第13話 騎士の足首、医師の手首
その日の午後、屋敷の廊下は妙に静かだった。
音がないわけじゃない。呼吸や衣擦れ、遠くの食器の触れ合う音はある。なのに、“聞かれている”気配が薄い。
――油断させている。
鍵束の重みが手首に残る。私はマルタの言葉を思い返しながら、診療室へ向かった。ユリウスの“揺らぎ”が必要だ。人間の脈の乱れが、怪物の一定を暴く。
扉を開けると、薬草と消毒の匂いが鼻を刺した。ユリウスは机の上に紙を広げていた。塩糸で縁取られた小さな符のような紙片がいくつもある。
「奥様……来てくださってよかった」
声が震える。震えがあるというだけで、私は救われる。
ユリウスは私の指を見た。包帯の下、まだ痛む傷。血で縫う覚悟の痕。
「今夜、地下へ行くのですね」
「ええ。あなたとアルノーも」
私が言うと、ユリウスは頷き――次に、机の端を指で叩いた。合図。
背後の扉が開き、アルノーが入ってきた。顔色が悪い。喉仏が何度も上下する。
「奥様。……旦那様が、医師を呼べと」
来る。
胸が冷える。夫の形をした“それ”が、私たちの動きを読んでいる。読んでいるのではない。もう、私たちの中に“予習”が置かれている。
「診療室に?」
「はい。閣下は……今、とても穏やかに」
穏やか。
一番怖い言葉。
ユリウスが低く言った。
「奥様。今夜の封じは、相手の“学習”を止められるかが鍵です。私たちが思いつくことは、すでに読まれている可能性が高い」
私は鍵束を握り直した。金属が鳴る。
鳴った瞬間、廊下の遠くで足音が止まった気がした。誰かが耳を立てた気配。
扉が、ノックもなく開いた。
「やあ、医師」
夫が入ってくる。完璧な笑み。完璧な歩幅。
でも私はもう見抜ける。瞳の奥の同心円。瞬きの遅れ。呼吸の整いすぎ。
ユリウスが礼をし、できるだけ平静な声で言った。
「閣下、ご気分はいかがですか」
「いい。とてもいい」
夫はそう言って、私を見た。
「エルサが、僕を見てくれるから」
甘い言葉。
けれど、その甘さは私を“固定点”に釘づけにする粘りだった。
夫は机の前に立ち、手袋を外した。長い指。爪の形が整いすぎている。
ユリウスが脈を取ろうと手首に触れた瞬間――私は見た。
ユリウスの指先が、ほんの少しだけ引きつる。
脈が一定すぎる。揺らぎがない。怖いほどの規則。
ユリウスは言葉を選び、口にした。
「……脈は、安定しています」
夫が微笑む。
「安定はいいことだよね」
その言い方が素朴すぎて、ぞっとする。
私はわざと前に出て、夫の手首に自分の指を当てた。膜越しの温度。秒針。
「揺らぎがない。あなたは――」
言いかけて、私は止めた。声は餌。定義は文字で。
代わりに、机の上の紙片をひとつ取って、夫の手首の下に滑り込ませた。
紙片の縁には塩糸。中には、短い文字。
《一定は人ではない》
夫の瞳が、ほんの一瞬だけ細まった。
同心円が速く回る。学習が走る。
「紙、好きだね。エルサは」
甘い声。近いほど、重なりが聞こえる。合唱が耳の奥で笑う。
「好きです。紙は嘘をつかない」
「嘘はつくよ。書く人が嘘をつく」
――正しい。だから怖い。
夫はユリウスの手首へ視線を落とした。今度は医師の方を見ている。
「医師の脈、綺麗だね」
ユリウスが凍る。
夫が手を伸ばし、ユリウスの手首に触れた。
触れた瞬間、ユリウスの脈が跳ねた。恐怖の揺らぎ。
夫の口元が、ほんの僅かに上がる。
「揺らぎ。美味しそう」
言ってしまった。
合唱の一部が、言葉の外へ漏れた。
私は即座に鉄の輪を握り、夫の指先へ押し当てた。じゅ、と湿った音。
夫が一歩だけ退く。笑みを保ったまま、目が怒る。
「痛いのはだめだよ」
「私が決めます」
同じ言葉を返す。今は、それが盾になる。
その時、アルノーが呻いた。
足首を押さえている。制服の裾の下、皮膚が黒く染まり始めていた。影が、いつの間にか床から伸びて噛みついている。
「……奥様、すみません」
謝るな、と言いかけて、私は息を呑んだ。
黒い痕の中に、白い点がひとつ、浮かびかけている。
目の芽。
夫がそれを見て、優しく言った。
「かわいそう。怖かったね」
優しい声。
でもその優しさは、アルノーのためではない。恐怖を育てるためだ。
私はユリウスの机の塩瓶を掴み、アルノーの足首へ塩を撒いた。白が黒を押し返す。
同時に鉄の輪をその痕へ押し当てる。影が剥がれ、アルノーが息を吐いた。
夫が笑った。嬉しそうに。
「上手。エルサ、上手だね。君が僕を拒むほど、君は強くなる」
拒むほど強くなる。
その言葉が、呪いみたいに胸に残る。
私は鍵束を握り、ユリウスとアルノーを見る。
今夜、地下で決める。もう引き返せない。
診療室の扉が、ひとりでに閉まった。
鍵は回っていないのに。
そして耳元で、夫の声が重なる。
「逃げ道、なくしちゃった。安心でしょ?」
私は笑わなかった。
代わりに、鉄の冷たさで心を縫い止め、ただ頷いた。
「ええ。……今夜、終わらせます」




