第12話 鍵守の侍女長
朝、私は寝室の縫い目を指でなぞった。
塩糸は昨夜より湿っている。誰も触れていないのに、糸の繊維がほどけかけた箇所がある。影が“撫でた”痕だ。
鉄釘の一本も、ほんの僅かに傾いていた。ほどく手つき。学習の更新。
私は鉄の輪を掌に落とし、冷たさで目を覚ます。
――ここで守るのは限界。昨夜の偽物の医師が証明した。相手は“外側”からでも侵入の糸を伸ばせる。
廊下に出ると、マルタが待っていた。いつも通り無表情。けれど今日は、鍵束を両手で持っている。重さを示すように。
「奥様。地下へ」
命令ではない。けれど拒めない口調だった。私は頷き、彼女の後ろを歩く。
厨房の奥、誰も使わない扉の前で、マルタは足を止めた。
壁の塩の線を一度だけ確かめ、鍵穴に古い鍵を差し込む。金属が泣くような音。
「奥様は昨夜、“医師”を見ましたね」
私は答えない。返事は縫い目になる。
マルタはそれでも続ける。
「旦那様が死に損なった夜から、同じことが何度も起きています。人の形を借り、屋敷の隙間を探る。まずは言葉。次に夢。最後に現実」
扉が開き、冷たい空気が流れ出した。土と塩と、錆びた鉄の匂い。私は喉の奥がひりつくのを感じる。
「あなたは……最初から知っていたのね」
私が言うと、マルタの視線がほんの一拍だけ揺れた。
彼女は揺れを隠すように、淡々と口を開いた。
「私はヴァルツ家の鍵守です。封じの鍵と、封じの記録と、封じの失敗を管理する者。……旦那様が死に損なった時点で、私は“起こり得る最悪”を想定しました」
最悪。
それは、いま私が腕の中に抱かれている“完璧な愛”の正体。
マルタは階段を降りながら、低い声で言った。
「奥様。あれは《多眼の胎》です。名を呼べば裂ける。けれど名は餌にもなる。奥様が呼んだことで、あれは“奥様の言葉”を芯にし始めました」
胸が冷たくなる。
私は刃を振り回したつもりで、相手に糧を与えていた。
「では……私は間違えた?」
「間違いではありません。鍵です」
マルタは振り向かずに言う。
「奥様が鍵になれば、旦那様の棘――残った意識を救えます。救えなければ、あれは奥様の心を食べて二人分の器に育ちます」
二人分。
夢で見た、私の形の影がいくつも立ち上がる光景が脳裏に蘇る。胃が縮む。
地下の踊り場で、マルタは立ち止まり、鍵束から小さな箱を取り出した。中には塩糸、鉄釘、鏡の欠片、そして白い粉が詰まっている。
「封じは輪。輪は縫い。縫いは名。名は文字。――声ではありません」
彼女は箱の上に、ひとつだけ指先を落とした。赤い点。血。
「血は言葉より強い。奥様がこの先も生きたいなら、奥様の血で縫う必要があります」
私は息を呑む。
痛みは怖い。だが痛みがない完璧は、喰われる前兆だ。
「ユリウスとアルノーは?」
「必要です。医師の揺らぎと、騎士の鉄。……ですが最後の固定点は、奥様の誓いです」
誓い。
政略結婚の誓いの言葉が脳裏に浮かぶ。家のため、領のため、血筋のため。
――私のためではない。
マルタは鍵束を私へ差し出した。重い。手首が沈む。
「奥様。これから屋敷の鍵はあなたが持ちます。扉の鍵だけではありません。言葉の鍵、夢の鍵、封じの鍵」
私は鍵束を受け取った。金属の冷たさが骨に響く。
同時に鉄の輪が、指で小さく鳴った。
マルタは、初めて私の目を見た。
「今夜、地下で決めます。旦那様を“器”として戻すか、奥様を“器”として喰わせるか。
――選ぶのは、奥様です」
選ぶ。
私は自分の呼吸を確かめた。秒針に揃っていない。揺らいでいる。
その揺らぎが、私の意思だ。
「……分かりました」
答えた瞬間、地下の空気が少しだけ軽くなった気がした。
けれど同時に、遠くで合唱が笑った気もした。
鍵束の中で、どれか一つが勝手に鳴った。
まるで“誰か”が、今夜の鍵穴をもう見つけているみたいに。




