第7話 途切れた未来
「クワトロフォルマッジ、カルボナーラ 入りまーす!」
「はい!」
キッチンに響く声。ホールの賑わい。
今日も店は忙しい。
パスに並べられた料理が、次々と運ばれていく。
樹は手を動かしながらも、意識はどこか遠くにあった。まな板の上に並んだ新鮮な野菜がなぜか現実から欠けて見えた。
ふと手が止まった。
脳裏浮かぶのはあの夜――カラオケでの笑い声と、不気味な空気が漂ったあの瞬間……。
むーさんの『ランダ・ランダ』にはみんな爆笑だったし、祥吾は何故か歌になるとボソボソと小声になって「お前、歌になるとなんでそんな小声になるんだよ!」
翔琉がツッコミを入れる……そんな楽しい時間の裏で起きた、得体の知れない“何か”に、記憶がたどり着いた。
「翔琉やむーさんが見たって言ってた人影……あれは一体?……」
そもそも事の始まりは、瞳が試してみた404号室で歌うと呪われると言う『都市伝説』
ルーム内の不自然に鳴った電話。
暗闇での人影らしき何か。でもそれを見たのは翔琉とむーさんだけで、俺と瞳、祥吾には見えていない。
祥吾がなにか言いたそうだったのも気になるし……あの時確かに周囲の空気が冷たくなったように思う。
ふう、と一息つき樹は包丁を持つ手に力を込めた。
「単なる思い過ごしならいいんだけど」
あの夜の出来事を払拭するように、樹はひたすら野菜を刻んでいたが、まな板を叩く包丁の音が、あの時の「不自然な電話音」に重なって聞こえた気がした。
* * *
お昼のピークを乗り切り、ようやく訪れた休憩時間。樹はエプロンの紐をゆるめながらスマホを取り出した。溜まっていた通知を無意識に確認していると、ある名前が目に飛び込んできた。
――祥吾。
ついさっき届いたメッセージだった。
『今日、ちょっと話せるか?』
『直接会って話したい』
「……なんだ、急に?」
普段の祥吾なら「会って話したい」なんて大げさな言い方はしない。
この間の出来事の事か?
再び蘇るあの日の事……。
考えながらスクロールすると、もうひとつ新しいメッセージが追加されていた。
『夜、店まで行くから』
それを見た瞬間、樹はため息をつきながらスマホを閉じた。
祥吾の口ぶりからして、何か重要な話があるのは間違いない。気のせいかもしれないが、ほんの少しだけ、胸の奥に嫌な予感がよぎった……。
――そして夜。店に再び静けさが戻った頃。
厨房は、昼間の喧騒とは打って変わって静かだった。
片付けを終え、スタッフたちが次々と帰っていく中、樹はスマホを手にしたまま、カウンターの隅で時計を見つめていた。
「やけに……遅いな」
祥吾はお店に来ると言っていた。それなのにまだ姿を見せない。
『今日、ちょっと話せるか?』
『直接会って話したい』
昼間のメッセージを見返し、胸の奥がざわつく。祥吾は抜けてる所があるが、約束を破るようなやつじゃない。それなのに、連絡すらないのはおかしい。
「……どうしたんだよ、祥吾」
嫌な予感がじわじわと胸を締め付ける。もう一度スマホを確認するが、新しい通知はない。
「まさか、何かあったんじゃ――?」
樹は思わず立ち上がった。
このまま待っていても仕方がない。とにかく祥吾に連絡を――。
その時、不意に――ギィィ……と背後の扉が軋む音を立てた。
「……!」
誰か来たのかと思って振り返る。
しかし、そこには……誰もいない。
厨房の蛍光灯が、わずかに唸りながら揺れている。
店の中には、自分ひとりだけ。
――時計の針の音だけが、妙に大きく耳に残る。
嫌な予感が一気に膨らんでいく。樹はスマホを操作し、祥吾に電話をかけた。
――プルルルル……プルルルル……。
呼び出し音が虚しく響く。何度かコールした後、留守番電話に切り替わった。
「……出ない」
悪い予感が確信へと変わり始めた瞬間だった。
――着信音が鳴る。
「祥吾?!」
すぐにスマホを確認すると、画面に映っていたのは翔琉の名前。
「もしもし、翔琉? 祥吾、そっちに――」
一瞬の沈黙。
『樹……! 祥吾が、事故にあったって……!』
翔琉の声は、ひどく震えていた。
樹の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
「……え?」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。ただ、翔琉の息が荒いのがわかる。
『救急車で運ばれたけど……まだ、意識が戻らなくて……!』
胸が締め付けられるような感覚。スマホを握る指に力がこもる。
「……どこだ。今、どこにいる?」
樹は震える声で尋ねながら、もうすでに厨房を飛び出していた。
