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馬上槍試合に出る前に、腕を試す機会は思ったよりも早く現れた。
ジュディカエル王の遠縁の者がお忍びで隣国に行くことになり、途中ギドゴアール地方の南部にある森を通らなければならなくなった。
昼間でも夜の様に暗い鬱そうな森には熊や狼、はたまた盗賊が出るとの評判で、近辺に住む人々は絶対に森に近寄らなかった。
更に迷信深い人々は、ブレシリアンの森には、それだけではなく霊や妖精のたぐいも出ると信じて疑わない。
大袈裟な護衛をつける訳にもいかず、内密に地方で腕の立つ騎士を求めているとの話がキリルにあった。
キリルは直ちにガブリエルを呼び、依頼をしてきた王の使いの者に引き合わせた。
使いの者はガブリエルがキリルの息子だと知り、その姿を見て安心した様だった。
前金に200ゾル、旅人を無事隣国に送り届けたら残りの300ゾルを支払うと言われ、ガブリエルは平静を装いながら内心では興奮していた。
500ゾルとは節約すれば一年間は何もしないで暮らせる金額だ。
話はトントン拍子に進み、ガブリエルは使いの者と詳細を詰め、全てが決まると握手をして別れた。
数日後、準備を整えたガブリエルら3人は、雇い主との待ち合わせ場所のブレシリアンの森近くの町に向けて出発した。
冬の夜は長い。
暗い中の移動は危険が伴う。
盗賊に襲われることもあるし、道に迷ったり、悪い場合には崖から転落したり、沼に嵌ったりすることがある。
そのため旅は日中に限られていた。
ガブリエルの城からブレシリアンの森まで、馬で一週間程かかる。
馴れている者にとっても、この季節の旅行は結構辛かった。
ギドゴアール地方は国の西にあり、海に面している。
その為、冬でも気温はマイナスになることは殆どなく、雪は降らなかったが、湿気が多く霧雨が降ることが多かった。
一日中霧が晴れない日もあった。
ブレシリアンの森までは途中町を通ることは稀なので、夜は運良く荒野に点在している人家に辿り着けばいいが、そうでなければ野宿である。
針のように細かく冷たい雨に一日晒された後、やっとありつけるのは固いパン、休めるのは泥濘んだ地面というのは堪えた。
その日は運良く漁師の小屋に宿を借りることができた。
独り者の漁師が暮らしている粗末な小屋だったが、海草と泥炭を焚いた暖炉で服を乾かし、暖かいスープにパンを浸して食べれるだけでも有難かった。
唇を紫色にして歯をカチカチ鳴らせていたカドーは、縁の欠けた土器の器によそわれ湯気を立てているスープに感激の涙を流さんばかりだ。
顔に深い皺の刻まれた口の重い漁師は随分歳を取っている様に見えたが、実際はガブリエルの父親ぐらいかも知れない。
食事が終わり萎びた林檎を齧りながらガブリエルが尋ねた。
「冬でも漁に出るのか?」
漁師は暖炉の前の地面に座り網を繕っている。
「天気のいい日には出ますです」
「この季節は何が獲れる?」
「運がよけりゃ鱸が釣れますわ。蟹や海老も獲れます」
「ふーん、そりゃ豪勢だな」
革の小袋から笛を取り出しながらルモンが言った。
「ここら辺は妖精が出るって言うのは本当ですか?」
漁師はそれを聞くと、慌てた様に手を顔の前で振って言った。
「しーっ、そんな大声で奴らの話をしたらいかん。霧の深い夜などは裏の荒地のあたりにウジャウジャ出て来おる」
「爺さんは見たことあるのかい?」
「若い頃、夜道を歩いていたら出っくわしたことがある」
「どんな奴だったんだ?」
「わしの腰辺りまでで、目玉が飛び出そうにでっかくて耳が尖った奴じゃった」
「へーえ、会ってみたいもんですね」
「いやいや、お若いの。奴らは本当に狡賢い。無用心に近づけば痛い目に遭いますぞ」
漁師は怖そうにそう言うと、暖炉に向かって何かを呟きペッと唾を吐いた。
「それっておまじないか何かですか?」
体が温まって元気が出てきたらしいカドーが尋ねた。
「奴らがわしの小屋に近づかないためじゃ」
ガブリエルがルモンの笛を取り上げた。
「俺が吹く」
ガブリエルがギドゴアール地方に伝わる民謡の節を繰り返し吹くと、ルモンが歌い出した。
ルモンはガブリエルに仕える前、騎士にならずに吟遊詩人になろうと真面目に思っていた時期もあったそうで、とてもいい声だ。
短く単純な節が繰り返される曲で、若い娘が月夜に荒野に彷徨い出て、妖精に惑わされ婚約者を忘れて踊り明かし、最後には呪われて彷徨える魂となってしまう話だ。
途中からカドーが手拍子を打ち、いつしか漁師も木靴を踏み鳴らしていた。
深い霧の中、小さな黒い影が漁師の小屋に近づき、尖った耳をすませていたのを誰も気付かなかった。