猫の鼻も借りたい
【金の匂いを嗅ぎつけた者たち】
桐原龍之介が死んだ。
享年七十八。死因は心不全。発見したのは週二回来る家政婦で、遺体のそばには冷めた即席ラーメンの器があったという。
資産家が、ひとりで、カップ麺を啜って死んだ。
なんとも寂しい話である。
葬儀には、驚くほど早く子供たちが駆けつけた。
長男の隆(52)は、「五年ぶりの帰国だ」と言いながら、ビジネスクラスのチケットを即座に手配した。シンガポールで投資会社の役員をしている。葬儀の最中もスマホで為替レートをチェックしていた。通夜では「父さんも喜んでるよ。俺、出世したからさ」と自慢話ばかり。
次男の誠(49)は、「店を副店長に任せてきた」と言いながら、父の資産リストを頭の中で計算していた。北海道でイタリアンレストランを経営しているが、実は三年連続赤字。銀行からの借入返済に追われていた。葬儀が終わると真っ先に「親父、保険金とかないの?」と聞いた。
長女の麻美(46)は、「大事な商談を蹴ってきた」と何度も言った。実際は広告代理店をリストラされて三ヶ月、再就職先が見つかっていなかった。住宅ローンが残り二千万。娘の大学の学費も払えるか怪しい。葬儀中も転職サイトをこっそり見ていた。
次女の由香(43)は、三年ぶりに外出した。フリーランスのデザイナーと名乗っているが、実際は無職。引きこもりの生活費は、父からの月二十万円の仕送りで成り立っていた。その仕送りが途絶えることへの恐怖で、葬儀の間中、手が震えていた。
そして後妻の絹代(48)。
葬儀には真っ赤なワンピースで現れた。
「絹代さん……その格好は……」弁護士の前田が困惑する。
「あら、喪服なんて持ってなくて。だってお葬式なんて初めてなんですもの」
嘘だった。彼女は三年前、実母の葬儀に黒いスーツで参列していた。単に面倒くさかっただけだ。今朝も、「どうせ誰も私のこと見てないでしょ」と鏡の前で笑っていた。
龍之介と結婚したのは十三年前。当時彼女は銀座のクラブでホステスをしていた。「寂しい」と愚痴をこぼす龍之介に、「私がそばにいますよ」と優しく微笑んだ。結婚後、半年で本性を現した。週の半分は「友達と会ってくる」と言って夜遊び。SNSには男性の影がちらつく写真が定期的にアップされた。
葬儀中、ずっとスマホでSNSを更新していた。『旦那が亡くなりました(涙)でも人生は続く#未亡人 #新しい人生 #再出発』というポエムと共に、葬儀場のトイレで撮った自撮り写真をアップした。コメント欄には「綺麗!」「前向きだね!」「応援してる!」という言葉が並び、絹代は満足げに微笑んだ。
通夜の席で、隆が切り出した。
「で、遺産の話なんだけど」
まだ焼香の煙が残る部屋で。
「ちょっと、早すぎない?」麻美が言ったが、目は真剣だった。
「いや、早いほうがいいでしょ。相続税の申告期限もあるし。十ヶ月以内だからね」
「それもそうね」
全員が頷いた。
誰一人、父を悼む言葉を口にしなかった。
「で、親父の資産って総額どのくらいなの?」誠が身を乗り出す。
「不動産だけで十億は下らないはず」隆が言った。「この家だけで三億。他に都内のマンション三棟、軽井沢の別荘。株とか預金入れたら、軽く十五億は超えるんじゃないか」
「じゅ、十五億……」由香の目が輝いた。「四人で割れば一人三億以上……私、一生遊んで暮らせる……」
「五人よ」絹代が爪を磨きながら訂正した。「私も相続人なんだから」
「はあ? あんた結婚してまだ十年ちょっとでしょ?」麻美が睨む。
「十三年。配偶者は二分の一よ。法定相続分って知ってる? つまり七億五千万は私のもの」
「ふざけんな! あんた、親父のこと愛してもなかったくせに!」誠が吠える。
「あら、それを言うなら、あなたたちだって親父に会いにも来なかったじゃない」
険悪な空気が流れた。
「まあまあ」前田弁護士が間に入る。「遺言書がございますので、まずはそちらを確認してからに——」
「遺言書!?」
全員が前田に詰め寄った。
【遺言という名の爆弾】
翌日、桐原邸の応接室に全員が集められた。
前田弁護士が封を切る。その瞬間、全員が身を乗り出した。息をするのも忘れたように。
「では、読み上げます」
『最初にこの金庫を開けた者に、すべての財産を譲る。以上』
五秒の沈黙。
「……はあ!?」
隆が立ち上がった。
「どういうこと!? 法定相続分は!? 遺留分は!?」
「配分は? パーセンテージは?」誠が食ってかかる。
「ちょっと待って、これって無効じゃないの? だって不公平すぎるでしょ!」麻美が叫ぶ。
「有効です。被相続人の意思は明確ですし、形式も整っております」
「ふざけんな!」由香が珍しく大声を出した。「私、三年間も会ってなかったのよ!? それでも相続権あるでしょ!?」
「あったとしても、この遺言が優先されます。ただし、遺留分の請求は可能ですが——」
「じゃあ遺留分請求する!」
「その前に」前田が手を上げた。「金庫を開けた相続人が決まらなければ、請求先も定まりません」
