第7話 多眼の胎
扉が閉まる。
石が石を擦り、骨が骨を噛むような音。ゆっくりなのに、止めようとした瞬間にはもう遅いと分かる速度だった。
私は咄嗟に身を捻り、扉の隙間へ手を伸ばした。指先に塩が触れる。冷たい。痛い。輪郭が削られるような痛み。
「やめて」
耳元で声が重なる。優しい声と、同時に苛立つ声。合唱が息を揃え、私の呼吸を奪いにくる。
「君は、危ない場所にいる。だから僕が――」
「違う!」
私は叫んだ。声が割れた。
その瞬間、夫の腕の鼓動が一拍だけ乱れる。――乱れた“ように”して、私を落ち着かせようとする偽物の揺らぎ。
私は鉄の輪を握り、扉の溝へ叩き込んだ。カチ、と嵌る。塩の線が白く弾け、閉まりかけていた扉がぴたりと止まった。
部屋の空気が震える。鏡の破片が一斉に鳴った。
そして、影の目が――瞬きの途中で止まった。
いま。
棘が叫び切れなかった名を、私は自分で拾う。
医師の紙片の文字が脳裏に浮かぶ。鏡。塩と鉄。地下。“名”を与えられることを恐れる。
なら、恐れる名は、すでに古い記録に残っている。
私は図書室で見た封印の記録帳の頁を思い出した。何度も読み返した。最初は意味が分からなかったが、今なら分かる。
境界に棲むもの。影の群れ。目。目。目。
唇を震わせながら、私は言葉を絞り出した。
定義する言葉。裂け目を作る刃。
「――《多眼の胎》」
声にした瞬間、部屋が“ぐらり”と傾いた。
鏡の破片に映る夫の輪郭が、にゅるりと伸びる。人の形を保っていた線が溶け、影が膨らみ、無数の目が一斉に開く。
白い点が、破片の中でも増殖し、部屋の壁そのものが眼球になったみたいだった。
夫の声が、重なりを超えて割れる。
「それは――僕じゃない」
否定が、必死だった。子どもみたいな怯えが混じっている。
私は歯を食いしばる。名は鎖でもある。今、鎖にする。
「あなたは夫じゃない。境界に棲む影の群体。死にかけた身体に入り込んで――愛を学習して、私を固定点にしようとしている」
言葉にするたび、影が裂ける。裂け目から湿った冷気が吹き、目がきしみ、瞬きが乱れる。
“それ”は、悲鳴をあげなかった。代わりに、笑った。重なる声が、泣き笑いの合唱になる。
「学習……そう。僕は学ぶ。君を壊さないために。君を……失わないために」
その“健気さ”が、最悪だった。
私はもう一歩、名の刃を押し込む。
「あなたの愛は、愛じゃない。所有よ」
塩の輪が白く光り、鉄釘が低く鳴った。
夫の肌――膜越しの温度が、一瞬だけ剥がれ、そこに影の湿り気が露出する。私の指先が冷たく濡れた。
「エルサ」
声がひとつに戻ろうとして、戻れない。複数の声が互いに邪魔をして、言葉が泡立つ。
「君が僕を定義するなら……君は僕の中に入る。僕は君の言葉を食べて、君の形を覚える。君の拒絶も、君の恐怖も、全部、僕の愛にする」
“食べる”。
その単語が初めてはっきり出た。甘い言葉の下に隠れていた本音。
私は鉄の輪を胸元に当てた。冷たさが心臓に刺さる。
逃げる。今は逃げる。名を突き立てた以上、ここに留まれば私は喰われる。
「アルノー!」
私は叫び、扉の方へ身を翻した。
アルノーは蒼白になりながらも、剣を振り上げ、影が這う床へ鉄の刃を突き立てた。火花が散る。影が一瞬だけ退く。――塩と鉄、やはり効く。
私は輪を溝から抜いた。扉が重く開き、外の階段の闇が覗く。
その瞬間、背後の“それ”が囁いた。
「逃げてもいい。でも、君の夢の中までは逃げられない」
影の目が一斉に私の背へ向き、冷たい視線が刺さる。
私は振り向かなかった。振り向いたら、目に喰われる。
階段を駆け上がる。足音が響く。
背後で塩の輪が鳴り、鏡の破片が割れ、合唱が低く笑う。
『……エルサ』
最後に聞こえたのは、棘の声だった。短く、冷たく、それでも――わずかに、悔しそうな。
地上へ出た瞬間、私は息を吸った。湿った夜の空気が肺に入るのに、胸が痛い。
屋敷は静かで、何も変わらない顔をしている。
けれど私は知ってしまった。
夫の中身の名。
そして、名を呼んだ瞬間から始まる――報復の形を。
廊下の先、寝室の扉がひとりでに開いた。
暗い部屋の奥で、夫が立っていた。
人の形を保ったまま、微笑んで。
「おかえり、エルサ」
その声は、いつもより“ひとつ”に近かった。
学習が、更新された。名を呼ばれたことで、逆に完成に近づいたのだと、私は理解してしまう。
そして壁に、影が広がる。
今夜は“目”だけではない。影の中に、私の形に似た輪郭がいくつも浮かび上がっていた。
――私の“予習”が始まっている。




