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第3話:最初の居住者と聖域の産心

 鼻をくすぐる香ばしい匂いと、パチパチと薪がはぜる心地よい音。

 セレスティアがゆっくりと瞼を持ち上げたとき、視界に飛び込んできたのは、見覚えのない真っ白な天井だった。


「……夢、じゃない」


 彼女はそっと自分の体に触れた。

 数年間、彼女の肌を苛んでいた呪いの刺感しげきは消え失せ、代わりに触れたのは、驚くほど柔らかで清潔な布の感触だった。

 起き上がろうとすると、体が羽のように軽い。

 昨夜まで自分を縛り付けていたはずの「呪いの椅子」は、今や極上の座り心地を提供する魔法の調度品へと姿を変え、彼女を優しく包み込んでいた。


「おはようございます、セレスティアさん。よく眠れましたか?」


 部屋の入り口から、聞き覚えのある穏やかな声がした。

 振り返ると、そこにはエプロンをつけたリアムが、湯気の立つトレイを持って立っていた。

 朝日を背に受けて微笑む彼の姿は、聖教会の教典に描かれるどの聖騎士よりも、彼女の目には神々しく映った。


「リアム……様。わ、わたし、こんなに深く眠ったのは、生まれて初めてです。体が、まるでお風呂上がりのように温かくて……」


「それは良かった。椅子の背もたれに『微細振動による血行促進魔法』を組み込んでおいたんです。職人の勘ですが、今のあなたには休息が一番の薬だと思いまして」


 リアムがトレイを近くのテーブルに置く。そこには、黄金色のスープと、表面がカリッと焼かれた厚切りのパンが並んでいた。


「とりあえず、朝食にしましょう。キッチンの魔導コンロを修理したら、火力が安定していいスープが作れたんですよ。領地の森で採れた野草と、僕の備蓄の干し肉を使ったコンソメです」


 セレスティアは、おずおずとスプーンを手に取った。

 一口、スープを口に含んだ瞬間――。


「っ……!」


 彼女の瞳が大きく見開かれ、みるみるうちに潤んでいく。

 じわじわと体に染み渡る滋味深い味わい。それは、ただの料理ではない。作り手の「住人を慈しむ心」が魔力となって溶け込んでいるかのような、究極の癒やしだった。


「美味しい……。美味しいです、リアム様! こんなに温かくて、優しい味……わたし、生きていて良かった……っ」


 彼女は子供のように、何度もスープを口に運び、パンを頬張った。

 頬を赤く染め、夢中で食べるその姿は、かつて「伝説の聖女」と呼ばれ、石像のように無機質に振る舞っていた頃の彼女からは想像もつかないほど感情に満ち溢れていた。


「あはは、そんなに喜んでもらえると、リフォームした甲斐がありますよ。あ、口の横にスープがついてますよ」


「ひゃっ!? あ、ありがとうございます……恥ずかしい……」


 リアムが指でそっと拭うと、セレスティアは顔を真っ赤にして俯いた。

 だが、ふと彼女の表情が曇る。窓から見える、広大な「死の森」の景色が目に入ったからだ。


「……リアム様。わたしのような、呪いを撒き散らすだけの存在を助けていただいて、本当に感謝しています。でも、いつまでも甘えているわけにはいきません。教会の追っ手や、魔物たちがここを襲えば、あなたにまで迷惑が――」


 彼女が立ち上がろうとしたその時。

 リアムは彼女の肩を優しく、だが断固とした力強さで押さえて、椅子に座り直させた。


「セレスティアさん。この家を直したの誰だと思っているんですか? 僕が直したんですよ」


「え……?」


「この館は、もうただのボロ屋じゃありません。僕があなたの魔力を循環させ、地脈を整えた『聖域』です。ここに住む権利があるのは、僕が認めた住人だけだ。……セレスティアさん、あなたは、ここを離れたいですか?」


 真っ直ぐに見つめられ、セレスティアの胸が高鳴る。

 外の世界は、彼女を道具としてしか扱わなかった。だが、この男は違う。彼女を一人の「住人」として、大切に守るべき存在として扱ってくれている。


「離れたく……ありません。ずっと、ここにいたいです。あなたのそばで、この家で、生きていきたい……!」


 彼女が心の底からの願いを口にした、その瞬間だった。


 館全体が、共鳴するように大きく震えた。

 リアムの脳内に、スキル【居住者登録】の発動を告げる確かな手応えが走る。


 館の周囲に展開されていた負のエネルギーが、一気に黄金の光へと反転した。

 庭の枯れ木には芽が吹き、不気味な紫色の煙は消え去り、空には清浄な青空が広がる。

 館の境界線に、目に見えるほどの強固な光の壁――『絶対不可侵の結界』が張り巡らされた。


「……すごい。館の魔力が、私の中に流れ込んでくるみたい……」


「成功だ。これであなたは、この館の最初の居住者です。ここにいる限り、どんな呪いも、どんな外敵も、あなたを傷つけることはできません」


 セレスティアは、自分の指先に宿る魔力が、以前よりも遥かに澄み渡っていることに気づいた。

 リアムが作った「住環境」が、彼女の資質を最大限に引き出し、聖女としての力を浄化・増強させていたのだ。


「リアム様……ありがとうございます。わたし、今日からあなたの『家の住人』として、精一杯尽くさせていただきます! 掃除でも、洗濯でも、何でもおっしゃってください!」


「お、やる気ですね。じゃあ、まずはその……食べ終わった食器を運ぶところから始めましょうか。あ、でもまだ病み上がりなんだから無理は禁物ですよ?」


「もう大丈夫です! こんなに力が漲っているんですから!」


 先ほどまでの消え入りそうな少女はどこへやら、セレスティアは満面の笑みでトレイを掲げた。

 その時、彼女の背後から「ぐぅ……」という、可愛らしい、けれど切実な音が聞こえてきた。


「……リアム様、今の音は?」


「僕のお腹じゃないよ。……どうやら、二番目の入居希望者が、玄関先まで来ているみたいだ」


 リアムはスキルの索敵マップを見つめ、苦笑した。

 聖域化した館の門前で、一人の美しいエルフが、空腹と疲労で倒れ込んでいるのを検知したからだ。


「よし。次は客室のリフォームを急がないとな。忙しくなりそうだ」


 リアムの職人魂に、新たな火がついた。


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