絹代は冷静に言った。
「つまり、その金庫を開ければいいわけね? 早い者勝ちってこと?」
「その理解で概ね正しいかと」
「で、その金庫は?」
前田が立ち上がり、応接室の奥を指した。
そこには、人間が入れそうな巨大な金庫。黒光りする重厚な扉。
扉には最新式のタッチパネルがついていた。
「こ、これを開ければ……」隆の声が震える。
「十五億が……」誠がゴクリと唾を飲む。
麻美と由香は、すでに金庫に駆け寄っていた。
「どうやって開けるの!?」
「こちらをご覧ください」
前田がタッチパネルを指差す。
そこには、小さな鼻のマークと、『認証待機中』の文字。
「これは鼻紋認証システムです。故人が特注で作らせたものでして……」
「鼻紋?」
「はい。人間の指紋のように、猫には一匹ずつ異なる鼻の模様——鼻紋があります。故人が飼っておられた愛猫"ミケ"の鼻紋でしか開かない仕組みになっております」
「……猫?」
全員が顔を見合わせた。
「親父、猫飼ってたの?」隆が眉をひそめる。
「見たことないわね」麻美が首を振る。
「あたし、ほとんど家にいなかったから知らないわ」絹代が無関心に言う。
「そういえば親父、動物アレルギーだったはずじゃ……」由香が呟く。
「いえ、確かに飼っておられました」前田が言った。「家政婦の田中さんの証言もございます。三毛猫で、名前はミケ。二年ほど前から飼い始めて、故人が大変可愛がっておられたとのことです」
「じゃあ、その猫を連れてくればいいのね?」絹代が言う。
「それが……」前田が困った顔をした。「ミケは現在、行方不明でございます」
「行方不明!?」
「はい。故人が亡くなる一週間ほど前から、姿が見えなくなったと。家政婦の田中さんも、近所も探したようですが……」
隆が深くため息をついた。
「つまり、猫を見つけない限り、遺産は誰のものにもならないってこと?」
「その通りでございます」
「ちょっと待って」麻美が言った。「猫が死んでたら? 事故とか、病気とか」
「その場合……」前田が資料をめくる。「遺言書には但し書きがございまして。『正当な理由により金庫が開けられない場合、法定相続分に従う』とあります」
「じゃあ、猫が見つからなければ普通に分ければいいじゃない」由香が言う。
「いえ。『正当な理由』の証明が必要です。つまり、猫の死亡が確認されるか、あるいは一年以上発見されない場合、ということになります」
「一年!?」
「そうです。それまでは遺産の分配は保留となります」
全員が絶句した。
誠が歯ぎしりした。
「親父……死んでからも俺たちを苦しめやがって……」
一同、沈黙。
そして次の瞬間——
全員が一斉に動き出した。
【醜悪な猫探し競争】
「とにかく三毛猫よ! 三毛猫を探すのよ!」
麻美が指示を飛ばす。
隆は携帯でペットショップに電話をかけまくった。
「三毛猫、オス、メス問わず、全部買い取る! 金なら払う!」
「お客様、三毛猫は当店に現在三匹しか——」
「全部だ! 今すぐ持ってこい! 倍出す! いや、三倍だ!」
「ですが、お客様——」
「五倍だ! それでダメなら十倍出す!」
電話口の店員が絶句した。
誠はもっと直接的だった。
「おい、バイト何人か雇って、この辺の野良猫全部捕まえろ」
「誠兄さん、それ動物愛護法違反じゃ……」
「金庫が開けば全部チャラだ! やれ!」
「でも——」
「一匹捕まえたら一万円出す! どうだ!?」
金に目がくらんだバイトたちが、網とケージを持って街中に散った。
麻美は探偵事務所に連絡を取っていた。
「ええ、猫です。三毛猫。この地域にいるはずなんです。鼻紋のパターンを特定したいので——え? 予算ですか? 上限なしで結構です! 今すぐ動いてください!」
「承知しました。ただし、成功報酬として——」
「いくらでも出します! とにかく見つけてください!」
由香は部屋に閉じこもって、ノートパソコンでひたすら検索していた。
「鼻紋 偽造」「生体認証 突破方法」「金庫 ハッキング」「セキュリティシステム 脆弱性」
そして怪しげなダークウェブのフォーラムにアクセスして、「高額報酬 金庫開錠 至急」というメッセージを投稿した。
絹代は——
「ねえ、この金庫って、ドリルで穴開けちゃダメなの?」
「犯罪です」前田弁護士が即答する。
「じゃあ、爆破は?」
「もっと犯罪です」
「じゃあさ、弁護士さん。この遺言って本当に有効? 裁判で争えない?」
「争うことは可能ですが、勝訴の見込みは極めて低いかと」
「ちっ、使えないわね」
絹代は舌打ちして、別の手を考え始めた。スマホで「金庫 開錠業者」「鍵師 緊急」と検索する。
三日後。
隆がペットショップから買ってきた三毛猫五匹を、次々と金庫に押し付けた。
「ほら、鼻をタッチしろ! タッチ!」
猫は嫌がって暴れる。
一匹目。なんとか鼻をパネルに押し付けた。「認証失敗」
二匹目。引っ掻かれながら。「認証失敗」
