第5話 明るい場所 暗い影
樹が働いている店に入ると、いつもと変わらない温かい光が迎えてくれた。
照明が優しくテーブルを照らし、香ばしい料理の匂いが漂っている。ここだけは、さっきまでの不気味な出来事が嘘のようだった。
――けれど、ほんの一瞬だけ、翔琉は足を止めた。
この場所も何も変わっていないはずなのに、なぜだか空気が、ほんの少し冷たい気がした。
いや、気のせいだ。彼はそう自分に言い聞かせると、軽く首を振って奥の席へ向かう。
「はー、やっと落ち着けるな」
翔琉が深く息を吐きながら、空いていた奥の席に腰を下ろす。
このお店は週末になると深夜まで営業しているので、遅い時間でも飲食を楽しんでいる人たちで溢れていた。
「マ、マジ……で怖かったんだけど……」
むーさんがまだ少し震える手でメニューを掴む。
「だ、だってさ。電話から変な声聞こえた」
「俺も。俺も聞こえた『アエタ……』だかなんとかって」
翔琉とむーさんはお互いの顔を見ながら頷いている。
「マジで? 俺達には聞こえなかったよな?」
樹が瞳と祥吾に確認すると、「うんうん」と、二人が答えた。
……が、瞳の表情は、どこか曖昧だった。笑ってはいたが、目が笑っていない。
何かを隠しているのか、それともただ疲れているだけなのか――誰もその意味を問おうとはしなかった。
だが、すぐに翔琉は首をかしげた。
「……でもさ、あれって本当に“声”だったのかな? ただの機械音の反響か、ノイズの混じった何かじゃないか?」
彼の声は少し震えていたが、あくまで冷静を装っている。
「いやでも、あれ人の声だったと思うよ? 女の……」
むーさんが言いかけると、翔琉は少し考えてから続ける。
「カラオケの配線とか古そうだったし、誰かが前に歌った曲の残響が……あり得ないけど、まあ何かのタイミングで誤作動したとか。あと壁が反響しやすい構造だったし、部屋の外の声が偶然入り込んだ可能性も――」
「また始まった、翔琉の理屈癖」
祥吾が苦笑して言う。
「でもな、変に“呪いだ”とか言ってパニックになるよりマシだろ。まだ何も証拠はないんだから」
翔琉は真剣な顔でそう言いながらも、手元の水をぐっと飲み干した。
ただ、その手はわずかに震えていた。
「きっと気のせいだろ! 樹が作るうまい飯食えば元気出るっしょ!」
無理に明るく振る舞う祥吾に、みんな苦笑いしつつも頷いた。
だが、翔琉の背中にはまだ、あの部屋で感じた冷たいものが、どこか貼りついて離れなかった。
気のせいだと頭では理解しても、心の奥に残った不快な感覚が、じわじわと広がっていた。
そんな空気を払うように、樹がポツリと口を開いた。
「……まあ、俺はまだ見習いだからさ。いつかみんなにちゃんとした料理を出せたらいいなって思ってる」
その声は、どこか照れくさそうで、けれど温かかった。
「でもぉ厨房には入ってるんだろぉ?そのうち食べさせてくれよな~」
ニコニコと笑顔の瞳が楽しそうに言う。さっきまでの暗い雰囲気が消えた彼を見て、樹は安堵する。
ジュウッと調理している音が耳に心地よい。だが、その温かな空間にも――あの電話の記憶は、消えない影のように静かに、全員の心にこびりついていた。
ふと、翔琉が店のガラス越しに外を見た。
夜の闇は深く静かで、街灯の下に人影がぼんやりと揺れている。
「なぁ……あそこ……誰か立ってないか?」
軽く言ったつもりだった。
え?っと一斉にみんなが窓の外を確認する。
そこには確かに、店をじっと見つめる影があった。
満月の光が降り注ぎながらも薄暗い街灯に照らされ、ぼんやりと輪郭が浮かぶ。
顔までははっきり見えない。ただ、視線のような圧だけがリアルに伝わってくる。
「……まさか、な。光の反射か? いや立ち方が……」
翔琉は思わず口にしていた。驚いてるのは間違いない。だが、恐怖よりも現象の意味を考えるのが働いていた。
「……いるよ。はっきり見えてる」
いつになくむーさんが険しい表情で声を上げた。それは恐怖心を落ち着かせる為だったのかもしれない。
――見えている。俺にもむーさんにも。
翔琉は再び窓に目をやりながら、心の中で理屈を組み立てようとする。
「見えてるって事は、何かある……視覚的な錯覚か、それとも……」
――と。
「え? どこに?」
「なに言ってんだよ、なんもいねーじゃん」
樹と祥吾が、まるでピントの合わないカメラのように視線を泳がせている。
――は?
