第6話 事故とパンケーキ
消えたはずの人影に、翔琉とむーさんはまだ心が囚われていた。
気づけば誰も言葉を発さない。
店内に響くのは遠くのテーブルから漏れるざわめきと、カチャカチャと鳴る食器の音だけだった。
そんな静けさを破るように、瞳がふと口を開いた。
「この辺でさぁ、昔事故があったって聞いたことあるんだけど、知ってるぅ?」
唐突な問いに、全員の視線が瞳へ向かう。
「じ……事故?」
むーさんが首を傾げる。
「そう。まだ小学生だった女の子が車に跳ねられたんだよねぇ」
「あ、もしかして……十年くらい前の?」
樹が少し遠くを見るように目を細めた。
「確か駅前の交差点の交通事故だったような……」
「よく覚えてんな」
その記憶力を感心するかのように、翔琉は樹に目線を送る。
「親父が言ってたんだよ。その事故で駅前がずいぶん工事されるって」
「歩道が広くなったあたりか」
「うん。『海浜通り』って名前になって、車が入れなくなっただろ?事故がきっかけだったらしい」
「へぇ、じゃあその時の工事でお店の場所が変わっちゃったんだ」
店内を見渡しながら、むーさんが答える。
「まあね。前の場所が修繕区域になったから仕方なく。それでここに落ち着いたわけ」
なるほど、それで覚えてたのか――と翔琉は納得したように頷いた。
そんな様子を横目で見ていた瞳が、ふいに祥吾の耳元に顔を寄せた。
「その跳ねられた子、死んじゃったって話なんだけどさ」
そう言われた瞬間、ハッと祥吾の手がピクリと止まった。
「なんで、そんな話?」
無理に笑おうとした彼の声は、わずかに強張っていた。
「別にぃ。ただ、あの駅前の辺りってぇ昔から変な噂あるじゃん。行方不明者が出たとか、見ちゃいけないものを見たとか……」
瞳の言葉は何気ない雑談に聞こえたが、確かに祥吾を探るような響きがあった。
「そんなの……め、迷信だろ。ただの」
いつもなら軽く流しそうな祥吾が慌てて否定する。
だが、その態度がかえって彼の動揺を際立たせた。
「なんだよ祥吾。怖いのか?」と、むーさんがからかう様にニヤリと笑う。
瞳はそんな様子を見逃さず、静かに言葉を継いだ。
「……祥吾、キミ……本当に知らないのぉ?」
「お……俺が知るわけねえだろ」
無理に笑おうとしているのが分かる。それでも声の端がほんの少し震えていて、祥吾の顔から血の気が引いていくのが、誰の目にも明らかだった。
「祥吾?」
樹がそう声をかけたが、祥吾は視線を落としたまま、スプーンの先を皿の上でそっと滑らせていた……。
「お待たせしましたぁ!」
弾むような声とともに、笑顔の女性店員が注文したメニューを運んできた。
テーブルに並ぶ熱々の料理から立ち上る湯気が、さっきまでの緊張を少し和らげる。
「わぁ……おいしそ!」
むーさんが目を輝かせ、ハンバーグにナイフを入れる。
「……とりあえず飯。話はそれからだろ」
翔琉はボソッと言いながら、スプーンを手に取った。
その一言に、みんなが少しずつ笑顔を取り戻していく。
――だが。一人、祥吾だけは手を動かさず、黙ったままだ。
皿の前に置いたスプーンをじっと見つめ、何かを噛み締めるような顔つきのまま。
その目の奥に、何かを思い出そうとしているような、あるいは振り払おうとしているような影がよぎった。
次の瞬間――。
「やっぱり、ここのチーズハンバーグ最強だよ。チーズがトロトロ」
むーさんの明るい声に、祥吾がフッと顔を上げた。
さっきまでシンとしていた祥吾も、ようやくいつもの調子を取り戻したように、
「デザートも頼んじゃおうぜ!」
大きな声で叫ぶとパラパラとメニュー表をめくる。
その声に、また笑いが広がり和やかな空気が店内に戻っていった。
「だな。デザートも美味しいし」
樹が静かに言って、手元のメニューを指先で軽く押さえる。
みんなもそれに続くように次々とメニューに目を落とした。
「んー……いちごのケーキか、プリンか……」
むーさんが迷いながらつぶやく。
「どっちも頼んじゃえばいいんじゃね?」
と、祥吾がにやりと笑いながら提案し、みんなが笑い出す。
「なら俺、チーズケーキとアイスクリームで!」
翔琉がすぐに決めると、瞳もメニューを見つめながら尋ねた。
「樹、ここのデザートで一押しはぁ?」
「やっぱ……パンケーキだな」
樹が指さしたページには『当店おすすめ』の文字と、色とりどりのパンケーキが並んでいる。
「じゃあ、それにしよっかなぁ」
「俺もそれで!」と祥吾。
注文が決まり、先ほどの店員が再びテーブルにやってきて、手際よくメモを取り始めた。
