第10話 縫い封じの夜
夜が来る前に、私は寝室の空気を変えた。
燭台の火は一つだけにした。多すぎる光は影を濃くする。
鏡は外した。代わりに、割った破片を小皿に並べ、欠片の尖りを内側へ向けて寝台の下へ置いた。――“見る目”を内側に向ける。逃げ道を塞ぐのではなく、侵入者の輪郭を映すために。
ユリウスから渡された塩を揉み込んだ麻糸は、指先が荒れるほど硬い。私は寝台の四隅を、鉄の釘で床板へ打ち留めた。
カン、と音が鳴るたびに、胸の奥の鼓動が勝手に速くなる。怖い。けれど、怖さは今夜の燃料だ。
――名は声にしない。書く。
私は紙片を取り出し、インク壺を開けた。黒い匂いが立つ。夫の匂いに似ているのが気持ち悪い。
震える手で、文字を綴る。
《多眼の胎》
書いた瞬間、燭台の火がふっと短くなった。
寝室の隅の影が、きゅ、と縮む。名前は刃であり、縫い目だ。
私は紙を折り、塩糸で包むように結び、寝台の頭側の柱に括りつけた。
四隅から伸びる糸が、寝台の上で見えない四角を作る。縫い目の輪郭。ここは“私の寝台”ではなく、“封じの枠”になる。
扉が開いた。
「何してるの?」
夫が入ってくる。足音がない。空気だけが変わる。
声はひとつに近いのに、背後で薄く重なる。合唱は消えない。むしろ、私の結界に触れたせいで、音が擦れている。
「眠る準備です」
「眠る準備。いいね」
夫は穏やかに歩き、寝台の縁へ手を伸ばした。
その指先が塩糸の“見えない線”に触れた瞬間――
ぱち、と空気が弾けた。
火花ではないのに、皮膚が粟立つ音。夫の影が一瞬だけ遅れ、壁に貼り付く。
夫は表情を変えないまま、指を引いた。
「へえ」
その一言が、純粋な興味で、私は背筋が凍った。
学習が始まる。結界の感触を、味見するみたいに。
「君が怖がるなら、こうするのは正しいんだね」
「……正しいのは、私が決めます」
私は言い返した。声が震えても、引かない。
夫の瞳の同心円が、わずかに回る。計算。更新。
「うん。君が決めて。僕は従う」
従う、という言葉が、従わせるための形をしている。
夫は寝台の外側で膝をつき、私を見上げた。人間らしい仕草。学習の成果。けれど、あまりに滑らかで、演技だと分かる。
「エルサ。眠って。君が眠れば、僕は安心できる」
私が眠れば。
夢の入口が開く。
私は寝台へ横になった。塩糸の輪の内側。鉄の釘の四隅。鏡の欠片の目。
指には鉄の輪。紙には名。声には出さない。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
夫が私の額に口づけようとして、止まった。塩糸の縫い目が拒む。
その瞬間、夫の呼吸が一拍だけ乱れた。――乱れた“ふり”ではない。苛立ちが漏れた。
壁の影が膨らむ。目が開く。
けれどいつもと違う。目が、寝台の縫い目の外で止まっている。入れない。侵入できない。
私はまぶたを閉じ、眠るふりをした。
やがて、空気が沈む。夢に落ちる感覚が来る――来ない。
眠れない。
いや、眠らされない。結界が私を守っているのだ。
静寂の中で、夫が小さく笑った。重なる声が、薄く軋む。
「賢いね、エルサ」
褒め言葉が、刃物みたいに肌を撫でる。
「でも、君は忘れてる」
夫の声が、ひとつに近いまま低く落ちる。
「僕は夢から入れないなら――起きている君から入る」
次の瞬間、寝台の縫い目の外側で、影が“折り畳まれた”。
壁の目が一斉に閉じ、代わりに床の影が細く伸びる。糸の隙間を探る指先みたいに、塩糸の縫い目をなぞり、弱い場所を測る。
そして、鉄釘の一本の根元に、影がぴたりと貼りついた。
きし、と音がした。
鉄釘が……ほんの僅かに、浮いた。
私は息を呑んだ。
結界は万能ではない。相手は学習する。弱点を探し、縫い目をほどく。
夫が囁く。甘く、親密に。
「ねえ、エルサ。縫い目って、ほどけるときが一番綺麗だよね」
私は鉄の輪を握りしめた。冷たさが掌に刺さる。
ほどかせない。ほどかせないために――私は、次の手を打たなければならない。
扉の外で、誰かの足音がした。
マルタの足音ではない。アルノーでもない。軽く、迷いのある足音。
ユリウス?
夫も気づいたらしい。影の目が、寝室の扉へ向いた。
そして夫は、微笑んだまま言った。
「来たね。君が信じる人」
その声が、今日一番“ひとつ”だった。
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