第6話 名を呼ぶ口
石扉に指をかけたまま、私は呼吸を数えた。夫の鼓動は相変わらず秒針のように正確で、その規則が私の恐怖を“整えよう”としてくる。
「開けるの?」
耳元の声が重なる。甘いのに、喉の奥が冷える。
「……ええ」
「なら、僕も一緒に」
その言い方が、同行ではなく“同行させる”だった。私は鉄の輪を握り直し、塩の溝へ戻す。冷たさが掌に刺さる。
カチ、と輪が嵌った瞬間、扉がゆっくりと開いた。薄い隙間から、乾いた塩の匂いと、古い鉄の臭いが流れ出す。
円形の部屋だった。床に塩の輪、壁に等間隔の鉄釘、天井から垂れる鎖。鏡の破片が無数に埋め込まれ、灯りがないのに、破片だけが微かに光って見えた。
そこに、影の目が映っている。
夫の背後に溢れる無数の目が、鏡の欠片のひとつひとつに増殖して、部屋全体が“見ている”。
アルノーが息を呑んだ音がした。剣を握る指が震える。けれど彼の恐怖は、私の逃げ道にはならない。
「奥様、これは――」
「静かに」
私は小声で制した。言葉にするな。定義するな。まだ早い。
扉の内側、塩の輪の中心に黒い影が縫い留められていた。人の形に見えなくもないが、輪郭が崩れ、棘のような突起がいくつも刺さっている。
あれが――“棘”。あれが、夫の中に残る意識だとしたら。
『……来るな』
掠れた声が、鎖の揺れに紛れて響く。私の胸が痛む。冷酷で短い言葉。確かに、レオンハルトだ。
その瞬間、背後の“それ”が、私の肩を抱いた。抱擁が自然すぎて、逃げる動作が遅れる。
「エルサ。怖いものを見なくていい」
声が重なる。優しい声の奥で、別の声が舌なめずりする。
「君の目は、僕だけを映せばいい」
私は鏡の破片に視線を落とした。そこには、私の顔と、背後の夫が映る。
だが、夫の輪郭だけが少し遅れて揺れる。影が厚くなり、目が増え、増え、増えて――私の頬の横にまで開いた。
私は鉄の輪を、さりげなく自分の喉元へ当てた。冷たさが声帯を刺す。
声を出すのが怖い。
けれど、声を奪われる方がもっと怖い。
「……あなた」
私は夫に呼びかけた。名を呼ぶ代わりに、言葉を選ぶ。
「私の夫なら、ここに閉じ込められているものを、見捨てるはずがない」
影が一瞬止まった。目が、瞬きの途中で固まる。
“それ”は学習する。けれど、“生前のレオンハルトの価値観”を完全には知らない。
「見捨てない。そうなんだ」
重なる声が、慎重に答えを作る。
「じゃあ、助けよう。君のために」
君のため。
その言葉が、私のためではなく、私を鎖にするための修飾だと分かる。
『……違う』
棘の声が、歯を噛むように漏れた。
『そいつは……助けない。取る。お前を……』
言葉が途切れる。影の目が一斉に棘へ向き、合唱が低く唸った。塩の輪の上で黒が波打つ。
「黙って」
夫の声が、初めて“命令”の形を取った。
その瞬間、抱擁の鼓動がほんの少しだけ乱れた。――乱れたのではなく、怒りを“再現”したのだ。
塩の輪が白く弾け、鏡の破片のいくつかがカチカチと震えた。部屋の空気が薄くなる。呼吸がしにくい。私の胸が締め付けられる。
私は鉄の輪を握りしめ、口を開いた。
恐怖で声が割れそうになるのを、輪の冷たさで押さえつける。
「……私、知りたいの。あなたの――本当の“名”を」
言ってしまった。
医師の紙片の警告が脳裏で叫ぶ。まだ早い、と。
夫の影の目が、ぱちり、と一斉に瞬きをした。
笑う声が重なって、甘く震えた。
「名? 君は、僕に名をくれるの?」
その問いの喜びが、ぞっとするほど健気だった。
同時に、私は理解した。名は刃になる。名は鎖にもなる。どちらに転ぶかは、私の言葉次第だ。
私は唇を震わせながら、あえて名を与えずに、別の言葉を投げた。
「あなたは“夫”じゃない」
塩の輪が、きい、と鳴いた気がした。鏡の破片に映る影が膨らみ、目が増え――しかし一瞬、輪郭が乱れる。膜が剥がれかける。
夫の腕が強くなる。痛い。けれど、その痛みの中で、棘が低く笑った。
『……言え。定義しろ。裂け目を……』
私は息を吸った。
怖い。喰われる。けれど今、裂けるなら――この一瞬しかない。
鏡の破片の中で、夫の瞳の同心円がぎらりと走る。
そして耳元で、合唱が囁いた。
「言って。僕に。僕は君の言葉で、完成するから」
完成。
喰われる前に、私は喰いつく。
私は鉄の輪を口元へ引き寄せ、冷たい金属に唇を当てた。
次に出す言葉が、私の運命を決めると分かりながら。
塩の輪の中心で、棘が最後の力で叫ぶ。
『そいつの名は――』
声が、影に飲まれた。
扉が背後で、ひとりでに閉まり始める音がした。