病院の白い廊下は、妙に静かだった。
天井に付いた灯も薄暗く感じる。
状況が掴めないまま走ってきたせいで息が上がっているのに、周囲の空気がやけに冷たく感じる。 樹は震える手でスマホを握りしめたまま、ひたすら廊下を歩くが気ばかり焦ってうまく歩けない。
「祥吾、頼む、頑張ってくれ……」
自分の足音が響きすぎて耳に痛い。急ぐほどに、周りの静寂が不気味に重く感じる。
普段なら気にしないだろう冷房の風も、今はまるで目に見えない手が触れているように感じる。
やがて、手術室の前に到着するとそこには翔琉とむーさんの姿があった。
見知った姿を見て樹は一瞬ホッとしたが、二人の顔には、言葉にならない不安と緊張が漂っていた。その表情を見てさっきの安堵はすぐに掻き消えた。
「……樹くん」
いまにも泣きそうなむーさんが、やっとの思いで言葉を発する。
樹は急いで二人に駆け寄り「どうだ?」と尋ねるが、翔琉はゆっくりと首を横に振り、むーさんもいつになく神妙な表情で、たたずんでいる。
「さっき運ばれて……まだ」
言いながら翔琉は『手術中』と点灯している表札を見つめている。
――手術中という事は、まだ可能性があるって事だよな。
「頼む! 助かってくれ」
樹はわずかな希望を胸に、椅子に座り込む。廊下に響き渡る時計の針の音が、彼らの鼓動の音の様に聞こえた。
……どれほどの時間が流れたのか。
ふと、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「祥吾……どうなったぁ?」
その声に樹、翔琉、むーさん三人が一斉に顔を向ける。
「瞳!」
「お前!どこ行ってたんだよ」
「遅かったね……」
三人の表情には不安が色濃く滲んでいた。そんな彼らをよそに、瞳はどこかぼんやりとした笑みを浮かべている。
――おかしい。
慌てる様子もなく、いつもと変わらない態度。
いや、むしろ『変わらなすぎる』
この場の空気を理解していないのか?
それとも――理解した上で、その態度なのか?
樹は、背筋をじわりと這い上がる不快な感覚を覚えて、瞳の表情をジっと観察した。
彼はいつも通り笑みを浮かべている。この状況でだ。そしてそれがまるで仮面のように思えた。
「どこ行ってたの?」
むーさんが問いかけると、瞳は首を傾げ、軽く肩をすくめる。
「これでも、急いで来たんだよぉ」
相変わらず、まったりと話す瞳の態度に、翔琉が眉をひそめて食ってかかる。
「お前さ、状況わかってる?祥吾が大変なんだぞ!」
「わかってるよ。でもさぁ、僕らにはどうにも出来ないだろぉ?」
瞳はそう言って、手術室の方に視線を向けた。
その目には、悲しみも焦りもない。ただ、淡々と状況を見極めようとしているように見えた。
――本当に、祥吾のことを心配しているのか?
そんな瞳を見て、樹の胸に得体の知れない不安が広がる。
すると、不意に『手術中』の明かりが消え、扉が開いた。
手術着の医師が姿を現し、険しい表情を浮かべている。
「……お身内の方は?」
その言葉に、全員が息をのんだ。
「先生、祥吾は……?」
樹が身を乗り出す。
しかし、医師は一瞬、言葉を詰まらせるように口を引き首を横に振った。
「……全力を尽くしましたが……残念です」
その一言で、時間が止まったように感じた。
むーさんが顔を覆い、翔琉は肩を落とす。
樹はただ、呆然と立ち尽くしていた。
そして――瞳は。
彼だけが、ほとんど表情を変えずに、医師の言葉を受け止めていた。
「そっか……亡くなっちゃったんだぁ」
静かに、呟くように言う。
涙の一つも見せず、ただ事実を確認するように……。
樹はその様子を見て、確信した。
――何かがおかしい。
あまりにも他人事すぎるように思える。いつも一緒に遊んでいた友達がこの世を去った。
その割には瞳の態度は明らかに冷静すぎる。
祥吾の死、瞳の態度……。
心の整理がつかないまま、重たい沈黙が広がる病院の廊下に樹はその身を置いていた。
少し前に到着した祥吾の両親の嗚咽が病室から聞こえてくる中、むーさんは顔を伏せ、翔琉は拳を握り締めたまま動かない。
樹はまだ信じられず、祥吾がもういないという現実を受け入れきれずにいた。
そんな中、瞳だけが静かに口を開いた。
「なぁ……これってもしかして」
ゆっくりと、まるで言葉を選ぶように。
「……呪い、なんじゃないかぁ?」
その一言に、全員が彼に視線を送った。
「……は?」
翔琉が眉をひそめる。
「だって、……変なこと、立て続けに起こったよなぁ?」
「お前、何言って――」
「この間、カラオケで試した『あの都市伝説』のこと」
瞳は静かに続ける。