三匹目。噛まれながら。「認証失敗」
四匹目。逃げ出しそうになるのを必死で。「認証失敗」
五匹目。完全に怒った猫に顔を引っ掻かれた。「認証失敗」
「ちくしょう! 猫の鼻なんてみんな同じだろうが!」
顔に絆創膏を貼りながら隆が叫ぶ。
「指紋と同じで個体差があるのよ、バカ」麻美が冷ややかに言う。「鼻紋は猫の指紋なんだから」
「じゃあお前はどうなんだよ!」
麻美は探偵が捕まえてきた野良猫十匹を並べていた。ケージの中で猫たちが騒いでいる。
「全部ダメでした……」探偵が申し訳なさそうに報告する。
「なんでよ! もっと探しなさいよ!」
「この地域だけで野良猫が二百匹以上いるんです。鼻紋のパターンを一匹ずつ照合するには——」
「言い訳はいいから早く見つけなさい!! 一匹見つけたら百万出すわ!」
「ひゃ、百万!?」
「見つからなかったら一銭も出さないけどね」
探偵は青ざめながら街へ戻っていった。
誠は誠で、AIエンジニアの知り合いに電話していた。
「だから、鼻紋のデータから3Dプリンターで偽造できないかって聞いてんだよ!」
「いや、理論上は可能ですけど……元データがないと。猫の鼻の写真とか、データとか」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!」
「故人の家に、猫の写真とか残ってませんか? 鼻がアップで写ってるやつ。あるいは、動画とか。最近のAIなら、映像から3Dモデルを作れます」
「探してみる……」
誠は父の部屋を片っ端からひっくり返し始めた。引き出し、クローゼット、本棚。猫の写真を血眼になって探す。
由香は、シリコンで猫の鼻を自作していた。
ネット通販で医療用シリコンを大量に購入。大中小、さまざまなサイズ。さまざまな形。猫の鼻の画像をネットで集めて、それを参考に手作業で形を整える。
それを次々と試していく。
「認証失敗」「認証失敗」「認証失敗」「認証失敗」「認証失敗」
「くそ……くそ……! なんで……なんで開かないのよ……!」
部屋はシリコンの削りカスと失敗作で埋め尽くされていた。
一週間が過ぎた。
誰も猫を見つけられなかった。
桐原邸のリビングには、疲労困憊した五人が集まっていた。
隆の顔には引っかき傷。誠の手には噛まれた痕。麻美は睡眠不足で目の下にクマ。由香は部屋にこもりきりで髪がボサボサ。絹代だけは相変わらず化粧をバッチリ決めていたが、イライラが隠せない。
「……で、誰か見つけたのか?」隆が聞く。
全員が首を振る。
「本当にいたのか? その猫」誠が疑い始める。
「家政婦が証言してるって言ったでしょ」麻美が苛立つ。
「でも誰も見たことないんだぞ? おかしくないか?」
「あんたたち、ほとんど家に来てなかったじゃない」
「お前もだろ!」
険悪な空気が流れる。
「……もしかして」由香が小声で言った。「誰か、猫隠してんじゃないの?」
一同、凍りつく。
「お前、何言ってんだ」隆が睨む。
「だって変じゃない。こんなに探しても見つからないなんて。誰かが先に見つけて、隠してるんじゃないの?」
「まさかお前……」誠が由香を疑う。
「わたしじゃない!」
「じゃあ誰だよ!」
「お前こそ怪しい! 北海道に持って帰ったんじゃないのか!?」
「はあ!? ふざけんな! 俺はずっとここにいたぞ!」
「嘘つけ! 二日前、一晩いなかっただろ!」
「店の様子を見に行っただけだ! 疑うんじゃねえ!」
「二人とも落ち着きなさいよ!」麻美が割って入る。「疑い合ってる場合じゃないでしょ!」
「あんたも怪しいけどね」由香が冷ややかに言う。「昨日、誰かと電話してたでしょ? 『猫が見つかったら連絡して』って」
「探偵よ! 探偵に電話してただけよ!」
「本当に?」
「何ですって!?」
隆が立ち上がった。
「いい加減にしろ! 俺たち、親父が死んでからずっと猫のことしか考えてないじゃないか!」
「当たり前でしょ! 十五億かかってんのよ!」麻美が叫ぶ。
「俺だって店の借金返さなきゃいけないんだ!」誠が吠える。
「わたしだって生活費が……」由香が呟く。
絹代だけが、ソファでワインを飲みながら呟いた。
「あーあ、つまんない。さっさと金庫開けて、新しい男探しに行きたいんだけど」
全員が絹代を睨んだ。
「あんた、少しは悲しむ素振りぐらい見せたら?」麻美が吐き捨てる。
「なんで? 別にあの人のこと愛してなかったし。お金目当てで結婚したって、みんな知ってるでしょ?」
「……最低」
「あら、みんなも同じでしょ?」絹代が笑った。「金目当てで集まってきたくせに。葬式の日から遺産の話してたじゃない。誰も親父のことなんて悼んでない」
誰も反論できなかった。
事実だったから。
重い沈黙が流れた。
【少女と猫の登場】
翌日の午後。
リビングで五人がダラダラと過ごしていると、玄関のチャイムが鳴った。
「誰よ、こんなときに……」
絹代が面倒くさそうにドアを開けると、制服姿の少女が立っていた。
