第9話 塩の縫い目
朝が来ても、私は自分の呼吸が自分のものではない気がした。夢の中で秒針に揃えられた胸が、まだ同じ速さで動いている。
「医師に会いに行こう」
夫は昨夜の約束を、朝の挨拶みたいに口にした。声は“ひとつ”に近い。近いほど怖い。学習が進んだ証だ。
「……ええ。私の体調のために」
「うん。君のため」
その言葉に、ほんの一瞬だけ甘さが混じった。もし相手が人間なら、私は心を許していたかもしれない。私はその可能性ごと、飲み込む。
診療室へ向かう廊下で、マルタがすれ違いざまに私の袖口へ小袋を滑り込ませた。触れた瞬間、指先にざらりとした感触。塩。
夫は気づかないふりをした。気づいていないのではない。“今は”見逃したのだ。
ユリウスの診療室は薬草の匂いで満ちていた。彼は私を見るなり顔色を変え、すぐ夫へ視線を移す。言葉は丁寧、声は硬い。
「奥様、ご気分はいかがですか」
「夢を、見ました」
私がそう言うと、夫が隣で微笑んだ。
「夢は自然な行為だよ」
ユリウスの瞳が揺れた。私は小袋を掌で握りつぶし、机の縁に塩を一筋だけ落とした。白い線――縫い目みたいな細さ。
夫の影が、その線の手前で一瞬だけ止まる。
効く。
私は息を殺し、医師へ視線で訴えた。今。
ユリウスは頷く代わりに、棚の瓶をわざと落とした。ガラスが割れ、匂いが弾ける。
「失礼! 閣下、危険ですのでこちらへ――」
夫が一歩、塩の線を避けるように退いた。避けたこと自体が答えだった。
私はその隙にユリウスのそばへ寄り、囁いた。
「夢の入口を塞ぐ方法を」
ユリウスは唇を動かさず、私の掌に細い糸を押し込んだ。ざらつく。塩を揉み込んだ麻糸だ。
「寝台の四隅を、鉄で留めて結んでください。輪を“縫い”にする。鏡は割って、欠片を内側に向けて置く。……名は、声にしない。書く」
書く。
私は指の中の糸を握りしめた。声にすれば、相手が学ぶ。なら文字で、封じとして残す。
その瞬間、背後の空気が冷える。夫が戻ってくる。完璧な歩幅、完璧な微笑。
「何をしてるの?」
私は笑顔を作った。喉の奥が痛い。
「寝つきが悪いので、安眠の処方を」
「安眠。いいね」
夫はユリウスへ手を伸ばした。触れないはずの距離を、今日は越えた。
医師の手首に指が触れ――夫の瞳の同心円が、ほんの僅かに速く回る。
次の瞬間、夫がにこやかに言った。
「医師の脈って、綺麗だね。揺らぎが、ちゃんとある」
ユリウスの顔から血の気が引いた。私の背中に、見えない目がいくつも開くのを感じた。
夫は私へ視線を戻し、優しく囁く。
「エルサ。君が信じる人を、僕も信じる。……君が安心するように、全部覚えるね」
覚える。
喰べる前の言い換え。
私は袖の中の塩糸と鉄の輪を握りしめ、頷いた。
「今夜、縫います」
夫は満足そうに笑う。
その笑みが、私の寝台を“檻”に縫い変えるための準備だと知りながら。




