が来た。「先月の精算書の添付書類が一枚足りないとメールが来たが、うちの事務は全部揃えたはずだ」。足りていた。誠司のシステム設定のミスだった。謝罪した。榊は「……あなたもミスをするんですね」と言った。「俺も人間です」と返した。榊はそれ以上何も言わなかった。小さく頷いて出ていった。
真壁圭吾が来た。「先週の爆発の後始末書類です」。爆発は先週に限らず毎週起きている。誠司の引き出しには、真壁専用のフォルダがある。「今週も爆発したのか」「別の爆発です」「何種類あるんだ」「今のところ三種類です」「……判を押してやるから書き方を改めろ」「爆発は改善の余地がありませんっ」「お前の書類の話だ」。
その他、第六層専門班が機材申請を持ってきて(書類に不備があり書き直しを頼んだ)、医療支援チームが追加の補助金申請を持ってきて(期日ギリギリだったが受理した)、新規登録したての三人組が制服支給の申請を持ってきた(なぜか三人分の書類が一枚にまとまっていた。分けてくれ)。
昼前、ひなたが「課長、お茶です」とデスクに置いた。
「気が利くな」
「二連続で焦がしたので」
「関係ない」
「あります」
誠司はお茶を飲んだ。
温かかった。
◇
「第0層の資料を見せてください」
一ノ瀬みおが総務課に現れたのは、午後二時過ぎのことだった。
赤いジャケット。昨日と同じ服だった。目が、まっすぐだった。
誠司は手を止める。
「……規則上、渡せない」
「理由を教えてください」
「第0層関連の調査記録は機密指定だ。アクセス権限は第三種以上の研究職、あるい
は当該調査への参加資格者に限られる。お前の参加申請はまだ審査中だ」
「いつ通りますか」
「分からん」
「今週中には」
「分からん」
みおはその答えを聞いて、少しだけ目を伏せた。
それだけだった。
「分かりました」
食い下がらなかった。
誠司はそれを意外に思った。昨日のあの真っ直ぐな目からすれば、もっと押してくると思っていた。
「では」
みおが言った。
「なぜ久我課長は、第0層の夢を見るんですか」
誠司の手が、止まった。
「……何の話だ」
「一般公開の調査レポートに書いてあります。第0層を経験した一部の探索者に、反復する夢が確認されていると。久我課長は十年前の調査隊員でしたよね」
「それは……一般情報だな」
「はい。だから聞けます」
みおの目が、変わっていなかった。
責めているわけではない。試しているわけでもない。ただ、知りたいと思っている目だった。嘘のない目だった。
誠司はしばらく、何も言わなかった。
ひなたが受話端末を持ちながら部屋を横切っていった。「はい総務課です、ただいま担当者が」という声がした。
「……久我課長」
「見る」
誠司は、短く答えた。
「夢を」
「どんな夢ですか」
そこで、止まった。
言葉が出てこなかった。
出せないというより、どこから話すべきか、分からなかった。十年分の記憶がある。十年分の沈黙がある。その重みをどう言葉にするか、考えたことがなかった。
みおは急かさなかった。
ただ、立っていた。
「……今日はここまでにしろ」
「また来ていいですか」
「お前はどうせ来る気だろう」
みおが、ほんの少し微笑んだ。
「はい、また来ます」
「はぁ……。分かった」
みおが出ていく。
ドアが静かに閉まった。
引き出しの上のコマルが、暗い青に縮んでいた。誠司は気づかないふりをした。
誠司は冷めたコーヒーを一口飲む。
苦かった。
◇
午後五時ちょうど。
月次締め切り分の申請が、全件処理された。
ひなたが「全部通りましたね」と言った。
「当然だ」
「すごいですね」
「普通だ」
「課長」
「なんだ」
ひなたが少し間を置いた。
「さっき、一ノ瀬さんと話してたとき……なんか、顔が違いました」
「書類を処理してた」
「してなかったです」
「……」
「遠いところを見てる感じで」
「俺はいつでも近くを見てる」
「嘘です」
誠司は返事をしなかった。
「……お前の観察眼はS級だな」
「本当ですか!?」
「ほめてない」
ひなたが笑った。
誠司は端末の電源を落とす。
窓の外、浮遊輸送機が一台、夕焼けの中を横切っていった。
世界は今日も普通に動いている。
書類は全件通った。
紙は二枚焦げた。
そして誠司は、十年前に見た夢の中身を、まだ誰にも話していない。
――世界は、明日も救われない。