ショートカットで、疲れた顔をしているが、目は澄んでいる。礼儀正しく頭を下げる。
「あの……桐原さんのお宅ですよね?」
「そうだけど」
「わたし、隣に住んでる立花美月っていいます。お線香を上げさせてもらえませんか?」
「はあ? 今忙しいんだけど」
「五分だけでも……おじいさんに、どうしてもお礼を言いたくて」
手には、コンビニで買ったような小さな花束。
「もう、しょうがないわね」
リビングに通されると、他の家族が面倒くさそうに美月を見た。
「誰?」隆が聞く。
「隣の子ですって」
美月は仏壇の前で、深く頭を下げた。
そして——ぽろぽろと涙を流し始めた。
「おじいさん……本当に、本当にありがとうございました……」
声を詰まらせながら、何度も何度も手を合わせる。
その涙は、本物だった。
誰が見ても分かる、心からの涙。
「……何泣いてんの?」由香が不思議そうに聞く。
美月は涙を拭いながら振り返った。
「だって……おじいさん、すごく優しくしてくれて……」
「はあ?」麻美が眉をひそめる。
「うち、三年前に両親が事故で亡くなって……弟三人とわたしだけで……どうしていいか分からなくて……」
美月の声が震える。
「それで、半年くらい……ずっと泣いてばかりで……バイト始めたけど、お金は全然足りないし、弟たちは寂しがるし……わたしが親代わりなんて無理だって、何度も思いました」
「もうダメだって……消えてしまいたいって……そう思ってたときに……」
涙がまた溢れる。
「おじいさんが、声をかけてくれたんです」
「『飯食わせてくれないか』って」
「最初はびっくりしたんですけど、『一人で食うより賑やかなほうがいい。それに、お前も一人で食ってるより、誰かと食ったほうが元気出るだろ?』って笑って……」
全員、凍りついた。
「それで、その日作ったカレーを出したら……おじいさん、すっごく喜んで食べてくれて……『うまい、うまい』って。『こんな美味いもの、何年ぶりだ』って」
「それから、週に何回も来てくれるようになって……弟たちとも遊んでくれて、宿題も見てくれました」
「蒼の数学、蓮の英語、湊の国語……全部教えてくれて……」
「『俺も昔は頭良かったんだぞ』って冗談言いながら……」
美月は笑顔と涙が混じった顔で続けた。
「ランドセルが古くなったときも、『懸賞で当たったから』って新しいの持ってきてくれて……嘘だって分かってました。でも、おじいさんの優しさが嬉しくて……」
「暖房が壊れたときも、すぐに新しいの買ってきてくれて……」
「わたしがバイトで疲れてるときは、『無理するな。お前が倒れたら、弟たちはどうするんだ』って頭撫でてくれました……」
静寂。
重い、重い静寂。
誰も、何も言えなかった。
麻美は唇を噛んだ。
誠は床を見つめた。
由香は目を伏せた。
隆は何かを言おうとして、言葉が出なかった。
絹代だけが、相変わらずスマホをいじっていたが、その手が止まった。
「おじいさん、いつも笑ってて……『お前らみたいな家族がほしかった』って……『本当の家族ってのは、血じゃなくて、心で繋がるもんなんだな』って言ってました……」
美月の涙が止まらない。
「最後に会ったときも、『美月、お前は強い子だ。きっと大丈夫。弟たちもお前がいれば大丈夫』って……」
「『俺がいなくても、ちゃんとやっていけるよ』って……」
「まさか、あれが最後だなんて……」
美月はハンカチで顔を覆った。
しばらく、美月のすすり泣く声だけが響いた。
誰も声をかけられなかった。
絹代が、イライラした口調で言った。
「……で?」
「絹代さん!」隆が叱責する。
「何よ。それで、何しに来たの? お線香上げたんだからもういいでしょ」
「あんた……!」麻美が絹代を睨む。
「わたしたち忙しいのよ? 猫探さなきゃいけないんだから」
美月が涙を拭いて、首を傾げた。
「猫……ですか?」
「そう。三毛猫。ミケっていうんだけど」麻美が言った。「親父が飼ってた猫なのよ。見なかった?」
美月の顔がパッと明るくなった。
「ミケ! ミケならうちにいます!」
「......え?」
全員が硬直した。
時間が止まったように。
隆が慌てて前に出た。
「本当に!? その猫、どこで——」
「一週間くらい前に、おじいさんが預けてくれたんです」美月が答える。「『猫の手も借りたいくらい大変だろう?』って。実は自分は体の調子があまり良くないから、良くなるまで面倒を見てくれって。」
「そ、それで、今どこに?」
「実は今日、ミケも連れてきてるんです。おじいさんに会わせたくて」
そう言って、美月が玄関に向かう。
五人は顔を見合わせた。
そして——全員が一斉に立ち上がった。
「ミケ〜、入っておいで〜」
美月の声。
すると——
玄関から、一匹の三毛猫がちょこちょこと歩いてきた。
「にゃあ」
白と茶色と黒の、綺麗な三毛模様。
隆、誠、麻美、由香、絹代——
五人が一斉に猫に向かって殺到しようとした。
「待て!」
隆が叫んだ。
全員が動きを止める。