「いちごのパンケーキで!」
むーさんがはっきりと伝え、他のみんなもスムーズに注文を終える。
「じゃあ、俺は……キャラメルバナナパンケーキで」
最後に樹がそう言うと、店員の彼女がにっこりと笑った。
「了解です。樹くんも食べてくんだね、今日は」
樹の仕事仲間がこっそり声をかける。
「うん、友達と来ててさ。あとで厨房にも顔出すよ」
「わかった! じゃあちょっとサービスしておくね」
そんなやりとりに、瞳がくすっと笑う。
「……職場って感じがするぅ」
「やめてくれ、休みの日くらい普通にいさせてくれよ」
そう言いながらも、樹の顔はどこか嬉しそうだった。
「店の人たちとも仲いいんだな」
祥吾が感心したように言うと、翔琉もコップを回しながらうなずく。
「うん。なにせ樹の親父さんのお店だしな。カウンターの人も愛想いいし」
「みんないい人ばかりで。俺なんか本当に助けられてる」
そう答える樹の背後、奥の厨房からは小さな調理音が聞こえていた。客足は落ち着き、他のテーブルでも低めの声で会話が交わされている。
「それにしても、制服、あれなかなかいいよね。ネイビーに白のラインって渋い」
ふいにむーさんが言い、目を輝かせた。
「ああ、あれ? 季節ごとに少しずつ変わるんだよ。いまは夏仕様」
「まじか。あのセンス、オレ好きだなあ。デザインもお父さんのこだわり?」
「いや、そこは母さん。『男くさい店はだめ』って言ってさ。春夏秋冬、地味に変えてる」
「まじかよ、ちゃんとしてんな〜。俺、秋バージョンも見てみたいかも」
「写真は禁止な」
思わず噴き出した樹に、全員が笑い声を漏らす。
その直後、店員が飲み物を運んできた。パンケーキはもう少しかかるらしい。
会話がひと段落し、ふと瞳が窓の方へ目を向けた。ガラス越しには、街灯に照らされた夜道と、コンビニの看板が浮かび上がっている。
「……こうしてるとぉ、普通の夜って感じだなぁ」
低くつぶやいた彼の声に、誰もが一瞬言葉を失う。
「さっきまで人影が見えてたとは思えないよな……」
翔琉が苦笑まじりに返すと、空気がわずかに緩んだ。
「……本当にな。変な感じ」
樹はそう小声で呟きながら、グラスの水をひと口飲んだ。冷たい感触が、どこか現実に引き戻してくれるような気がした。
「でも……やっぱ、こういう時間が一番だよな」
気を取り直したその言葉に、誰からともなく小さくうなずきが返ってきた。
何事もなかったかのように笑い合う仲間たち。
やがてデザートが運ばれ、みんなのテンションは最高潮に達する。
「やばぁ!ふわっふわだぁ!」
「このチョコ、濃厚すぎ!」
「いちごが、おいしい」
「むーさんはいちご大好きだもんな」
笑い声と食器が触れ合う音が、店内に響く。
だが、ふとした瞬間、樹の耳に違和感がよぎった。
――カチャリ。
ほんの一瞬、小さな音。ガラスの器が、何かに微かに触れたような。
空気が、わずかにズレた気がした。
「……?」
気のせいかと思いながらも、ふと視線を向けると、祥吾の手が止まっていた。
フォークを握ったまま、彼はじっと一点を見つめている。
「祥吾?」
呼びかけても、彼はすぐには反応しなかった。
「……なんか、さ」
小さく息を飲んだ祥吾が、ぽつりとつぶやく。
「あ、いや……。なんでもない」
無理に作ったような笑顔で、祥吾はパンケーキを口に運ぶ。
(どうしたんだろう?)
樹はなにか言いたそうな祥吾を横目で見る。
目元が笑っていない。視線はどこか遠くを見ながら何かを考えているようにも見える。
(……本当に、なんでもないのか?)
パンケーキを口に運ぶ手は動いているのに、祥吾の表情だけが置いてきぼりだった。
――さっきの“間”は、何だったんだろう。
何かに気づいた顔。思い出したような顔。でも、それを言わなかったのは、言えなかったのか、言いたくなかったのか。
どちらにせよ、嫌な感じが胸に引っかかって離れない。
その違和感は、甘いはずのパンケーキの味さえ、どこか苦く感じさせた。
樹は手元の皿を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……なんかあったら、いつでも言えよ」
フォークを置いた樹が、そっと祥吾に声をかけた。
祥吾は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく笑ってうなずいた。
そのやりとりを、瞳はテーブルの向こうでじっと見ていた。
表情は何も読み取れない。ただ、視線だけが冷たく、真っすぐに――祥吾を射抜いていた。