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第40話:(前編) 樹冠の私室、公女の仮面と冷たい床

 世界樹の外科手術を終え、里全体に精霊の脈動が戻り始めた翌日の夕刻。リアムはエルナに導かれ、世界樹の最上層に位置する公女の居室へと足を踏み入れた。そこはエルフの伝統的な木組みと、魔力を帯びた銀の装飾が緻密に編み込まれた、一族の権威を象徴する豪華な公邸であった。


 だが、リアムがその重厚な扉を潜った瞬間に感じたのは、完成された美しさではなく、肌を刺すような微かな拒絶の波動だった。彼の魔導設計図には、部屋全体の調湿が過剰に行われ、空気が極限まで乾燥していることが警告色として表示されていた。


「エルナさん。この部屋、君を歓迎していないね。一見すると完璧な建付けだが、住人の体温を奪うことでその美しさを維持している、最悪の断熱欠陥住宅だ」


 リアムが不快そうに鼻を鳴らし、窓辺の冷え切った空気の流れを指先で探った。エルナは公女としての毅然とした態度を崩さず、リアムの鋭い視線から逃れるように、銀の刺繍が施された寝具の端に腰を下ろした。


「失礼ね、リアム。これはエルフの伝統に基づいた、最も高貴な様式なのよ。無駄な湿気を排し、精霊の純度を保つために設計された、隙のない建付けのはずだわ」


「隙がないのが、最大の間違いだよ。家は住人と呼吸を合わせるものだ。これじゃあ、君は寝ている間も公女という重たい外壁を張り続けなきゃいけない。……ほら、君の肩の筋肉。この部屋の冷たさと同期して、常に防衛反応(緊張)を起こしているじゃないか」


 リアムが歩み寄り、エルナの華奢な肩にそっと掌を置いた。厚い作業着越しであっても、エルナの身体が芯まで冷え切り、鋼のように強張っているのが伝わってきた。リアムの指先が、彼女の鎖骨の辺りにある魔力節を軽く叩くと、エルナは抑えていた吐息を漏らし、わずかに身体を丸めた。


「リアム。……私、この部屋で一度も、深く息を吸えたことがなかったかもしれないわ。朝起きた時、いつも身体が重くて、精霊たちの声さえ遠く感じていた。それが当たり前だと思っていたけれど、貴方に指摘されるまで、自分がどれほど不自由な場所にいたのか気づかなかった」


 エルナの瞳には、公女としての誇りではなく、一人の女性としての深い疲労が滲んでいた。リアムは彼女の告白を受け止め、即座に工具カバンから小型の解体用バールと、浄化済みのノミを取り出した。


「よし。公女としての義務は外壁に任せて、この内装は君のためだけに作り直そう。伝統という名の錆びついたボルトは、僕が全部削り落としてあげるよ。……エルナさん、君の本当の要望オーダーを聴かせてほしい。君が精霊を抱いて、一人の女の子として安眠できるような、温かい揺り籠をリフォームしてあげるから」


 リアムが床板の一角を力強く剥がすと、その裏側に溜まっていた代々の公女たちが押し殺してきた負の魔力が、澱んだ煙となって溢れ出した。リアムは躊躇なくその不純物を浄化の光で焼き払い、部屋全体の魔力導線を、エルナの生体リズムに合わせた最適な波形へと書き換え始めた。


 壁材に使用されていた冷たい魔法銀のパネルを次々と取り払い、調湿効果と温もりを兼ね備えた魔法樹の白木へと張り替えていく。リアムのハンマーが打ち出す一定のリズムが、エルナの乱れていた心拍を整えるメトロノームのように機能し、部屋の空気が劇的に柔らかく、瑞々しいものへと変貌していった。


「あ……。空気が、甘い。……リアム、私の部屋が、私に『おやすみなさい』って語りかけているみたいに感じるわ」


 エルナは、リアムが磨き上げたばかりの温かな床に素足を下ろし、数十年ぶりに深い深呼吸をした。胸の奥に溜まっていた重圧が霧散し、彼女の全身を、リアムの魔力が導く穏やかな眠りの波動が包み込んでいく。


 リアムは作業の手を休めることなく、天井に星空の魔力を蓄積する特殊な蓄光材をリフォーム設置した。それは夜になれば精霊たちが安心して集まれる託児所のような役割を果たし、エルナを孤独から救うための、最も優しい防犯設備となるはずだった。


「……リアム。貴方の手は、どうしてこんなに温かいの。……壊れたものを直すだけじゃなくて、私の心の中にある、誰も知らなかった隙間まで、完璧にパテで埋めてしまうのね」


 エルナは思わず立ち上がり、作業を続けるリアムの背中に、そっと自らの額を預けた。職人の大きな背中から伝わる、不器用で誠実な熱。それは公女という重責に凍えていた彼女にとって、世界中のどんな魔法よりも強力な、救いのリフォームであった。


 二人の影が、夕暮れの淡い光の中で重なり合う。リアムはエルナの震えが収まるのを待ってから、最後の一枚の白木を壁に固定し、彼女の新しい「城」の完成を宣言した。


「これでいい。今夜は、誰の目も気にせずに眠りなさい。……明日からは、君がこの里の新しい太陽になるための、もっと大きなリフォームの話をしよう」


 リアムが振り返り、エルナの赤らんだ顔を真っ直ぐに見つめた。職人と公女。その境界線が、リフォームされたばかりの温かな空気の中で、静かに、けれど確実に溶け始めていた。エルナはリアムの胸に顔を埋め、これから始まる変化への不安を、主が与えてくれた確かな安らぎで上書きしていくのだった。


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