第2話 脈の揺らぎ
翌朝、私は鏡の前で自分の顔を確かめていた。
頬は青白い。瞳の下に薄い影。けれど、眠れなかったはずなのに髪は乱れていない。誰かが整えた――夜の間に。
思い出す。壁一面に広がった影と、無数の目。瞬きに合わせて瞬きを返した、あの異様な律儀さ。
背後で扉が開く音がした。足音は軽い。近衛騎士アルノーの靴音なら、もっと硬いはずなのに。
「エルサ」
振り向く前から分かる。夫の声。ひとつではない声。
私は鏡越しに彼を見た。軍装は完璧。襟元の銀の留め具も、昨夜と同じ角度で光っている。まるで夜の間に一度も脱がなかったみたいに。
「眠れた?」
「少しだけ」
嘘ではない。少しは眠った。眠らされた、と言う方が正しいかもしれない。
「目の下に影がある。悲しい?」
彼は私の横に立ち、鏡の中の私の顔を指先でなぞった。触れる寸前で止める。距離の測り方が、やけに正確だ。
「悲しいわけでは……」
「じゃあ、怖い?」
質問が柔らかいのに、逃げ場がない。私は息を整えた。鼓動を乱したら、彼は“修正”してくる。
「驚いているだけです、公爵様。……三日前のことが、まだ」
“死んだ”という単語を避けた。口にすれば、この屋敷のどこかが裂けそうだったから。
彼は小さく頷き、まるで学習帳に印を付けるように言った。
「驚き。理解した。エルサが驚くのは、僕が戻ったから」
僕――?
レオンハルトは自分をそう呼ばない。けれど私は笑顔を崩さず、扉の方へ一歩下がった。
「医師に診ていただいた方が良いのでは。万が一ということも――」
「医師」
夫がその言葉を繰り返すと、声の重なりが一瞬だけ濃くなった。複数の息遣いが同時に笑うような音。
「呼べばいい」
私は頷き、マルタを呼ばせた。侍女長はすぐに現れ、いつもの無表情のまま頭を垂れる。
「ユリウス医師をお呼びいたします」
彼女は私の顔を一瞥し、次に夫を見た。ほんの一拍。目を伏せる間が、祈りのようだった。
――彼女は知っている。何かを。
ほどなくして医師ユリウスが現れた。いつもより汗の匂いが強い。白衣の裾が僅かに乱れているのは、走ってきた証拠だろう。
「閣下……お加減は」
「診ろ」
夫は椅子に腰掛け、手袋を外した。指が長い。爪の形が整いすぎていて、作り物みたいに見える。
ユリウスは私に一度だけ視線を寄こした。逃げろ、と言いたい目だった。けれど言葉にできない。屋敷の空気が、彼の口を塞いでいる。
医師は夫の手首に指を当てた。
――沈黙。
その沈黙が長いほど、私の背中に冷たい汗が流れた。
「……脈は、あります」
やっと出た声は、乾いていた。
私はほっと息を吐きかけ、すぐに止めた。脈がある? なら昨夜の“秒針”は私の錯覚?
けれどユリウスは続ける。
「ただ……揺らぎが、ありません」
夫が首を傾げる。
「揺らぎ?」
「通常、脈は呼吸や感情で微細に変わります。一定すぎるのは……」
「一定が悪い?」
問いは素朴だ。けれど、その素朴さが恐ろしい。
ユリウスは言葉を飲み込んだ。飲み込んでから、慎重に選ぶ。
「……人間らしく、ない」
その瞬間、部屋の温度が一段下がったように感じた。私の錯覚ではない。夫の影が、椅子の脚の下で僅かに濃くなる。
夫は笑った。やさしく。やさしすぎる。
「人間らしく。理解した」
そして、私の方を見た。鏡のように私の表情を写し取る目。
「エルサは、人間らしい僕が好き?」
心臓が跳ねそうになった。跳ねたら、彼に矯正される。私は口角を上げた。
「ええ。……そうですね」
夫は満足そうに頷いた。
「なら、練習する」
練習。
その言葉の軽さに、私は背筋が凍った。人間らしさを“練習”するものが、私の夫の皮を被っている。
診察が終わり、ユリウスが器具を片づける隙に、私は彼に近づいた。マルタと夫の視線が一瞬外れた、その刹那。
「先生」
囁く。唇だけ動かす。
「三日前、あなたは……」
ユリウスの目が揺れた。彼は小さく首を横に振り、同じくらい小さく、私の手のひらに何かを滑り込ませた。
冷たい金属。
私は握りしめた。指先に刻まれた形が、細い輪だと分かる。
塩と鉄の輪――昔話の結界に出てくる。
ユリウスは平静を装い、声を張った。
「奥様、今夜はお休みを。閣下も無理はなさらぬよう」
「無理?」
夫が聞き返す。
「無理とは、どこから?」
ユリウスは一瞬黙り、曖昧に笑った。
「……奥様が“無理”と感じるところからです」
その回答に、夫の瞳が僅かに細まった。光の奥に同心円が走ったように見えたのは、気のせいではない。
医師が去った後、私は自室に戻り、握っていた輪を机に置いた。鉄の匂いがする。触れた指先が冷えていく。
夜の帳が降りる前、アルノーが廊下で私を待っていた。視線が落ち着かず、喉仏が上下する。
「奥様。……昨夜、寝室の外で、妙なものを見ました」
私は胸の奥で小さく息を止めた。
「妙なもの?」
「影が……伸びていました。壁を這うように。目……みたいな」
アルノーの声が震えた。彼も見た。見てしまったのだ。
「公爵閣下に、報告したかしら」
彼は即座に首を横に振った。
「できません。……あれは、閣下の影でした」
言った瞬間、廊下の燭台の火がふっと揺れた。誰も触れていないのに。
アルノーが息を呑む。私も。
そして背後から、あの声が落ちてくる。
「何の話?」
複数の声が重なる。
振り向くと、夫が立っていた。足音もなく。
私は即座に笑顔を作り、輪を袖の奥で握り直した。鉄が肌に食い込む。痛みが、私を現実につなぎとめる。
「今夜の晩餐のことです、公爵様」
「晩餐」
夫は頷き、私の肩を抱いた。鼓動が、また一定に刻まれる。
私の心臓の乱れを、包み込んで押し潰すように。
「エルサ。君が嫌がることはしない。君が望む“人間らしさ”になる」
甘い囁き。耳元で重なる声。
けれど私は知ってしまった。
彼は、変わるのではない。
私を基準にして、私を閉じ込める形に“最適化”する。
夜が来る。影が広がる。目が開く。
そして私は、その目に見られながら、鉄の輪を握りしめる。
――正体を言葉にできた瞬間、これを投げつければいいのか。
それとも、投げつけた瞬間に、私が喰われるのか。
夫の腕の中で、私は初めて「逃げたい」と思った。
だが鼓動が一定すぎて、逃げる呼吸の仕方さえ、奪われていく。




