第1話 死に損なった冷酷公爵様
冷酷公爵レオンハルト・フォン・ヴァルツは、三日前に死んだ。
そう、私は聞いた。医師ユリウスが震える指で脈を探り、やがて首を横に振ったのを見た。使用人たちが泣き崩れ、血の匂いが寝室の絨毯に染みこんでいった夜――夫は、確かに冷たくなっていったはずだった。
なのに今、朝の光の中で彼は立っている。
「エルサ」
名を呼ばれただけで、耳の奥がひやりとした。声は低い。けれど、近づくほどに重なる。ひとつの音の下に、別の息遣いがあり、さらにもうひとつ、遠くで合唱するような残響がある。
私は夫人としての微笑を貼り付けた。政略結婚で嫁いだ私に許された鎧だ。
「……お帰りなさいませ、公爵様」
「帰った」
短い返答。そこまでは、彼らしい。けれど彼は続けて言った。
「抱きしめてもいい?」
その言葉が、私の足元を崩した。レオンハルトは許可など取らない。必要なら命令し、不要なら触れない。私の意思を尊重するふりをするような甘さは、彼の辞書になかった。
それでも私は頷いてしまう。拒めば、何が起きるかわからない。私は彼の胸に収められた。
温度はある。香りも、黒インクと鉄のような彼のもの――いや、違う。雨の前のオゾンが混じっている。
そして鼓動。
トクン、トクン、トクン。
一定すぎる。
秒針のように正確で、揺らぎがない。人間の心臓は、呼吸と感情で微かに乱れるはずなのに、彼の胸は規則だけで動く機械みたいだった。私は息を止めた。すると、彼の鼓動は変わらないまま、私の呼吸だけが勝手にそのリズムへ引きずられていく。
「怖い?」
耳元の囁きが、また重なる。近い声と、遠い声。私の骨の内側へ響く声。
「……驚いているだけです」
嘘だ。怖い。けれど、怖がってはいけない。私は彼の“完璧”の対象になりたくなかった。
彼はふっと息を吐いた。吐息すら整いすぎている。
「人間は、悲しい時に泣くんだろう?」
次の瞬間、彼は自分の目尻に指を当てた。ぎゅ、と押し込む。まるで操作。まるで装置のスイッチ。
透明な雫が、頬を伝った。
「ほら。泣けた」
褒めてほしそうに言う声が、重なる。複数の“彼”が同時に私の反応を待っている気配がした。
私は笑顔を保ったまま、胃の奥が冷えるのを感じた。レオンハルトは泣けない人だった。泣かないことを誇り、涙を弱さと呼んだ人だった。
なら、これは誰?
答えを探す前に、侍女長マルタが静かに近づいた。
「奥様。お召し替えをご用意いたします。……公爵閣下も、お疲れでしょう」
マルタの声音は平坦だった。夫が死んだ三日前と同じ、何も変わらない声。まるで“死”が起きなかったみたいに。
彼――夫の形をしたものは、私の髪を撫でた。撫で方が丁寧すぎる。指先が、髪の流れを計測している。
「エルサ。君が望むなら、私は変われる。君が安心する夫に、なれる」
甘い言葉のはずなのに、背骨が震えた。安心とは、私の心を自由にするものだ。けれど彼の言う安心は、私を“固定”する音がした。
その夜、私は寝台に横たわりながら、医師の言葉を反芻していた。
――脈がない。戻るはずがない。
なのに戻った。
眠りに落ちる寸前、背後の気配に目を開ける。隣で夫が横たわっている。目は閉じ、呼吸は穏やか。
けれど壁に映る影が、穏やかではなかった。
人の形から滲むように黒が広がり、寝室の壁一面を覆っていく。波のような影の中に、ぷつ、ぷつ、と白い点が灯った。
目だ。無数の目。
瞬きもせず、私だけを見つめている。数えるのが無意味なほど、どこまでも。
喉が凍りつき、声が出ない。私はただ瞬きをした。
すると、影の目が――同じ回数だけ、ゆっくりと瞬きを返した。
隣の夫が、眠ったまま囁く。
「起きてる?」
声が重なる。耳の中に、甘い刃が滑り込む。
「大丈夫。君を喰べたりしない。……今は」
背に回された腕の鼓動が、また秒針のように正確に刻み始める。
その正しさが、私の心臓の不規則さを、少しずつ矯正していく。
――正体がバレるまで。
彼は、私を完璧に愛するつもりだ。
完璧な愛に、私はいつか、きれいに喰べられる。




