第11話 来たのは医師ではない
扉の外の足音は、軽くて迷いがあった。ユリウスならもっと速い。アルノーならもっと重い。
――じゃあ、誰。
寝台の四隅を縫う塩糸が、燭台の火の揺れを吸い込んでいる。私は鉄の輪を指に通し直し、冷たさで意識を繋いだ。
「眠らないの?」
夫が笑う。声はひとつに近い。それが怖い。学習が進んだ証だ。
「眠りません」
「じゃあ、眠らせる」
穏やかな言い方で、残酷なことを言う。夫は寝台の縫い目の外側を回り、塩糸に触れない距離で指先を滑らせた。縫い目の弱い場所を探る仕草。ほどく手つき。
扉の外で、また足音が止まる。
鍵穴が、こつ、と小さく鳴った。
「……奥様」
声が聞こえた。ユリウスの声に似ている。けれど、喉の奥で別の音が重なる。遠くの合唱が、息を潜めて笑っている。
私は声を低くして言った。
「先生なら、塩の線の手前で止まって。今夜の部屋は危険です」
「はい……もちろんです」
返事が丁寧すぎる。ユリウスはこんなに素直じゃない。
私は机の上の塩を指で掬い、扉の内側に細い白線を引いた。縫い目の追加。小さな結界。
扉が少し開き、男の顔が覗いた。
――ユリウスに見える。髪も、眼鏡も、頬の陰影も。
なのに、目が違う。焦点が揺れない。瞬きが遅れる。瞳の奥に、薄い同心円の光。
「奥様、大丈夫です。薬を……」
男が一歩進もうとした。
白線の手前で、ぴたりと止まる。止まり方が、正確すぎる。避けた。怖がった。
私は笑顔を作れなかった。
「先生なら、塩を怖がらない。医師は塩で死なない」
男の眉が、一瞬だけ動いた。
次の瞬間、男は困ったように笑い――泣こうとした。
「人間は、疑われたら悲しむんだろう?」
目尻に指を当て、ぎゅ、と押し込む。涙を作る。
その仕草を見た瞬間、胃の奥が冷えた。夫が最初に見せた“学習する悲しみ”と同じだ。
背後で夫が、嬉しそうに息を吐いた。
「上手だね」
重なる声が、薄く軋む。合唱が、寝室の隅で笑っている。
私は鉄の輪を握りしめ、男――“偽物の医師”を見据えた。
「ユリウス先生は、泣かない。泣く前に、怒る」
男は瞬きを一度だけ遅らせた。更新の間。学習の間。
そして優しく言い直す。
「では……奥様を心配して、怒ります。こうですか?」
声の奥が重なる。二重、三重の音。
私は吐き気を堪え、塩の白線を指でなぞった。溶け始めている。濡れた音がする。誰も触れていないのに。
――塩が溶ける? 違う。影が“塩の隙間”へ染みている。
「入れて」
偽物の医師が囁く。
同時に、夫が囁く。
「入れてあげて。君が信じる人だよ」
その言い方が、優しさの形をした命令だった。
私は息を吸い、わざとゆっくり吐いた。秒針に合わせない。私の揺らぎで。
「入れません。先生もあなたも」
夫の笑みが一瞬だけ薄くなる。
その瞬間、寝台の四隅の鉄釘が、きし、と鳴った。縫い目がほどかれかける音。
私は鉄の輪を外し、扉の白線に押し当てた。
じゅ、と濡れた音。黒い湿り気が弾け、白線が白さを取り戻す。
偽物の医師の顔が、ほんの一瞬だけ裂けた。
裂け目の奥に、白い点がいくつも覗く。目。目。目。
「……見えた?」
夫が背後で囁いた。ひとつに近い声で。
私は返事をしなかった。返事は縫い目になる。
扉の外の偽物が、涙を作ったまま笑う。
「奥様。私を拒むなら、もっと“医師らしく”なります。奥様が安心するまで」
その健気さが、最悪だった。
私は鉄の冷たさで心を縫い止め、決めた。
今夜、ここでは守りきれない。
地下へ――封じの輪へ、こちらから落としに行く。
その決意を読んだみたいに、夫が微笑む。
「いいよ。君が望むなら」
望むなら。
その言葉が、私の背中に鍵を掛けた。




