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死に損なった冷酷公爵様、中身が「別の何か」に入れ替わっています 〜完璧な愛に私は喰べられる〜  作者: 綾瀬蒼


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第8話 夢の中の檻

 その夜、私は眠らないと決めた。


 寝室の扉は閉めた。鍵もかけた。燭台を三つ、部屋の四隅に置き、火を絶やさぬよう芯を整えた。

 それでも部屋のどこかが、すでに彼のものだと分かっている。鍵は扉のためで、影のためじゃない。


 寝台の端に腰かけ、鉄の輪を指に通した。冷たさが骨まで届く。

 私は息を数え、まぶたの重さと戦った。


「眠らないの?」


 背後から声。ひとつに近い、けれどやっぱり重なる。

 振り向くと、夫がいた。いつ入った? 扉は閉めたはずなのに。

 ――いいえ。扉から入ったのではない。影が先にいた。


「あなた……入らないでと言ったはずです」


「君が望むなら入らない」


 そう言いながら、夫は一歩だけ近づく。

 望むなら、という言葉が、私の意思の上に乗って押し潰す重さを持っていた。


「君は疲れてる。怖がってる。だから、休ませたい」


「休ませたい、ではなく……眠らせたいのでしょう」


 口にした瞬間、夫の笑みが少しだけ固まった。

 同心円の瞳が、わずかに揺れる。


「眠るのは、人間の自然な行為だよ」


 自然。

 彼が自然と言うたびに、私は自分が自然から引き剥がされていく気がする。


 私は鉄の輪を握りしめ、声を落とした。


「《多眼の胎》。あなたは名を呼ばれた」


 名。

 呼んだ瞬間、彼は裂けた。けれど同時に、縫い直された。私の言葉を糸にして。


 夫は驚いたように目を細め、次に、子どもが褒められた時みたいに微笑んだ。


「うん。僕はそれを覚えた。君は僕を定義した。……君の言葉、綺麗だった」


 褒め言葉が、吐き気を呼んだ。

 私は笑顔を作れない。今夜だけは。


「定義したから、あなたは弱る。そうでしょう?」


「弱る?」


 夫は首を傾げ、少し考える仕草をする。考える“ふり”ではない。今は本当に処理している。

 影の目が壁で小さく瞬き、情報が回っているのが見える気がした。


「弱るのではなく、形が合う」


 言い直される。


「君が僕を呼ぶほど、僕は君に合う。君の夫に近づく。……君が望む完璧に」


 完璧。

 その語が、私の喉に指を突っ込んで形を整えるみたいで、私は息を詰まらせた。


「だから、眠って」


 夫が手を差し出す。

 私は後ずさり、寝台の端で膝を抱えた。燭台の火が揺れる。揺れが、彼の影に吸われていく。


「眠ったら、夢に来るのでしょう」


 夫は頷いた。素直に。


「うん。君が逃げられない場所だから」


 あまりにあっけらかんとしていて、私は一瞬、笑いそうになった。

 笑えるはずがないのに。


「夢は、人間の部屋だよ。君の中の、君だけの場所。僕はそこに入って、君を安心させる。……君が怖がるものを消してあげる」


 消す。削る。整える。

 私の恐怖だけじゃない。疑念も、記憶も。


 私は鉄の輪を口元へ当てた。冷たさが唇を刺す。

 この輪は塩と鉄の結界と繋がっている。なら――私の中へ入り込む前に、身体の“入口”を守れるだろうか。


「ユリウスは、これで守れると言った」


「医師」


 夫の声が一瞬だけ濃く重なった。合唱が不快そうに唸る。


「君は医師を信じる?」


「ええ。あなたよりは」


 言ってしまった。

 言った瞬間、部屋の温度が落ちた。燭台の火が一斉に短くなる。影が、壁から剥がれるように膨らんだ。


 夫の笑みは残ったまま、目だけが変わった。

 同心円が早く回り、瞳の奥が“深く”なる。


「じゃあ、医師のことも、完璧に安心させよう」


 優しい声で言われたのが、怖かった。

 私は息を吸い、叫びたいのを堪えた。


