第16話 棘が呼んだ名
闇が閉じたあと、地下は急に“広く”感じた。
目がない。見張られていない。そう思った瞬間こそ怖いのに、今だけは胸が少し軽い。
輪の中心に、レオンハルトの身体が倒れている。
夫の形をしていた“それ”は引き剥がされた。けれど、器は残った。器の中身――棘は、まだ縫い留められている。
「閣下……!」
アルノーの声が掠れる。倒れているのは主君だ。支えたいのに、足首の包帯の下が黒く脈打ち、彼は膝をついたまま動けない。
ユリウスが私より先に駆け寄り、脈を探った。
沈黙。
その沈黙が、あの夜の“死亡宣告”を思い出させる。私は鉄の輪を握りしめ、指の冷たさで耐えた。
「……あります」
ユリウスが言った。声が震えている。
私は息を吐きかけて、すぐ止めた。油断すると奪われる。
「揺らぎは……」
ユリウスはもう一度指を当て直し、唇を噛んだ。
「……揺らぎがあります。わずかですが」
秒針ではない。
人間の揺らぎ。胸が痛むほどの救い。
マルタが淡々と命じた。
「奥様、触れてください。鍵は、最後に“持ち主”の手で閉まります」
「持ち主……?」
「配偶者です。誓いを書き換えた者が鍵になります」
私は頷き、膝をついてレオンハルトの手を取った。
手袋をしていない。皮膚の温度が、薄いけれど確かにある。膜越しではない。湿り気もない。
ただ、冷たい。
その瞬間、私の掌の中の鉄の輪が、ちい、と小さく鳴った。
――嫌がっている。
輪の中に残ったものが、まだ“こちら”を見ている。
私はレオンハルトの指を握り、口を開いた。
名前を呼ぶのは怖い。声は餌になる。けれど今呼ぶのは、怪物の名じゃない。器の名だ。人の名だ。
「……レオンハルト」
言った瞬間、空気が一度だけ震えた。
鏡の破片のどれかが、カチ、と鳴った。
レオンハルトの瞼が、微かに動く。
開かない。けれど、内側から“応答”がある。
『……』
声にならない息。
私はもう一度、少しだけ強く握った。
「ここにいます。私は、逃げません」
自分の言葉に驚いた。逃げない。
それは怪物に言う言葉じゃない。レオンハルトに言いたかった言葉だ。政略結婚の薄い誓いではなく、私の意思の誓い。
すると、レオンハルトの喉が僅かに震えた。
掠れた声が、落ちる。
『……エルサ』
ひとつの声。重なっていない。
私は息を呑み、涙が出そうになるのを堪えた。泣けば、輪がそれを覚える気がした。
「はい」
短く返す。余計な言葉を与えない。
ユリウスが急いで包帯を広げ、レオンハルトの傷口を確認する。
マルタは塩の輪の縁に残った血塩を整え直し、鉄釘を一本一本確かめた。鍵守の手つき。
アルノーは足首を押さえたまま、苦しげに言った。
「……奥様、あれは……戻ってきませんよね」
私は答えなかった。
“戻らない”と言えば、その言葉が隙間になる。“戻る”と言えば、期待が餌になる。
代わりに、鉄の輪を見た。
輪の表面が、ほんの僅かに濡れて見える。影の湿り気。器がまだ満ちきっていない証。
マルタが私の目線を追い、静かに言う。
「終わりではありません。完結ではなく、区切りです。輪は器。器は満ちます」
満ちる。
その時、また縫い目を探してくる。夢からではなく、現実から。人の形を借りて。
レオンハルトが微かに眉を動かした。
意識が戻りきっていないのに、何かを理解しているような動き。
『……輪を……』
掠れた声。短い言葉。
私は身を乗り出した。
「輪を?」
『……地下に……置け』
命令形。冷酷公爵の言い方。
その不器用さが、妙に安心をくれた。完璧じゃない。だから人間。
私は頷いた。
「置きます。封じます。あなたが戻るまで」
言い切った瞬間、輪がまた小さく鳴った。
不満そうな鳴り方。狭い器の中で、合唱が微かに息をする気配。
ユリウスが顔を上げた。
「奥様、今夜はここで終えましょう。閣下を上に運ぶ。アルノー殿の足も処置が必要です」
私は頷き、立ち上がりかけ――足元の影に違和感を覚えた。
影が、増えている。
誰も動いていないのに、私の影の縁だけが滲むように広がり、床を舐める。
白い点が、ひとつ、灯った。
目。
私は息を止めた。
輪の中に閉じ込めたはずのものが、まだ“糸”を残している。
そして、耳元で囁きが落ちた。
ひとつに近い、甘い声。
「エルサ。お疲れさま。……上手だった」
私は振り向かなかった。
振り向いたら、その声の主を“見て”しまうから。
ただ鉄の輪を握りしめ、レオンハルトの手をもう一度強く握った。
人間の揺らぎを、私の側へ引き寄せるために。




