第20話 最後の縫い目
その日の夕方、レオンハルトは再び目を開けていた。
長くは起きていられない。それでも瞳に焦点がある。瞬きは遅れない。脈は揺れる。人間の揺らぎだ。
私は寝台の傍らで、塩と鉄と血の道具を並べた。
塩糸、鉄釘、小さな鏡の欠片。ユリウスの用意した細い針。マルタの鍵束。
そしてアルノーの足首。包帯の下に残る黒い痕――目の芽。
アルノーは立っていられず、椅子に座っていた。顔色は悪いが、目は私を見ている。怯えながらも、人間の目だ。
「奥様……すみません」
「謝らないで」
私は短く言った。
謝罪は縫い目になる。罪悪感は餌になる。ここでは、削る。
ユリウスが包帯を解いた。
黒い痕は薄いが、確かに残り、その中心に白い点が小さく瞬いていた。
見ている。芽が、見ている。
レオンハルトがそれを見て、掠れ声で言った。
「……残滓か」
冷たい言い方。
でもその冷たさは、怪物の優しさと違う。目的がはっきりしている冷たさだ。守るための刃。
マルタが淡々と告げた。
「奥様。縫い直しは、誓いと定義です。声ではなく、血で」
私は針先で指を刺した。痛み。血。
血がある限り、私は喰われない。
血を塩に落とし、赤い粒を作る。
その粒を、アルノーの足首の黒い痕の周囲に小さな輪として置いた。血塩の輪。
白い点――目の芽が、ぴくりと震えた。
耳元で、聞こえた気がした。
地下の檻からではない。アルノーの足首の中から、薄い囁き。
「……ここ、あたたかい」
私は喉が冷えた。
糸はまだ生きている。小さくても、学習している。
私は声を出さず、紙に文字を書いた。震える手で。
《アルノーは人間側の者》
《この痕は影ではない》
《影はここに住まない》
書いた紙を血塩の輪の外側に置き、鉄の輪――小さな釘を二本、輪の左右に打った。
鉄が、目の芽を挟む。逃げ道を塞ぐ。
アルノーが呻いた。痛みではない。寒気だ。
皮膚の下で何かが動き、抜け出そうとしている。
その瞬間、レオンハルトが上体を起こした。
まだ弱いのに、意地だけで起きる。彼らしい。
「見ろ」
彼はアルノーを見下ろし、短く命じた。
「それは、お前じゃない」
言葉が少ないほど、強い定義になる。
アルノーの喉が震え、涙が浮かんだ。泣けば、目の芽が喜ぶ。私は首を横に振った。
アルノーは歯を食いしばり、泣く代わりに頷いた。
「……俺じゃない」
その瞬間、白い点が大きく瞬いた。
嫌がっている。否定が刺さっている。
ユリウスが塩を追加で押し込み、黒い痕の上に細い塩糸を当てた。
マルタが淡々と唱える。
「輪は縫い。縫いは拒絶。拒絶は境界」
私は最後の“拒絶”を書く。血で。
紙ではなく、アルノーの足首のすぐ横の床に、小さく。
《多眼の胎の糸、ここを去れ》
書いた瞬間、空気がきしんだ。
白い点が、皮膚の上で“目”として開きかけ、次の瞬間、ぎゅっと潰れたように消える。
アルノーが息を吐き、体の力が抜ける。
黒い痕が、薄い灰色へ変わっていく。影の湿り気が、塩に吸われて乾く。
……終わった?
私は確かめるように、鉄の輪を強く握った。
輪は地下にある。ここにない。なのに私の指が、空の輪郭を探してしまう。習慣になった恐怖。
レオンハルトが、私を見た。
薄い金の瞳が揺れる。人間の揺らぎ。
「……よくやった」
たった四文字。
偽物の完璧な褒め言葉ではない。生々しい重さがある。
私は息を吐き、初めて笑った。少しだけ。
「あなたも」
レオンハルトは一瞬だけ口元を動かし、笑みになりかけて、ならなかった。
それでも彼は手を差し出した。手袋越しの、慎重な距離。
私はその手を取った。
秒針ではない鼓動が、互いにずれて重なる。ずれているから、喰われない。
マルタが鍵束を整えながら、淡々と言った。
「これにて封じは完了。奥様は鍵守となりました。旦那様は生存。屋敷は、日常へ戻ります」
日常。
でも私は知っている。完璧な愛は“完全に消えない”。檻の底で、まだ眠っているだけだ。
私はその事実を、言葉にしない。言葉にすれば、糸になる。
ただ、地下の方角を一瞬だけ見て、心の中で釘を打った。
――開けない。
――呼ばない。
――望まない。
夜、私は久しぶりに眠った。
夢は見なかった。見えなかった。
そして朝、レオンハルトが窓辺で言った。
「朝だ。歩け」
私は頷き、彼の手を取って廊下へ出た。
完璧ではない朝。
けれど私は、もう喰べられない。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
『死に損なった冷酷公爵様、中身が「別の何か」に入れ替わっています 〜完璧な愛に私は喰べられる〜』は、「溺愛」と「生理的な違和感」を同じ抱擁の中に同居させたら、どれくらい怖くなるんだろう――そんな発想から始まりました。
優しいのに息が詰まる。完璧なのに気持ちが悪い。
心臓の鼓動が一定すぎる、声が重なって聞こえる、涙の作り方がズレている。
そういう“理屈では説明できない嫌悪感”を、ロマンスの甘さのすぐ隣に置いてみたかったのです。
そして、エルサが最後まで戦った相手は、《多眼の胎》そのものだけではなく、
「愛されたい」という気持ちが生む弱さと、安心の形を求める心だったと思います。
完璧な言葉や振る舞いは、ときに人を救います。けれど同時に、人を削ってしまうこともある。
だからこそこの物語では、“不完全な揺らぎ”を生の証として大切に描きました。
冷酷公爵レオンハルトは、甘い言葉を多くは言いません。
でも、その不器用な短い一言が、偽物の完璧な囁きよりずっと強い「人間の重さ」を持てたらいいな、と思いながら書いていました。
エルサが「喰べられない」ために選んだのもまた、完璧な正しさではなく、痛みや迷いを抱えたままの意思だったのだと思います。
今回の物語は、ひとまずここで一区切りです。
封じは成り、日常は戻る――けれど“学習する怪物”が残した余韻は、読者の皆さまの中にも、どこか小さく棲みついているかもしれません。
もし「この先」を望んでくださる方がいたら、鍵守となったエルサのその後も、いつか書けたら嬉しいです。
最後に、感想・評価・ブックマーク、どれも執筆の大きな力になります。
ここまで一緒に、甘くて不気味な屋敷の夜を歩いてくださって、ありがとうございました。
面白いと思ったら、下にある⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎から評価をお願いします。




