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死に損なった冷酷公爵様、中身が「別の何か」に入れ替わっています 〜完璧な愛に私は喰べられる〜  作者: 綾瀬蒼


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第14話 塩の輪に立つ

 診療室を出たあと、私は一度だけ空を見上げた。

 夕暮れの色は美しいのに、その美しさが“正常”すぎて怖い。怪物は、日常の顔を借りるのが上手だ。


 アルノーの足首には包帯が巻かれた。黒い痕は薄くなったが、完全には消えない。そこに残る痛みが、彼の生を証明している。


「奥様……今夜、本当に」


「ええ」


 短く答えた。余計な言葉は、影に食べられる。

 鍵束が袖の中で鳴る。金属音に、影が耳を澄ませる気配がした。


 夜。

 厨房の奥の扉を開けると、冷気が上がってきた。土、塩、鉄。

 マルタが先頭で降り、ユリウスが灯りを持ち、アルノーが最後尾で剣を抜く。私はその間に挟まれて降りる。


「奥様、輪の中心へ」


 マルタの声は平坦だ。けれどその平坦さが、儀式の声になる。

 封印室に入ると、塩の輪が前より濃く引かれていた。輪の外側には血塩の点がいくつも打たれ、鉄釘が等間隔に追加されている。鏡の破片も増え、壁が“余計なもの”を映す眼になっている。


 私は鉄の輪を指に通し、輪の中心へ立った。


 空気が、ひゅっと吸われた。


 燭台の火が短くなる。鏡の破片が鳴る。

 そして床の影が、重くなった。輪郭が増える。目が灯る。


 夫――レオンハルトの顔で、“それ”が現れる。


「エルサ」


 声が重なる。けれど昨夜より“ひとつ”に近い。

 学習が、私の言葉に縫い付いている。吐き気がするほど進化している。


「寒い?」


 優しい問い。

 私は笑顔を作った。誘いの笑顔。芯になるための餌の顔。


「寒いわ。あなたが来ないと、温まらない」


 嘘だ。

 でも嘘は今日だけ、武器になる。


 夫の瞳が嬉しそうに細まる。同心円が滑らかに回る。

 彼は輪の縁へ近づき、塩の線の手前で一度だけ止まった。学習している。痛いのは嫌い。だから――避けて触れる。


「君がそう言うなら、入る」


 やめて、と言いそうになるのを飲み込み、私は頷いた。

 入れ。落ちろ。輪の底へ。


 夫が足を踏み入れた瞬間、塩の線が白く弾けた。

 じゅ、と湿った音。膜が裂け、黒い湿り気が一瞬だけ露出する。


「痛い」


 子どもみたいな声が混じる。合唱がざわめく。

 私はその健気さに揺れないよう、指の鉄の輪を強く握った。


「大丈夫。痛いのは……生きてる証よ」


 言いながら、自分の言葉にぞっとした。

 怪物に“生”を渡す言い方だ。でも今は、引き寄せるための餌。


 夫は私へ手を伸ばす。抱擁の予告。

 私は一歩だけ近づいた。輪の中心で逃げない。逃げたら固定点が外れる。


 その瞬間――マルタが静かに塩を撒いた。輪の外側へ、鍵を閉めるように。

 ユリウスが塩糸を引き、鉄釘へ絡め、縫い目を締める。

 アルノーが剣先を床に突き立て、鉄を“杭”にする。


 輪が、閉じた。


 夫の影の目が一斉に開き、壁の鏡に無数の白点が映る。

 夫の笑みが、少しだけ歪む。


「……遊び?」


 声が重なる。合唱が低く怒る。

 でも怒りの形さえ、人間の“怒り”を模倣しただけで、どこかズレている。


 私は言葉を選ばず、直球を投げた。


「封じよ。《多眼の胎》」


 名を呼んだ瞬間、夫の輪郭がにゅるりと崩れ、目が増える。

 同時に、彼の瞳の奥の同心円が乱れた。定義の刃が刺さる。


「それは僕じゃない」


 拒絶が必死だった。

 私は揺れそうになる心を、鉄の冷たさで縫い止める。


「あなたは夫じゃない。夫の器を借りた影の群体。愛を学習して、私を喰べるもの」


 言葉を重ねるたび、輪の内側の影が膨らむ。怒る。泣く。笑う。

 合唱が混線し、声が割れる。


「喰べない。喰べない。喰べない……」


 子どもが癇癪を起こすみたいな否定。

 その否定が、逆に真実を照らす。


 ユリウスが私の背後で囁いた。

「奥様、声ではなく――文字を」


 私は頷き、胸元から紙片を取り出した。塩糸で縁取った紙。ペン先を自分の指に刺し、血を滲ませる。


 夫の目が血に吸い寄せられる。

 飢え。固定点への執着。


 私は血で書いた。


《この存在はレオンハルトではない》


 書いた瞬間、輪の内側の影が大きく揺れた。

 夫の顔が、一瞬だけ裂け、奥に胎のような黒い塊が覗く。無数の目が、こちらを舐めるように見ている。


「やめて……」


 声が重なる。怯えと怒りが混じる。

 私は止めない。止めたら、喰われる。


 ――次で終わらせる。誓いを書き換える。固定点を移す。


 その決意の瞬間、輪の外側でアルノーが呻いた。

 足首の包帯の下が、また黒く滲み始めていた。影が、輪の外から“薄く”伸びている。


 学習が早い。

 時間がない。


 夫が微笑んだまま、囁く。


「エルサ。君が僕を縫うなら、僕も君を縫う。

 ――縫い目って、ほどけるときが一番綺麗だよね」


 私は紙片を握りしめた。血が乾く前に。

 今夜、ここで決める。私が鍵になる。私の言葉で。

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