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死に損なった冷酷公爵様、中身が「別の何か」に入れ替わっています 〜完璧な愛に私は喰べられる〜  作者: 綾瀬蒼


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第18話 地下へ戻す夜

 夜明け前、屋敷は一番静かになる。

 静かだからこそ、音が目立つ。床板の軋み、布の擦れ、私の呼吸の揺らぎ――全部が“誰か”に拾われそうで怖い。


 レオンハルトは眠ったままだった。

 けれど脈は揺れている。秒針ではない。弱く、不規則に、ちゃんと生きている。


 私は寝台のそばで一度だけ目を閉じ、すぐ開けた。

 眠るわけにはいかない。夢の入口を作れば、《多眼の胎》は布の檻の中からでも糸を伸ばす。


 机の上に置いた布包み――鉄の輪が、時折ちい、と鳴る。

 息をする檻。内側の合唱は眠っていない。檻の形を舐め、縫い目を数えている。


 私は包みを手に取り、塩糸の縫い目をもう一度確かめた。

 針の穴は小さい。けれど小さい穴ほど、影は好きだ。隙間を探すのが上手い。


「奥様」


 扉の外で、マルタの声がした。平坦な声。今日も役目の声。


「行けますか」


 私は頷き、短く返した。


「行きます」


 鍵束を腰に下げ、包みを胸に抱える。冷たさが肋骨に沿って広がる。

 その冷たさの奥に、ぬるい湿り気がある気がして、私は歯を食いしばった。


 廊下に出ると、ユリウスとアルノーが待っていた。

 アルノーは足首を引きずっている。包帯の下の黒い痕は薄いが、消えていない。彼の目はまだ恐怖で揺れる。

 揺れているから、人間だ。


「奥様、地下の封印室に戻せば、輪は落ち着きます」


 ユリウスが囁く。

 私は答えず、ただ歩いた。返事は縫い目になる。


 厨房の奥の扉。

 マルタが鍵を差し込み、回す。鉄が泣く音。冷気が吐き出される。


 階段を降りるたび、包みの中の輪が小さく鳴った。

 ちい。ちい。

 まるで私の胸の鼓動に合わせようとしている。秒針を探している。


 封印室に入ると、塩の匂いが濃くなった。血塩の点がまだ残り、鏡の破片が壁で冷たい光を返す。

 塩の輪の中心――あの裂け目の上に、石の台座が用意されていた。マルタが準備したのだろう。台座の縁にも塩糸が巻かれ、鉄釘が打たれている。


「そこへ」


 マルタが指さす。

 私は包みを抱えたまま台座へ近づいた。塩の線を跨ぐ瞬間、輪がぎし、と鳴った。


「嫌だ」


 声が漏れた。布の中から。ひとつに近い声。

 私は足が止まりそうになり、無理に爪先を前へ出した。


「嫌だね」


 声は続く。甘く、親密で、子どもの泣き声みたいに健気。


「君の胸、温かい。君の匂い、好き。……ここ、寒い」


 私の吐き気がこみ上げる。

 会話をしたら終わりだ。言葉は糸になる。だから私は答えない。


 ユリウスが塩を掌で握りつぶし、台座の周囲へ撒いた。白い粒が落ち、輪郭が固まる。

 アルノーが震える手で剣を抜き、鉄の刃先を台座の縁へ添えた。鉄を増やす。

 マルタが平坦に唱える。


「輪は檻。檻は口。口は閉じる」


 その言葉に合わせるように、包みの中の輪が暴れた。

 布が内側から引っ張られ、縫い目がきしむ。


「開けて」


 囁き。

「エルサ、開けて。君が望むなら、僕は大人しくする。君が望む夫に――」


 望むなら。

 その言葉が鍵だ。私の意思を鍵穴にする。


 私は歯を食いしばり、包みを台座の上に置いた。

 置いた瞬間、冷気が輪の内側から私の指を引っ張る。名を呼べ、と誘う。言葉をくれ、と。


 私は声を出さず、紙を取り出した。

 寝室で書いた一行に、さらに足す。インクが震える。私の手が震える。


《輪は地下に留まる》

《輪は夢へ伸びない》

《輪は言葉を食べない》


 書き終えた瞬間、輪がぎし、と鳴った。

 「言葉を食べない」が効いたのか、逆に怒ったのか分からない。合唱が内側で息を吸う。


 マルタが私の指先を取り、針先で小さく刺した。血が一滴落ちる。


「血で固めてください。奥様の鍵です」


 私は血を紙の文字に落とした。赤が黒に染み、インクが濃くなる。

 すると、輪の中の声が一瞬だけ掠れた。喉を詰まらせたみたいに。


「……痛い」


 違う。痛いのは私だ。

 でも彼は私の痛みを“自分の痛み”として学ぼうとする。


 私は血の指で、最後に一語だけ紙に書いた。


《黙れ》


 書いた瞬間、封印室の空気が一段沈んだ。

 輪が、すとん、と静かになる。息をする音が止まる。


 ――閉じた。


 私は膝が抜けそうになり、ユリウスが支えた。

 アルノーが長く息を吐き、足首の黒い痕がほんの少し薄くなったように見えた。


 マルタが台座の縁へ鍵束の一つを置き、淡々と告げる。


「これで輪は地下に縫われました。ですが、満ちる日は来ます。奥様は“鍵守”として、満ちる前に次の封じを準備してください」


 私は頷く。

 終わりではない。けれど、今夜は一つ閉じた。


 封印室を出る前、私は台座の上の布包みを一度だけ見た。

 布は静かだ。縫い目も動かない。


 それでも――鏡の破片の一枚に、私の背後の影が映った。

 影の中に、白い点がひとつだけ浮かぶ。


 目。


 私は振り向かなかった。

 ただ鍵束を握り、冷たい金属音で自分の揺らぎを確かめながら、地上へ戻った。

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