「恋人に裏切られて自殺した女の呪い。僕らぁ試しちゃったじゃない」
彼の声は妙に落ち着いていて、それがかえって不気味だった。
「まさか……そんな話、馬鹿げてる」
翔琉が否定しようとするが、瞳はその言葉を遮るように言った。
「でも、もし本当だったらぁ?」
誰かが息をのむ音がした。
「もしもぉ、祥吾が……呪われてたとしたら?」
彼はゆっくりと樹を見る。
その目には――奇妙な光が宿っていた。
「そう言えば……」
樹は握りしめていたスマホを操作して、祥吾から送られてきたあのメッセージを確認する。
「祥吾さ、なにか話したい事があったみたいなんだ」
メッセージ画面をみんなに見せた。
『今日、ちょっと話せるか?』
『直接会って話したい』
そのメッセージが送られたのは、事故の数時間前だった。
「……あいつは何を話そうとしてたんだ?」
翔琉がぽつりと呟く。
むーさんも顔を上げ、画面を覗き込んだ。
「こ、これって、呪いのこと……なのかな?」
「きっとそうだよぉ」
瞳が、確信めいた声で言った。
「だってさぁ、もし祥吾に呪いの矛先が向いたとしたらぁ?……それで殺されたって考えられない?」
その言葉に、翔琉が険しい表情になる。
「おい、いい加減にしろよ。呪いなんてあるわけ――」
「でも、事実としてぇ……祥吾は死んだよ?」
瞳は静かに言う。
そして、じっと樹を見つめた。
「……もしかしたらぁ、祥吾は『呪いの正体』を知ってしまったのかもしれない」
その言葉が、廊下に重く響く。
樹の胸の奥で、何かがざわついた。
もし、本当に祥吾が何かを知っていたのなら……。
彼は、それを話す前に殺された?
――呪いで?
それとも――別の何かによって?
瞳の目が、ふと細められる。まるで、樹の思考を読んでいるかのように瞳がボソッと言う。
「別の何かぁ?」
「え?」
自分の思考を読まれたような気がして、樹は小さく息をのんだ。
瞳はじっと樹を見つめたまま、静かに続ける。
「なぁ、樹……キミも思ってるでしょ?」
「……何をだよ」
「祥吾の死は、ただの事故なんかじゃないって」
その言葉に、翔琉とむーさんが息をのむ。
「何か証拠でもあるのか?」
翔琉が険しい表情で問いかける。
「証拠なんて……いらないよぉ」
瞳はさらりと言った。
「だってぇ、呪いってそういうものじゃない?」
彼の声は落ち着いていた。
怖がっている様子もなく、むしろ「納得した」というような響きを持っていた。
「……言っただろぉ? これは『恋人に裏切られて自殺した女の呪い』」
「でも、それと祥吾がどう関係あるんだよ?」
翔琉が苛立ちを滲ませる。
「わからない。でもぉ、もしかしたら……祥吾は、誰かにとって『やってしまった者』だったのかもしれない」
瞳はそう言いながら、ふと、暗い窓の外を見つめた。
「呪いが本物なら、次は誰が死ぬんだろうね」
――その瞬間、背筋が凍るような寒気が走った。
静まり返った廊下の壁に映るなんでもない影が、まるで人影のように見える。
「……ねぇ、やめなよ」
むーさんが震えた声で言う。
「俺は信じねぇからな、そんなもん」
翔琉も言い放つ。
だが、樹は気づいてしまった。
――瞳の目が、確かに「楽しんでいる」ように見えたことに。
* * *
病院を出てから、重い空気のまま誰も多くを語らない。それぞれが自分の考えに沈み込み、無言のまま別れた――。
樹は自室のドアを閉めると、大きく息を吐いた。
疲れがどっと押し寄せる。
ドカッとベッドに横たわり、スマホを手に取る。そこには祥吾からの最後のメッセージが、画面に残っていた。
『今日、ちょっと話せるか?』
何度も見返したメッセージ。一体祥吾の話はなんだったんだ?
「祥吾。お前に何があったんだ……」
独り言のように呟いた瞬間、頭の中にあのカラオケルームでの出来事が浮かび上がる。
――あの時、電話の声を聞いたのは翔琉とむーさんだった。影を見たのも翔琉とむーさん。
なのに、呪いで死んだのは祥吾?
そもそも呪いなんてモノが、あるわけない……
――でも万が一
樹はスマホを握りしめる手に力を込めた。
呪いが本物なら、最初に死ぬのは……影や声を聞いた二人のはずじゃないのか?
「順番が違う……」
無意識に呟いた言葉に、自分でハッとする。
瞳は『祥吾は呪われた』と言った。
まるでそれが確定した事実であるかのように。
でも、それはおかしい。
「……瞳、なんで祥吾が呪われたって言い切れたんだ?」
胸の奥がざわつく。
祥吾の死は、本当に呪いによるものなのか?
それとも――。
部屋の中は静まり返っていた。
グルグルと色々な事が頭の中を駆け巡る。そしてそのうち樹は睡魔に飲み込まれていった。