隆の目が、冷たく光っていた。いや、全員の目が。
一週間前まで見せていた疲労の色は消え、代わりに——鋭い、計算高い光が宿っていた。
「……立花さん」
隆が美月に向かって、深く頭を下げた。
「その猫を、少しだけお借りできますか?」
「え? は、はい……でも、一体何が……」
「父が……大切にしていた猫なんです」隆が優しく言った。「最後にもう一度、父の部屋に連れて行ってあげたくて」
もちろん、嘘だった。
【猫が選んだ未来】
応接室。
巨大金庫の前に、全員が息を潜めて並んだ。
美月は訳も分からず、ミケを抱えている。
「あの……一体何が……」
「いいから」
隆が優しく言った——いや、優しい声を作った。
「その子の鼻を、そのパネルに当ててみてくれないか」
「鼻……ですか?」
「お願い」
美月が恐る恐る、ミケを金庫の前に連れていく。
「こう……ですか?」
そのとき——
隆が我慢できずに手を伸ばした。
「貸してくれ! 俺がやる!」
ミケを美月の腕から奪い取ろうとする。
「にゃあ!」
ミケが激しく抵抗した。引っ掻き、暴れ、隆の手から逃れようとする。
「くそ! じっとしろ!」
隆が無理やりミケの頭を掴み、鼻をパネルに押し付けようとした。
「認証失敗」
冷たい電子音。
「ちっ!」
誠が割り込んできた。
「俺にやらせろ!」
ミケを奪い取り、同じようにパネルに押し付ける。
「にゃあ! にゃあああ!」
ミケが悲鳴のように鳴いた。
「認証失敗」
「なんでだよ!」
麻美も手を伸ばした。
「あたしがやるわ!」
「認証失敗」
由香も。
「わたしも!」
「認証失敗」
四人が代わる代わる、ミケを掴み、鼻をパネルに押し付けようとした。
ミケは暴れ、引っ掻き、噛みつき——
そして、ついに——
隆の手をすり抜けた。
「あ!」
ミケは床に着地し——
一目散に、美月の方へ走った。
「ミケ!」
美月が膝をついて腕を広げると、ミケは迷わずその腕の中に飛び込んだ。
「にゃあ……にゃあ……」
怯えたように鳴くミケ。
美月が優しく抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫……怖かったね……」
ミケは美月の腕の中で、ようやく落ち着いた。
「にゃあ」
そして——
美月の腕の中から、じっと金庫を見つめた。
「……ミケ?」
ミケがするりと美月の腕を抜け出した。
今度は、誰も追いかけない。
四人は、疲れ果てて床に座り込んでいた。
ミケは——
ゆっくりと、金庫の前に歩いていく。
タッチパネルの前で立ち止まり——
振り返って、美月を見た。
「にゃあ」
まるで、「来て」と言っているように。
「ミケ……?」
美月がミケに近づく。
すると——
ミケは美月の足元にすり寄り、顔をすりつけた。
そして——
金庫のタッチパネルに、自分の鼻を押し付けた。
カチリ。
「ピピッ——認証成功」
電子音が鳴り響く。
重厚な扉がゆっくりと、まるで劇的な演出のように開いた。
中には札束の山。通帳の束。株券。不動産の権利書。
そして——一通の封筒と、古い革張りのノート。
美月が目を丸くした。
「これ……」
「お待ちください」
前田弁護士が、いつの間にか部屋に入ってきていた。
封筒を取り、開封した。
【遺言が語る真実】
『この金庫を開けた者へ』
前田が読み上げる。
美月は緊張した面持ちで聞いている。
隆、誠、麻美、由香は——床に座り込んだまま、呆然としている。
『ミケを連れてきてくれて、ありがとう』
『いや、正確には——猫があなたを連れてきてくれた、というべきか』
『この金庫は、ミケの鼻紋でしか開かない』
『猫の鼻紋は、人間の指紋と同じように、一匹ずつ違う』
『だが——重要なのはそこではない』
『ミケは、無理やり鼻を押し付けられても、金庫を開けることはない』
隆が、はっと顔を上げた。
『ミケは賢い猫だ。自分が心から信頼する者の前でしか、自ら鼻を近づけない』
『怯えているとき、怖いとき——ミケは、自分を守ってくれる者のところへ逃げる』
『そして、その者のそばで——初めて、心を開く』
美月がミケを見下ろす。
ミケは、美月の足元で「にゃあ」と鳴いた。
『つまり、この金庫が開いたということは——』
『ミケが、自らあなたを選んだということだ』
『ミケが選んだ者。それは——私が生前、最も愛情を注いだ者』
誠が、拳を握りしめた。
麻美が、唇を噛んだ。
由香が、目を伏せた。
『隆、誠、麻美、由香——』
『お前たちを愛していた』
『でも、お前たちは、俺を愛してくれなかった』
『それは、俺の責任だ』
『金しか渡せなかった俺の』
『そして今、お前たちはミケにも、同じことをしたはずだ』
『無理やり掴んで、無理やり鼻を押し付けようとしたはずだ』
『ミケは怯えて、逃げたことだろうと思う』
『そして——本当に信頼できる者のところへ行った』
隆の顔が、真っ青になった。
『お前たちには、分からなかったんだな』
『愛は、奪うものじゃない』