翔琉はゆっくりとむーさんと目を合わせる。むーさんも、困惑した顔で視線を合わせた。
確かにそこに“いる”のに、他の誰にも見えていない?
この"現象"を俺とむーさんだけが認識している――?
闇の中、街灯の薄明かりに照らされたその影は、ただの人影ではなかった。
黒い靄のような、輪郭の曖昧な存在――。それが夜の闇に、異様に浮かび上がっている。
「……いる、よな?」
震える声で囁く翔琉に、むーさんは無言でこくりと頷く。
翔琉は胸の奥がざわいた。理屈で説明出来ないことが起きている。
(どうして、樹と祥吾には見えないんだ?)
心の中でそう問いかける。
理屈が追いつかない。だが、確かにそこに“いる”。
「……光の加減か? でも、あの動き……いや、それにしては……」
思考がぐるぐる回る。可能性を消去しようとするが、どれもしっくりこない。
「からかってんのかよ、おまえら」
祥吾が笑って肩をすくめる。
「瞳は? お前は見えてる?」
翔琉は問いかける。わずかに希望を込めて。
「え? なにがぁ?」
瞳はまるで興味がなさそうにストローをくわえたまま首をかしげる。
「……見えてないの? 本当にいるんだって」
必死に説明しようとする翔琉だったが、その声は自分でも頼りなく感じた。
むーさんも「ほ、ほら、あそこだって……!」と指をさすが、瞳はきょとんとした顔で首をかしげる。
「何もないじゃん。ほんとに大丈夫かぁ?」
違う、いるんだ。確かに見えている。けれど、この不自然な違和感は何なんだ?
再び窓の外に視線を戻した瞬間――その人影が、わずかに首をかしげたように見えた。まるで、自分たちにだけ気づいていることを確かめるかのように。
「……どうして、俺たちにしか見えないんだよ……」
翔琉の手は、いつの間にか冷たくなっていた。
「瞳くんのせいだよ。あんな都市伝説の話なんか……するから」
俺は知りませ~ん……とドリンクを飲んでいる瞳を横目で恨めしそうに見つめるむーさん。
翔琉は息を飲んだまま、窓の外を凝視していた。むーさんも、何かに縛り付けられたように指をさしたまま固まっている。
それなのに、樹たちには見えていない――この違和感が、じわじわと胸を締めつける。
「まさかとは思うけどさ……」
ふと、樹が申し訳なさそうに口を開いた。
「さっきカラオケで瞳が試した都市伝説……あれのせいじゃ……ないよな?」
「あ! あの歌うたっちゃったから、出てきちゃった?」
祥吾は目を見開いて叫ぶ。
だがすぐに、照れ隠しのように樹は肩をすくめた。
「ごめんごめん、今の冗談」
そのときだった。
翔琉とむーさんの視界に映る影が――ふっと、揺らいだ。
靄が晴れるように、塊がぼやけ始める。少しずつ輪郭が崩れていく。
「……消える?」
思わず翔琉が呟くと、むーさんも小さく息を呑んだ。
確かにそこにいたはずの影が、静かに、音もなく薄れていく。
ぼんやりとした塊のような人影。ゆらゆらと揺れて見えているのは髪の毛?それも徐々に舞うように消え、最後に残ったのはこちらを射抜いていたはずの視線――。
それも、消えた。
まるで初めから何もなかったかのように、窓の外には薄暗い街灯と夜道が広がっているだけだった。
「……い、いなくなった……」
むーさんの震える声が、静まり返った空気に染み込む。
「だ~から、何もいねえって言っただろ?」
祥吾が呆れたように笑うが、翔琉とむーさんは返事ができなかった。
本当に――あれは、何だったんだ?
消えたはずなのに、さっきまで感じていたあの視線だけは、まだどこかに残っているような気がしてならなかった。