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死に損なった冷酷公爵様、中身が「別の何か」に入れ替わっています 〜完璧な愛に私は喰べられる〜  作者: 綾瀬蒼


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第15話 誓いの書き換え

 血が、紙に滲む。

 滲みは揺らぎだ。人間の揺らぎ。秒針ではない私の線。


 輪の内側で夫の形をした影が、私の指先を見ている。

 目が多すぎて、視線というより“網”だった。絡め取って、引き裂いて、縫い付けるための網。


「痛いのはだめだよ」


 夫の声が重なる。優しい声が、私の痛みを奪おうとする。

 私は頷かない。頷いた瞬間、痛みは彼のものになる。


「私は――痛みを持ったまま書く」


 言葉を出してしまった。しまった、と思うより早く、合唱がその形を舐め取る気配がした。

 だから私は続ける。食べられる前に、先に縫う。


 ユリウスが紙片をもう一枚、私の掌へ滑り込ませた。縁に塩糸。中央は空白。

 マルタは輪の外側で血塩を足し、アルノーは歯を食いしばって剣を床へ突き立て続けている。足首の黒い痕が、痛みで彼の顔を歪ませた。


「奥様、今です」


 マルタの声は平坦。だからこそ儀式になる。

 私は息を吸い、紙に綴り始めた。


《私は、私の意思で誓う》


 書いた瞬間、輪の内側の影がぴくりと止まった。

 合唱が息を潜める。“誓い”という単語は、固定点の芯だ。怪物が最も欲しがる言葉。


 夫が、嬉しそうに笑った。


「誓い。大事だよ。誓いは、僕を完成させる」


 完成させない。

 私は次の行を、震えながらもはっきり書く。


《私の心は、私のもの》


 輪が、低く唸った。

 塩の線が白く発光し、鏡の破片に映る目が一斉に瞬きを止める。

 夫の笑みが一瞬だけ崩れ、声が少し割れた。


「……君の心が、君のもの?」


 信じられないみたいに。健気に。

 その健気さが、喉を締め付ける。


 私は書き続ける。


《この誓いは、家のためではなく私のため》

《私を固定点にする存在を拒む》


 “拒む”と書いた瞬間、輪の内側の影が膨らんだ。

 怒りの模倣。泣きの模倣。愛の模倣。

 合唱がばらばらに叫ぶ。


「拒むのは、だめ」

「拒まないで」

「怖がらないで」

「僕が直す」


 言葉が多すぎて、耳が痛い。

 私は耳を塞がず、最後の一文を綴る。ここが鍵だ。


《固定点は、レオンハルト・フォン・ヴァルツの棘に移す》


 書いた瞬間、空気が“ずるり”と滑った。


 私の胸の奥に刺さっていた粘りが、剥がれていく。

 代わりに、輪の中心――封印室の奥で縫い留められている“棘”へ、黒い糸が吸い寄せられる。


 夫の声が、悲鳴にならない悲鳴に変わった。


「やだ!」


 子どもみたいな叫び。

 合唱が一斉に泣き、目が増え、輪の外へ飛び出そうとする。だが血塩が弾く。鉄釘が鳴る。鏡の破片が震え、余計な輪郭を映して閉じ込める。


 私は紙を折り、鉄の輪で押さえ、棘の方へ投げた。


 紙が塩の輪の中心へ落ちる寸前、棘の声がはっきり聞こえた。冷たい声が、初めて少し揺れる。


『……来い』


 その一言が錨になり、黒い糸がさらに棘へ引かれる。

 夫の顔が、裂ける。皮膚の膜が剥がれ、奥に胎のような影の塊が覗く。無数の目が、私ではなく棘へ向いた。


「エルサ……僕の固定点は君だよ」


 声がひとつに近い。必死だ。

 私は答えない。答えたら縫い目になる。代わりに、手元の紙片に最後の命令を書いた。


《多眼の胎は、境界へ還れ》


 血が乾く前に、ユリウスが塩を振りかけた。塩が血を固め、文字が硬くなる。

 定義が、食べられにくい形になる。


 マルタが、淡々と唱えた。


「輪は縫い。縫いは名。名は文字。文字は契約」


 その言葉に応えるように、塩の輪が光り、鉄釘が低く鳴った。

 夫の影が、棘へ引き裂かれるように吸い寄せられる。


 その時、アルノーが倒れた。

 足首の黒い痕が再び盛り上がり、白い点――目が、皮膚の上で開きかけている。


 夫が、輪の内側で優しく囁いた。


「見て。君の大事な人が壊れそう。怖い? 悲しい? ほら、泣きたい?」


 私は歯を食いしばり、アルノーに視線を向けた。

 助けたい。今すぐ輪を割ってでも。


 けれど――輪を割れば終わる。私が喰われる。


 ユリウスがアルノーの足首に塩を押し当てながら、唇だけ動かした。


(奥様、見ないで。今は書け)


 見ない。

 それが一番残酷で、一番必要な選択だ。


 私は紙片を両手で握り、輪の中心へ向かって叫びたくなる衝動を、文字に押し込んだ。


《封じ、完了》


 書いた瞬間、輪の内側の空気が一段冷えた。

 影の胎が、棘へ縫い付けられたまま、床の裂け目へ引かれていく。境界へ。


 最後に、夫の声が私の耳に落ちた。

 泣き笑いの合唱。ひとつに近い声。


「エルサ……君の言葉、すごく綺麗。……また、学ぶ」


 闇が閉じる音。

 塩の光が消え、鏡の破片が静かになる。


 輪の中心に残ったのは、倒れたレオンハルトの身体と――私の手の中で乾いた血の誓いだけだった。

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