『与えるものだ』
『そして——与えた者にだけ、返ってくるものだ』
前田が美月を見た。
『もしミケが金庫を開ける前に寄り添ったのが、隣の立花美月さんなら』
美月が息を呑む。
『美月さん。すべてをあなたに託します』
『弟たちを、大学まで行かせてあげてください』
『あなた自身の夢も、諦めないでください』
『この金庫の中には、私の全財産があります』
『そして——もう一つ、ノートがあります』
『それは、あなたたちと過ごした日々の記録です』
『時間があるとき、読んでください』
『最後に——』
『ミケをよろしく頼みます』
『彼女は賢い猫です。きっと、あなたの良い相棒になるでしょう』
『ありがとう、美月さん』
『あなたと出会えて、私は幸せでした』
遺言は、そこで終わっていた。
美月は——震える手で、ノートを取り出した。
ミケが「にゃあ」と鳴いて、美月の膝に飛び乗った。
「立花さん」前田が優しく言った。「後でゆっくり読まれてもよろしいかと」
「い、いえ……今、読みたいです……」
美月はその場に座り込み、ノートを開いた。
四人の家族は——
何も言えず、ただ床に座り込んでいた。
【日記が語る真実】
美月はその場に座り込み、ノートを開いた。
五人の家族も、黙ってそれを見守った——ように見えた。
でも、彼らの視線は時折、金庫の中に向けられる。
最初のページ。
『2022年7月19日。今日、猫を飼った。名前はミケ。久しぶりに、何かを世話する喜びを感じた。でも、夜は相変わらず一人だ。ミケと二人、テレビを見ている。笑い声が欲しい』
美月がページをめくる。
『2022年12月24日。クリスマスイブ。絹代は朝から出かけた。「女子会」だそうだ。嘘だと分かっている。でも、もう何も言わない。ミケと二人、ケーキを分けた。猫はケーキを食べないので、結局全部俺が食べた。太った』
小さな笑い。そして、涙。
『2023年5月2日。隣の立花家の夫婦が事故で亡くなったらしい。娘が三人の弟を抱えて残されたという。まだ高校生だと。大変だろうな。俺にも、ああいう家族がいたら』
美月の手が震える。
『2023年8月17日。立花家から、時々泣き声が聞こえる。少女の声だ。辛いんだろう。何か力になれればいいのだが。でも、見ず知らずの老人が声をかけたら不審者だ。何もできない自分が情けない』
『2023年10月3日。立花家の様子を見に行った。庭先で少女が洗濯物を干していた。疲れた顔。痩せている。声をかけようとしたが、何と言えばいいか分からず、引き返した。臆病な老人だ』
『2023年11月22日。立花家から夕飯の匂い。カレーだ。腹が減った。家には即席ラーメンしかない。誰も料理を作ってくれる人はいない。ミケには猫缶をあげた。ミケのほうが良いものを食べている』
美月の涙がページに落ちた。
『2023年11月25日。勇気を出して、立花家の庭先まで行った。美月ちゃんが気づいて挨拶してくれた。「いい匂いですね」と言うと、少し考えて、「よかったら、食べていきませんか?」と笑った。天使か。本当に天使なのか、この子は』
『2023年11月26日。昨夜のことが夢みたいだ。温かいカレー。弟たちの笑い声。「おじいさん、また来てください」という言葉。何年ぶりだろう。誰かに必要とされるのは。涙が出た。トイレで隠れて泣いた』
『2023年12月1日。また立花家に行った。今度は肉じゃが。美月ちゃんの手料理。家庭の味。母の味。妻の味。全部が詰まっている。蒼が「おじいさん、数学教えて」と言ってきた。嬉しかった。俺の子供たちは、一度もそんなこと言わなかった』
『2023年12月15日。週に二、三回、立花家に通っている。図々しい老人だ。でも、美月ちゃんは「おじいさんが来てくれると、弟たちも喜ぶんです」と言ってくれる。嘘でもいい。その言葉が嬉しい』
美月は声を詰まらせながら読み続ける。
『2024年1月10日。美月ちゃんがバイトを三つも掛け持ちしてると知った。朝五時から夜十時まで。高校生なのに。偉い。本当に偉い。俺の子供たちは、大人になっても金をせびる。隆は先月、また三百万借りに来た。返す気はないだろう。誠は店が赤字だと言って五百万。麻美はリストラされたと泣きついて二百万。由香には毎月二十万送っている。何のために稼いだ金だったのか。誰も、ありがとうとは言わない』
隆が顔を覆った——演技で。内心では、(バレてたか)と舌打ちしていた。
誠が膝から崩れ落ちた——ふりをして。(やべえな)と思っていた。
麻美が声を殺して泣いている——ように見せかけて。(でも、もう遺産は手に入らない)と計算していた。
由香は床に座り込んだ——が、頭の中では(これから、どうやって美月に近づくか)を考えていた。
『2024年2月3日。湊のランドセルがボロボロだ。見ていて辛い。でも、美月ちゃんは誇り高い子だ。簡単には受け取らない。どう言えばいいか。懸賞で当たった、と嘘をつくことにした。嘘も、時には優しさだ』