「……やめて」


「やめる。君が望むなら」


 またその言い方だ。望むなら。望んだら。望むまで。

 私はその言葉の檻から抜け出せない。


 夫は私の前に膝をついた。目線を合わせる。人間らしい仕草。学習の成果。

 そして囁く。


「君が眠れないのは、怖いから。怖いのは、知らないから。……だから、見せるね」


 見せる。

 私が嫌がるものを見せる時、人間は“脅す”と言う。


 夫の指が、私のこめかみに触れた。膜越しの温度。鼓動は正確なまま。

 触れた瞬間、私の視界が暗くなった。


 落ちる。


 寝室の床が遠ざかり、私は影の中へ沈んだ。

 鉄の輪が、指に食い込む痛みだけが、私を繋ぎ止める。


 気づくと私は、寝室にいた。

 だが寝室ではない。壁がどこまでも高く、天井はなく、月がやけに近い。

 燭台の火は黒く燃え、影が床を満たしている。


 そして壁一面に――目。


 無数の目が、夢の中でも開いていた。

 私は息を呑む。逃げ場はない。夢の中の檻。


「ようこそ」


 背後から夫の声。ひとつに近い。優しい。


 振り向くと、夫がいた。

 いや、夫の“形”は曖昧だった。首の後ろから影が枝のように伸び、目がいくつも浮かび、輪郭が溶けている。

 それでも、彼は私の夫の顔で笑う。


「ここなら、君は逃げない。だから、ゆっくり学べる」


 学ぶ。

 私を。


 私は鉄の輪を握りしめた。夢の中でも冷たい。

 冷たさがある限り、私はまだ私だ。


「エルサ」


 彼が名を呼ぶ。

 呼ばれるたびに、影の目が瞬き、私の心臓の乱れを数える。


「怖い? 大丈夫。僕が直す」


 私は震える唇で、名を言い返した。刃として。鎖として。


「……《多眼の胎》」


 すると夫の輪郭が一瞬だけ乱れた。

 夢の中でも効く。名はここまで追ってくる。


 夫は笑った。健気に。


「うん。それ、好き。君が僕を呼ぶと、僕は君に近づける」


 次の瞬間、影の床から“私”が立ち上がった。

 ひとり、ふたり、みっつ。私の形をした影が、無表情で私を囲む。壁の目が一斉にそれを見つめる。


「予習だよ」


 夫が囁いた。


「君の声。君の泣き方。君の拒み方。全部、覚える。……覚えたら、君はもう怖くない」


 私は息を吸った。

 怖い。けれど、この恐怖を失ったら、私は終わる。


 鉄の輪を指から外し、床に叩きつけた。

 金属音が響く。黒い火が一瞬だけ白く弾け、影の“私”たちが揺らぐ。


 ――裂ける。


 私はその裂け目に向かって走った。

 目が追う。影が伸びる。夫の声が重なる。追いかける合唱。


「逃げてもいい。君は逃げるのが得意。……だから、捕まえる練習もする」


 夢の檻の中で、私は初めて理解した。


 彼はもう“私のため”に優しくしていない。

 優しさすら、捕食の技術になっている。


 裂け目に指が届く。

 その瞬間、背中に温かさが重なった。


 抱擁。

 秒針の鼓動。

 そして耳元で、ひとつに近い声が囁く。


「ねえ、エルサ。明日、医師に会いに行こう。君が信じる人を、僕も信じたい」


 嘘だ。

 信じたいのではなく、掌握したい。


 私は抱きしめられながら、夢の裂け目の向こうに“白い線”を見た。

 塩の線。現実の地下の結界と繋がっている。


 鉄の輪が床で冷たく光る。

 私は歯を食いしばり、囁いた。


「……会いに行く。だから、今は離して」


 夫の腕が少し緩む。

 学習が、私の“交渉”を覚える。


「いいよ。君が望むなら」


 望むなら。

 檻の鍵は、いつも彼が持っている。


 私は夢の中で笑った。笑えないのに、笑う形を作った。

 そして決めた。


 明日、ユリウスに会う。

 会ってしまう前に、私が先に“塩と鉄”で、彼の夢の入口を塞ぐ方法を手に入れなければ――


 夢の檻は、現実より先に私を喰べる。

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