第17話 檻が息をする
地上へ戻る階段で、私は一度も振り向かなかった。
振り向けば、“耳元の囁き”を見てしまう気がしたからだ。見た瞬間、定義が生まれ、縫い目になる。
ユリウスとアルノーがレオンハルトを担ぐ。生きた重さ。血の温度。呼吸の微かな乱れ。
――秒針じゃない。人間の揺らぎ。
寝室に着くと、私は縫い封じを張り直した。塩糸を四隅に渡し、鉄釘を打ち、鏡の欠片を内側へ向けて伏せる。
檻を作るのは嫌いだ。けれど檻がなければ、私が喰われる。
袖の中の鉄の輪が、湿ったように冷たい。
私は輪を机の上に置き、布で包んだ。包むと同時に、輪が小さく鳴った。
ちい。
金属音なのに、呼吸みたいだった。
「奥様……それは、地下へ」
ユリウスが言いかける。私は頷いた。分かっている。
でも今夜は動けない。動けば屋敷中に「輪はここだ」と教える。
アルノーが椅子に腰を落とし、足首を押さえた。包帯の下の黒い痕が、まだ脈打っている。
その黒の中に、白い点――目の芽が浮かびかけ、塩で押さえられているのが見えた。
「……俺、役に立てましたか」
掠れ声。騎士の誇りが、恐怖で薄くなる瞬間の声。
「立ちました」
私は短く答えた。励ましの言葉を飾る余裕はない。飾れば、影が飾り方を学ぶ。
アルノーはそれだけで、ゆっくり頷いた。脈が揺れる。揺れている限り、彼は“人間側”にいる。
レオンハルトの寝台のそばに座り、私は彼の手を取った。
手袋のない皮膚。膜越しではない。湿り気もない。冷たいのに、確かに温度がある。
その瞬間、輪がまた鳴った。
ちい、ちい。
布の中で、何かが身じろぎするように。
――檻が息をしている。
私は喉の奥で息を止め、輪へ視線を向けないまま紙を引き寄せた。
声は餌。文字は釘。
インクを含ませたペン先で、たった一行。
《輪は檻。開ける者は、私が許さない》
書き終えた瞬間、布の中の輪が、ぎし、と不快に鳴った。
合唱が、内側で笑いかけて――笑えずに喉を鳴らした気配。
そして、耳元に落ちた。
「許さない、って……素敵」
ひとつに近い声。甘く、親密で、ひどく正確。
私は凍ったまま、返事をしない。返事は縫い目になる。
代わりに、レオンハルトの手を強く握った。
彼の胸が、弱く揺れる。
その揺らぎが、私を現実へ引き戻す。
レオンハルトの喉が微かに震えた。
『……捨てるな』
短い命令。冷酷公爵の不器用な優しさ。
私は頷き、囁く。
「捨てません。封じます。あなたが戻るまで」
言い終えた瞬間、輪の中から、今度は小さな笑いが漏れた。
「戻るまで、ね……うん。待てるよ」
――待つ。学ぶ。ほどく。
その言葉が、未来の形を持っていた。
私は塩糸を手に取り、布ごと輪を縫い留めた。縫い目を増やす。鍵穴を減らす。
針が布を貫くたび、指先が痛む。痛みがある限り、私は私だ。
鏡の欠片が、どこかでカチ、と鳴った。
まるで「見た?」と問い返すみたいに。
私は答えない。
ただ、夫の手を握り続ける。人間の揺らぎを、夜の間ずっと確かめ続ける。
檻が息をしても、私が息を奪われないように。