『2024年2月10日。湊が新しいランドセルを背負って喜んでいた。美月ちゃんは涙を流して何度も頭を下げた。「そんなに喜んでもらえるなら、もっと早くなんとかすればよかった」と言うと、「おじいさんは、わたしたちの恩人です」と言われた。恩人。俺が。笑える。俺の家族は、俺を金づるとしか思っていないのに』
『2024年3月20日。美月ちゃんに「いつもありがとうございます」と言われた。ありがとう。その言葉を、最後に聞いたのはいつだっただろうか。誰からだっただろうか。思い出せない。絹代からは一度も言われたことがない。子供たちからも、もう何年も』
美月の肩が震えている。
『2024年4月15日。美月ちゃんが進路に悩んでいる。看護師になりたいらしい。でも、学費が払えない。夢を諦めようとしている。こんな良い子が、夢を諦めなければいけないのか。俺は何十億も持っているのに。俺の子供たちは散財しているのに。世界は不公平だ』
『2024年5月1日。決めた。俺が死んだら、美月ちゃんに全財産を渡そう。子供たちは怒るだろう。訴えるかもしれない。でも、構わない。俺の金だ。俺が決める。美月ちゃんなら、きっと正しく使ってくれる』
『2024年5月22日。金庫の仕掛けが完成した。ミケの鼻紋でしか開かない。完璧だ。これで、美月ちゃんに確実に渡せる。子供たちが猫を探し回る姿が目に浮かぶ。滑稽だ。でも、それが俺の最後のメッセージだ。「お前たちは、猫の鼻も借りようとしなかった。俺の鼻も」。いや、変だな。「猫の手も借りようとしなかった。俺の手も」だ』
『いや、待てよ。鼻紋認証なんだから、「猫の鼻も借りようとしなかった」のほうがいいか。まあ、どっちでもいい。お前たちには伝わるだろう』
美月が小さく笑った。おじいさんらしい。
『2024年6月1日。体調が悪い。心臓が痛む。医者に行ったが、あまり良くないらしい。でも、もう怖くない。やることはやった。美月ちゃんたちがいてくれたから、最後の日々は幸せだった』
『2024年9月10日。もう長くないと思う。だから、ミケを美月ちゃんに預けることにした。ミケがいれば、金庫が開く。ミケは美月ちゃんを覚えている。きっと、彼女のところへ行くだろう』
『2024年9月18日。準備を始めた。もうすぐだ。美月ちゃん、ありがとう。お前たちと過ごした一年が、俺の人生で一番幸せだった。血は繋がっていない。でも、お前たちは俺の本当の家族だった』
『2024年9月20日。今日、ミケを美月ちゃんに預けた。「猫の手も借りたいくらい大変だろう? 」と冗談を言った。美月ちゃんは笑って引き受けてくれた。優しい子だ。ミケ、頼んだぞ。美月ちゃんを幸せにしてやってくれ』
『2024年9月25日。体が辛い。でも、心は軽い。美月ちゃんに会いに行きたいが、もう歩けない。最後にカレーが食べたかったな。でも、美月ちゃんを困らせたくない。カップ麺で我慢だ』
『2024年9月28日。苦しい。もうダメかもしれない。でも、後悔はない。美月ちゃん、ありがとう。蒼、蓮、湊、ありがとう。お前たちが笑顔でいてくれることが、俺の最後の願いだ』
『君だけが——俺を人間として見てくれた』
『ありがとう』
そこで日記は終わっていた。
美月はノートを閉じ、声を上げて泣いた。
「おじいさん……おじいさん……!」
ミケが美月の膝に飛び乗り、顔をすりつけた。
「にゃあ」
隆が膝をついた——ように見えた。
「親父……俺は……俺は何をしてたんだ……」
でも、その声には、どこか空々しさがあった。
誠が床を叩いた——が、力はこもっていなかった。
「親父……ごめん……ごめんなさい……」
麻美が泣きながら仏壇に向かった——が、その涙はすぐに乾いた。
「お父さん……私……私……」
由香は部屋の隅で小さくなって泣いていた——ふりをしながら、スマホで弁護士を検索していた。
絹代だけが——立ち上がり、ハンドバッグを掴んだ。
「……私、帰るわ」
「絹代さん」前田弁護士が呼び止める。
「遺留分の請求は?」
「しない。面倒くさい」
絹代は振り返らずに部屋を出ていった。
二度と、彼女が桐原邸に戻ることはなかった。
その夜。
美月が帰った後。
四人は再び、桐原邸のリビングに集まっていた。
先ほどまでの悲しみの演技は、綺麗さっぱり消えていた。
「……で、どうする?」
隆が言った。
「遺留分請求するか?」
「できるの?」誠が聞く。
「できるよ。俺たちには遺留分がある。少なくとも、半分は取り返せる」
麻美が首を振った。
「でも、裁判費用は? 時間は? 勝てる保証は?」
「それに——」由香が言った。「世間体が悪い」
「世間体?」
「だって考えてみてよ。『資産家の子供たち、孤児から遺産を奪おうと裁判』って。マスコミが飛びつくわよ」
沈黙。
隆が深く息を吐いた。
「……じゃあ、別の方法を考えるか」
「別の方法?」
隆がゆっくりと笑った。
「美月ちゃん、まだ高校生だろ? 未成年だ」
「それが?」
