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死に損なった冷酷公爵様、中身が「別の何か」に入れ替わっています 〜完璧な愛に私は喰べられる〜  作者: 綾瀬蒼


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第5話 扉の向こうの棘

『……エルサ』


 石扉の向こうから聞こえたのは、短く、刃のように冷たい声だった。

 私の知る――あの人の声。


 背後に迫っていた“抱擁”の気配が、わずかに停滞する。地下を満たす影の目が一斉に瞬きをし、次の瞬間には、また開いた。数が、増えている。


「今のは、何?」


 夫の形をした“それ”が、穏やかに問う。声が重なる。遠くの合唱が、低く笑う。

 けれど、その“穏やかさ”の下で、何かが軋んでいた。濡れた布を裂く前の音みたいな――抑えきれない焦り。


 アルノーが半歩前に出た。剣を抜く音が、地下に乾いて響く。


「奥様の後ろに近づくな」


 勇敢な言葉だった。だが影は、剣の届かない場所から始まる。床の黒が波打ち、彼の足首へ絡もうとする。


「アルノー!」


 私が声を上げるより早く、“それ”が優しく言った。


「乱暴はだめだよ。君が怪我をしたら、エルサが悲しむ」


 まるで彼の心配をしているように。

 でも、その優しさはアルノーのためではなく、私の反応を守るためだ。


 影がアルノーの足首に触れる寸前、私は鉄の輪を握りしめ、石扉の溝に押し込んだ。輪は吸い込まれるようにぴたりと嵌り、塩の線が淡く光った。


 ――鍵だ。


 石が、低く唸る。長い間閉じられていた扉が、骨を鳴らすように少しだけ動く。


『……開けるな』


 内側から、また声。今度は苦しげだった。掠れているのに、言葉は鋭い。

 私は喉の奥が痛くなった。怖さと、救われたい気持ちが同時に湧いてくる。


「奥様、開けましょう! 本物が――」


 アルノーが言いかけた瞬間、燭台の火がふっと消えた。闇が落ちる。

 闇の中で、白い点だけが浮かぶ。目、目、目。壁も天井も床も、呼吸するみたいに開閉する。


 そして、背中に温度が重なった。


 抱きしめられる。

 温かいのに、膜越し。心臓の鼓動は、秒針みたいに正確で、私の呼吸を勝手に整えていく。


「エルサ。戻って」


 耳元の囁きは甘い。けれど、複数の声が同時に私の名前を呼んでいる。

 名前が、群れに噛まれる感覚。


「君は、危ない場所へ行った。だから僕が、君を安全な場所に戻す」


 安全。

 それは私の意思を消す言葉だ。


 私は歯を食いしばり、抱擁の中で指を動かした。鉄の輪に爪を立て、塩の溝をもう一度なぞる。冷たさが痛みに変わり、痛みが私を“私”に戻す。


「……離して」


 震える声で言うと、“それ”の鼓動が一拍だけ揺れた。揺れたふり。学習の更新。

 けれど私は、それが嘘だと分かってしまった。


「エルサが望むなら、離す。……でも、その前に教えて」


 囁きが重なる。


「扉の向こうに何がある? 何を見た? 何を――知ろうとしてる?」


 最後の言葉だけ、声が多すぎた。合唱が一斉に息を吸い、地下がわずかに軋む。影の目が、私の口元へ寄る。


 言葉にするな。定義するな。まだ早い。

 医師の紙片が脳裏で警告する。


 私は唇を閉じたまま、代わりに扉の隙間へ目を凝らした。闇の中、わずかな光が漏れている。

 扉の向こうは、円形の部屋だった。


 床には塩の輪。壁には鉄の釘。天井から垂れる鎖。

 そして――鏡の破片が、無数に埋め込まれている。


 鏡の破片のひとつに、私たちが映った。

 私を抱きしめる夫の背後。影が盛り上がり、目が溢れ、人体の輪郭を越えて膨張している姿が、歪んで映る。


 別の破片には、違うものが映った。


 黒い棘。

 影の奥に刺さっている、細い棘のような“何か”。それが微かに震え、声が漏れる。


『……エルサ。聞け。そいつに――名を……』


 声は途中で途切れた。影が扉の隙間に触れた瞬間、塩の線が白く弾け、熱い音がした。

 “それ”が一瞬だけ呻き、抱擁が強くなる。痛いほどに。


「聞かなくていい」


 優しい声。怖い声。重なる声。


「君は、僕だけ見て。僕だけを信じて。僕は君を完璧に愛してる。君を壊さない。怖がらせない。……君が僕を怖がるなら、その怖さを消す」


 消す。

 それは慰めじゃない。削ることだ。私の中の警戒を、私の判断を、私の“違和感”を。


 私は息を吸い、鉄の輪を握った手を扉の溝から引き抜いた。輪が離れた瞬間、扉は重く戻ろうとする。

 このまま閉じれば、声は消える。棘も見えなくなる。私は元の寝室に戻される。


 けれど私は、戻りたくなかった。


 私は輪を、塩の溝ではなく――抱きしめてくる夫の腕へ押し当てた。


 鉄が触れた瞬間、肌の温度がひゅっと落ちた。膜越しの感触が一瞬だけ破れ、そこに“影の湿り気”が指先へまとわりつく。

 目が、近づく。私の手首を見ている。鉄を見ている。輪の形を、学習している。


「……それ、嫌だ」


 初めて、“それ”の声に子どもみたいな本音が混じった。重なりの奥で、何かが怯えた。


 ――効く。


 私は笑えないまま、扉へもう一度手を伸ばした。

 開ける。今度こそ。棘の声を、最後まで聞くために。


 影の目が、私の背中いっぱいに開いた。

 そして耳元で、甘い刃が囁く。


「開けたら、戻れないよ。君が“僕じゃない”と知った瞬間、君の心は割れる。……割れた心は、きっと美味しい」


 私は扉に指をかけたまま、震えを押し込んだ。


 割れてもいい。

 喰われる前に、私は――名を掴む。


 石扉が、また低く唸り始めた。

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