第19話 起きる鼓動
地上へ戻る頃には、東の窓がわずかに白んでいた。
夜が終わる音はしない。影が少し薄くなるだけだ。薄くなった影ほど、目立たないぶん怖い。
寝室に入ると、空気が“軽い”。
輪を地下へ縫い付けたせいだ。息をする檻がいないだけで、私の肺はこんなに広かったのかと思う。
ユリウスは真っ先にレオンハルトの脈を取った。
アルノーは椅子に沈み込み、足首を押さえたまま目を閉じる。マルタは何も言わず、寝台の四隅の塩糸を指先で確かめる。役目の動き。
「……揺らぎが、少し戻っています」
ユリウスの声が低く震えた。
私は息を吐いた。吐けたことに驚く。秒針に合わせなくていい呼吸。
レオンハルトの胸が、ゆっくり上下する。
私が名前を呼んだ時に返ってきた掠れ声を思い出し、喉の奥が熱くなった。
私は寝台の脇に座り、彼の手を取った。
冷たい。けれど、人間の冷たさだ。膜越しではない。湿り気もない。
「……戻って」
言葉が漏れた。しまった、と思う。
でもこれは怪物への餌じゃない。夫への願いだ。私はその区別を、今夜で覚えたはずだ。
しばらく、何も起きなかった。
けれど――
レオンハルトの指が、微かに動いた。
握り返す、というほど強くはない。
それでも確かに、私の指を探るような動き。
「……!」
私は息を止めた。
ユリウスも息を止めているのが分かった。部屋の全員が、音を出さないように生きている。
レオンハルトの瞼が、少しだけ持ち上がる。
薄い金の瞳が覗いた。光の奥に同心円はない。瞬きは遅れない。
揺れる。人間の揺らぎ。
『……』
声にならない息が漏れた。喉が乾いている。
私は水差しに手を伸ばし、杯を持つ。手が震える。震えがあるのは、生きているからだ。
杯を唇に当てると、レオンハルトの喉が小さく動いた。
それだけで、胸が痛い。偽物の完璧ではない。弱さのある現実。
彼が、掠れた声で言った。
「……どこだ」
短い問い。冷酷公爵の言い方。
私は笑いそうになって、堪えた。笑えば泣きの形になる。泣きは餌になる。
「屋敷です。あなたの寝室」
「……俺は」
言葉が途切れる。記憶の断片を掴もうとするみたいに、眉が寄る。
その瞬間、私の背中が冷えた。――影の記憶が彼に残っているなら、夢の入口は彼の側にもある。
ユリウスが慎重に言う。
「閣下、無理に思い出そうとしないでください。心臓に負担が」
レオンハルトはユリウスを一瞥し、短く言った。
「黙れ」
いつもの調子。
その言葉に、私は泣きそうになった。冷たいのに、ひどく安心する。
彼の瞳が私へ戻る。
「……エルサ」
私の名。
重なりがない。ひとつの声。私は頷いた。
「はい」
レオンハルトは数秒、私の顔を見た。
まるで私が“私”か確かめるように。あるいは、私が怖がっていないか見るように。
「……無事か」
たった三文字。
それだけで、胸が熱くなる。
「無事です。あなたは……」
言いかけて、私は止めた。
“あなたは本物”と言う言葉が、逆に隙になる気がした。定義は危険だ。確かめるのは、脈と揺らぎで足りる。
レオンハルトは小さく頷き、目を閉じた。
疲れたのだろう。まだ起きてはいられない。
その瞬間、マルタが淡々と告げた。
「奥様。輪を地下に縫いました。……ですが、もう一つ残っています」
「残っている?」
「『糸』です」
マルタはアルノーの足首を見た。
黒い痕。そこに残る目の芽。地下の檻を閉じても、現実の媒介に残った“糸”がある限り、あれは戻る道を持つ。
アルノーが目を開け、怯えた声で言った。
「……俺の足に、まだ……?」
ユリウスが唇を噛む。
「傷口を切除すれば……いや、それは――」
マルタは首を横に振った。
「切除ではありません。縫い直すのです。奥様の誓いで」
私の誓い。
鍵守になった私の言葉が、次の封じになる。
私はレオンハルトの手を離さずに、マルタを見た。
「どうすれば」
マルタは淡々と答えた。
「奥様が、アルノー殿を『人間側の者』として定義し直す。言葉ではなく、塩と鉄と血で。
そして旦那様が目覚めた状態で、最後の“拒絶”を与える」
拒絶。
怪物への拒絶。愛の偽物への拒絶。
私がやる。レオンハルトも、起きているうちに。
私は息を吸い、頷いた。
完結はまだ先だ。けれど、夫の鼓動が起きた。
それが、次の戦いの始まりの合図だった。