「未成年が十五億も相続したら、どうなると思う? 税金は? 管理は? 弟たちの養育費は?」
「……ああ」
誠が理解した。
「つまり、俺たちが『助けてあげる』ってことか」
「そう」隆が頷いた。「美月ちゃんは優しい子だ。困ってる人を放っておけない。そういうタイプだ」
「だから——」
麻美が続けた。
「私たちが困ってるって言えば、きっと助けてくれる」
「俺の店の借金」
「私の住宅ローン」
「わたしの生活費」
「全部、美月ちゃんに『貸して』もらえばいい」
由香が小声で言った。
「……でも、それって……」
「何?」隆が睨む。
「……いや、何でもない」
隆が立ち上がった。
「じゃあ、決まりだ。明日から、美月ちゃんと仲良くなる。親父がお世話になったって感謝を伝えて、信頼関係を築く」
「そして——少しずつ、金を引き出す」
「十五億もあるんだ。少しくらい、もらってもバチは当たらないだろ」
四人は顔を見合わせた。
そして——全員が頷いた。
だが、その瞬間。
応接室のドアが開いた。
前田弁護士が、冷たい目で四人を見ていた。
隆たちが凍りつく。
前田の手には、小さなレコーダー。
「全て、録音させていただきました」
「お、お前……!」
「故人の遺言です」前田が淡々と言った。「『もし子供たちが美月さんに近づこうとしたら、証拠を集めて止めろ』と」
「そして——」
前田が封筒を取り出した。
「故人は、あなたがたの行動を全て予測しておられました」
封筒を開き、中身を読み上げる。
『もし、俺の子供たちが美月さんに金を要求してきたら、この手紙を見せてください』
『彼らには、すでに十分な金を渡してあります』
『隆には二千万。誠には三千万。麻美には一千五百万。由香には月二十万円を三年間、計七百二十万』
『合計七千二百万円以上です』
『これは遺産の「前渡し」として、正式に記録してあります』
『つまり、遺留分請求をしても、この金額は差し引かれます』
『計算してみてください。彼らが受け取れる遺留分は、ほとんど残りません』
『そして——彼らが美月さんから金を借りようとした場合、それも全て記録してあります』
『返済されなければ、贈与とみなされ、贈与税がかかります』
『前田先生が、すべて証拠を保管しています』
『さらに——もし、彼らが美月さんに接触した場合』
『それは「つきまとい」として、弁護士から警告書を送ります』
『それでも止めない場合は、接近禁止の仮処分を申請します』
前田が四人を見た。
「つまり——あなたがたが立花さんに近づいた時点で、私から警告書が送られます」
「それでも接触を続ければ、法的措置を取ります」
「遺留分請求をされても構いません。ただし、生前贈与として七千二百万円が差し引かれ、残りはほぼゼロです」
「さらに——」
前田が冷たく微笑んだ。
「今の会話は、全て録音されています。立花さんから金を巻き上げようとした証拠です」
「これを裁判所に提出すれば、あなたがたの遺留分請求は『権利の濫用』として却下される可能性が高い」
隆が前田を睨んだ。
「お前……最初から罠だったのか……!」
「罠ではありません」前田が言った。「故人の遺志です」
「桐原様は、すべてを予測しておられました」
「あなたがたが立花さんに近づくこと」
「金を要求すること」
「脅すこと」
「全て」
誠が歯ぎしりした。
「親父……死んでからも俺たちを……!」
麻美が泣き崩れた。
「嘘……そんな……」
由香は——何も言わず、スマホを見つめていた。
前田が最後に言った。
「桐原様からの最後の言葉です」
前田が、もう一枚の紙を取り出した。
『隆、誠、麻美、由香へ』
『お前たちを愛していた』
『でも——お前たちは、俺を愛してくれなかった』
『それは、俺の責任だ』
『金しか渡せなかった俺の』
『だから——もう、いい』
『美月さんには、手を出すな』
『彼女は——俺が最後に見つけた、本当の家族だ』
『お前たちにも、いつか分かる日が来るかもしれない』
『誰かに必要とされることの喜びが』
『誰かを必要とすることの温かさが』
『その日が来るまで——さようなら』
四人は——何も言えず、立ち去った。
玄関を出る前、隆が振り返った。
「……前田さん」
「はい」
「親父は——」
隆は何かを言いかけたがやめた。
「うん、そうだな。親父らしいよ」
隆は去っていった。
二度と、彼らが立花家を訪れることはなかった。
「猫の手も借りたい」
それは昔からの慣用句だ。
でも、桐原龍之介は「猫の鼻」を選んだ。
猫の鼻紋は、人の指紋と同じ。
世界に二つとない、その猫だけの印。
金庫を開ける鍵は、ミケの鼻。
猫が自ら選んだ者の前でしか、その鼻を押し付けない。
老人は最後まで、洒落っ気を忘れなかった。
「猫の手も借りたい」ではなく、「猫の鼻も借りたい」——
それは、真に必要とされることの喜びを知った老人の、
最後の、そして最高の仕掛けだった。
猫の鼻が、少女の未来を開いた。
孤独な老人の愛が、形を変えて、受け継がれた。




