第3話 鏡に映るもの
鉄の輪は、掌の熱を奪い続けた。冷たさがある限り、私は夢の中に沈み切らずにいられる。
昼下がり、私は化粧台の鏡を拭いた。銀の縁飾りが光を返し、そこに私と――背後の扉が映る。
扉は閉まっているのに、影が揺れた気がした。
「エルサ」
足音がない。振り向く前から分かる。
「鏡を磨いていたのです」
「僕が映る?」
夫が背後に立つ。鏡の中で、彼の輪郭は完璧だった。黒銀の髪、薄い金の瞳、軍装の皺ひとつない襟。
ただ――影だけが、遅れてついてくる。
私は息を殺し、鏡越しに夫の背後を見た。椅子の脚のあたりから滲む黒が、床を這い、壁へ伸びていく。波のように膨らみ、ぷつ、ぷつ、と白い点が灯る。
目。
昨夜より少ないが、確かにそこにある。
私の指が無意識に鉄の輪を握りしめた。痛みが走り、私は現実に戻る。
その瞬間、鏡の中の夫の瞳が、わずかに細まった。光の奥に同心円が走る。
「それ、何?」
優しい問い。だが声が重なっている。近い声の奥で、別の声が“知りたがって”いる。
「古い指輪です。お守りに」
「お守り」
夫が言葉をなぞる。次に、私の手を取ろうとする。
私は反射で一歩引いた。拒絶の動きだった。
すると夫の胸の鼓動が、一拍だけ乱れた。――いや、乱れた“ように”聞こえた。私の呼吸に合わせて、わざと揺らしたのだ。
「ほら。人間らしくできる」
褒めてほしそうに言う。私は笑顔を作ったまま、唇の裏を噛んだ。
学習している。私の恐怖さえ、材料にして。
「エルサは、鏡が好き?」
「……身だしなみのために必要です」
「必要。理解した」
夫の指が私の頬に触れる。触れる寸前で止める、あの正確な距離。
そして、触れた。
温かい。けれど膜越しだ。皮膚が皮膚に届かない。
私は鏡を見たまま、彼の影の目が、ひとつ増えたのを見た。
「奥様」
扉の外からマルタの声がした。いつも通り平坦で、だからこそ救いに聞こえた。
「図書室の鍵をお持ちいたしました。……奥様が昨夜お望みでした“記録”の件で」
私は一瞬、視線を夫から外した。
望んだ覚えはない。けれどマルタは“私が望んだ”と言った。――逃げ道を作ってくれたのか、それとも罠か。
夫は微笑んだ。
「行っておいで。僕は、君が安心するなら、何でも許す」
許す、という言葉が、鎖の音に聞こえた。私は礼をして部屋を出た。
廊下でマルタは鍵束を差し出し、低い声で言った。
「鏡の前では、お気をつけください」
私は足を止めた。
「……知っているのね」
「知っていることと、言えることは違います」
それだけ言うと、彼女は去っていった。足音が、本当に消える。
図書室は冷え、埃と革表紙の匂いが満ちていた。私は鍵を回し、奥の棚を開ける。古い公爵家の記録帳。封蝋は剥がされた痕がある――誰かが最近読んだ。
そこに挟まっていたのは、薄い紙片。医師の筆跡。
『鏡。塩と鉄。地下。
“名”を与えられることを恐れる。
呼吸と鼓動を真似るが、揺らぎは借り物。
――見たら、言葉にするな。定義するな。まだ早い』
私は紙を握りしめた。定義するな。――真名を口にすれば不安定になる。けれど、早すぎれば私が喰われる。
背後で、図書室の扉が閉まる音がした。
振り向くと、夫が立っていた。どうして。鍵は私だけが持っているはずなのに。
彼は微笑み、私の手元――紙片と鉄の輪に視線を落とした。
「エルサ。君は、何を学んでるの?」
声が重なる。甘く、親密で、逃げ場を奪う音。
私は紙を背に隠し、鏡のないこの部屋で、なお彼の影が床に滲むのを見た。
そして彼が一歩近づいた瞬間、壁の硝子戸に、私たちが映った。
夫の背後に――目が、溢れていた。
彼はそれに気づいていないふりをして、囁いた。
「見えた?」
私は笑えなかった。
鉄の輪が、掌の中でひどく冷たく鳴った。




