第4話 地下の塩
図書室を出たあとも、紙片の感触が指に残っていた。
――地下。塩と鉄。“名”を与えるな。
それを胸の内で反芻するたび、背後の気配が濃くなる。夫の形をした“それ”は、私の歩幅にぴたりと合わせて歩く。合わせすぎて、逆に怖い。
「エルサ、寒い?」
囁きが重なる。近い声と、遠い声。耳の奥で合唱が笑う。
「大丈夫です」
「大丈夫。覚えた」
その返事が、私の言葉を回収して封筒に入れたみたいで、息が詰まる。私は廊下の角で立ち止まり、すれ違いざまにアルノーへ視線を投げた。彼は理解したように、喉仏を一度だけ上下させた。
夜。
晩餐の席で夫は完璧だった。私の皿が空く前に次を勧め、私が咳払いすれば水を差し出し、笑うべきところで笑った。
完璧すぎて、私は自分が“手順”の一部になった気がした。
寝室へ戻ると、夫は私の髪を撫で、いつもより柔らかい声で言った。
「今日は、泣いた方がいい?」
そして自分の目尻に指を当てる。ぎゅ、と押し――涙を作る。
私は笑顔のまま首を横に振った。
「必要ありません」
「必要ない。理解した」
理解、という言葉の裏で、影が静かに膨らむ気配がした。私は布団に潜り、眠りのふりをした。
しばらくして、部屋の空気が変わる。
壁一面に影が広がり、無数の目が開く。目が、私のまぶたの薄皮さえ透かして見ているようだった。
その瞬間、枕元に冷たいものが触れた。鉄の輪。私は握りしめる。痛みが私を起こす。
――今だ。
私はゆっくりと体を起こし、寝台から抜け出した。床板が鳴らないように爪先で歩く。けれど、鳴らなくても“見られている”のが分かる。影の目が、私の動きを追っている。
廊下に出ると、アルノーが待っていた。薄暗い燭台の下で、彼の顔は青い。
「奥様……本当に行くのですか」
「地下へ。鍵は?」
彼は腰の束から古い鍵を一本だけ抜いた。錆びているのに、握る手が震えていない。覚悟を決めているのだ。
「マルタ様が……『この鍵は落としたことにしろ』と」
やはり、彼女は知っている。守っているのは“私”か、それとも“公爵家”か。
地下への階段は厨房の奥、誰も使わない扉の向こうにあった。鍵を差し込むと、金属が嫌な音で泣く。
扉が開いた瞬間、冷気が顔を撫でた。土と塩と、古い鉄の匂い。
私たちは灯りをひとつだけ持って降りた。壁には黒い染みが走り、ところどころに白い粉が線を描いている。塩だ。誰かが、ここに“境界”を作った。
階段を降り切った先の石扉には、円形の溝が彫られていた。溝に沿って塩が詰められ、その上に鉄の釘が等間隔に打たれている。
私は紙片の言葉を思い出し、鉄の輪を扉に近づけた。
すると――
カチ、と小さな音。輪が、溝に吸い寄せられるようにぴたりと嵌った。
「……合う」
私の声が震えた。
次の瞬間、背後の燭台の火がふっと長く伸び、影が階段の方から流れ落ちてきた。
目。
暗闇の中で、無数の白い点が開く。壁も天井も床も、全部が“見て”いる。
「奥様、後ろ……!」
アルノーが剣に手をかけた。しかし剣先が触れる前に、影が彼の足元を舐めるように這い、逃げ道を静かに塞いだ。
耳元で、あの声が落ちる。寝室にいたはずの夫の声が、ここにいる。
「エルサ。夜は危ない」
近い声と遠い声。重なる合唱。優しく叱る響き。
私は扉の前から動けなかった。鼓動が一定のまま、背中に“抱擁”の圧が迫る気配がする。
「君が寒いと、僕は困る。君が怖いと、僕は直す。……だから戻って」
その言葉に、私は初めて確信した。
この“優しさ”は、私のためではない。私を壊さずに、私を所有するためだ。
私は息を吸い、震える手で塩の溝に指をなぞらせた。言葉にするな、定義するな。まだ早い。
けれど――このまま戻れば、私は永遠に“最適化”される。
扉の向こうから、微かな声がした。
低く、短い。冷たい。
それは私が知っている、あの人の声だった。
『……エルサ』
夫の形をした“それ”が、初めて黙った。
影の目が一斉に瞬きをし、地下の空気が裂けるように冷えた。




