第1話 何気ない日
〇月〇日の土曜日、カラオケ行こう!――。
そんな誘いの連絡が恋塚 樹の元に届いたのが一ヶ月程前だった。
「土曜日かぁ。シフトどうなってたかな……」
ガーリックの香ばしい香りが食欲をそそる店内で、厨房近くの休憩室に貼られているシフト票に目を走らせ休みを確認する。
樹の父親はイタリアンレストランを数店舗経営ながら本店の料理長を勤め、母はパティシエを担っている。そんな両親の姿を見て育った樹は思う。
(……俺もいつか父さんみたいなシェフに)
そんなふうに考え始め、料理人の道に進むことを選んだ。
二歳年下の弟がいるが、彼は料理人より経営に興味があり、現在は経営学を学んでいる。
彼はいつか、父が築いたこのレストランをより大きな成功へと導くために、経営の知識を活かそうとしている。
父が長年かけて築いてきたこの店を、兄弟でそれぞれの形で支えていくのが樹の夢でもあった。
厨房からはシェフ達の活気のある声が聞こえる。
ここは父が料理長を務めるイタリアンレストラン。
観光地として有名な『海浜通り』に面したこの店で、樹はコック見習いとして働いている。
「え~っと。その日のシフトは……。あ!大丈夫だ。ちょうど休みになってる」
夏休み近いこの時期の土曜日に休めるのは、まさに奇跡的!樹は顔をほころばせた。
「よし!返事しよ」
スマホを手に取り『カラオケ行く!』と、打ち込む。
小・中学や高校時代からの気の置けない友人とワイワイする時間は、樹にとって楽しく過ごせる時間だ。
――ピンコーン!
『おぉ。楽しみにしてるよ』
スマホに瞳からいつものけだるい感じの会話のままの返信が来た。
十年程前までは、携帯電話を持つ学生はそんなにいなかったが、いまとなっては殆どの人達がスマートフォンと進化した電話を持つのが当たり前になっている。
便利な時代だ。スマホ一台あればほとんどのことが出来る。こんなメッセージのやりとりも、無料アプリでリアルタイムに送受信出来るようになっていた。
メッセージを送った相手、白玉 瞳とは友人で、今回のカラオケを誘ってきた本人だ。
「なに歌うかなぁ」
そんな事をワクワク考えながら、いつものカラオケの光景を思い出し……。
(でもなぁ。俺は歌わない方がいいのか?)
と、小さく笑う。
「さてと、そろそろ戻るか」
休憩時間が終わった樹は、活気に満ちた厨房へと足を踏み入れた。
* * *
「いらっしゃいませ」
ディナータイムの店内は、食事を楽しむお客様で大忙し。普段はホールに出ない樹も、今夜は配膳に駆り出されていた。
「おーい!樹ぃ~!」
突然の大きな声に、店内の視線が一斉に樹と声の主へと向く。
声のした方を見ると、満席のテーブルの奥に見慣れた顔が、こちらに手を振っている。
「え? 祥吾? むーさんに翔琉まで…… 」
お客様に頭を下げつつ、三人のもとへ早歩きで向かう。
「来てたのか」
笑顔で声をかけたその時、隣に座っていた若い女性の三人がひそひそと会話を始めた。
「あ、いた。あの彼だよ」
「なるほどね……確かにイケメンじゃん」
「う〜ん。わたしは、タイプ違うかな……」
聞こえるような聞こえないような声で言いたい事をいいながらも、三人は照れ臭そうに樹に会釈をしてきた。
「……人気者は違うな」
むーさんはぼそりと呟く。どこか羨ましげだ。
「あーいいなぁ。俺もああいうのにモテてみてぇ」
祥吾はちらりと隣の女性に視線を向けて、「お姉さんたち、可愛いですね」と声をかける。
「ばか。やめろ……」
たしなめるように樹は軽く祥吾に視線を送ると、女性たちに軽く会釈をした。
「大変失礼致しました」
そう言って頭を下げると、再び祥吾たちのテーブルに視線を戻し目を丸くする。
「相変わらず 食ってるなぁ」
「だって……祥吾がいるんだぞ? こうなるに決まってる」
テーブルに乗り切れないほどの料理を見て、翔琉は呆れ顔を浮かべた。
いつも大食いの祥吾は、料理を目の前にキラキラと目を輝かせる。
「へへ。うまそ~! さすが樹だなっ」
「いやいや。俺はまだここまで作れないけど、たくさん食べてくれるのは嬉しいよ」
笑いながら、樹は改めて三人を見回す。
一番奥で箸を動かしているのは、三河 祥吾。高校からの付き合いで裏表のない性格だが、勢いだけで行動するのは、昔から変わってない。
その隣、静かに皿の配置を整えているのは、中学時代からの付き合いになる田辺 翔琉。昔から冷静沈着。何事もロジックで動くタイプ。
対照的に、空いたグラスを振りながら「おかわり~」と言っているのが、むーさんこと村岡 拓也。彼も中学からの友人で、前向きなのはいいが、天然過ぎるからか、たまに意味不明な事を言う。現在、絶賛求職中だ。
「でもさー、樹の料理ってカロリーゼロって感じするよな!」
たくさんの料理をほおばりながら、祥吾は嬉しそうに言う。
「……いや、それはない」
「えっ? 美味いのに太らないって最高じゃん?」
「だから、それは祥吾が勝手にそう思ってるだけだって」
苦笑しながらも、樹は誉め言葉をまんざらでもなく受け止めた。
「そういえば、瞳は?」
一人足りなない事に気付いて、樹が尋ねる。
「誘ったけど仕事だって。忙しいらしい」
……仕事じゃ仕方ないな。と、納得の樹。
「そういやさ。今度のカラオケって瞳が予約してくれたんだっけ?」
祥吾が何気なく口にした一言に、翔琉が頷いた。
「らしいな。いつもの場所じゃないみたいだけど、初めてだし楽しみではあるかな」
「……え? なにそれ」
口に運んでいたスプーンを途中で止め、むーさんがぽかんとした顔で見回す。
「カラオケって……なに?」
一瞬、全員が固まる。
「え、むーさん、誘われてない?」
翔琉が――面白い!と言わんばかりに、ニヤリと笑う。
「オレ……知らない」
むーさんの目が、潤み始める。
「瞳から連絡来てねぇの?」
言われたむーさんはスマホを確認するが、お誘いのメッセージは届いていない。
「連絡来てないよ……!」
「落ち着け……むーさん」
翔琉がすぐ冷静な声で突っ込む。
「たぶん人数決める前だっただけだろ。大げさすぎる」
「なんで? 仲間はずれ?」
頭をガクッと下げ椅子に崩れそうになったむーさんに、周囲の客の視線が集まる。
――ピンコーン。
その時、むーさんのスマホにメッセージが……。
『カラオケ、行こうな』
見ると樹からのメッセージが届いていた。
「いま誘ったよ。むーさんもカラオケ一緒に行こう」
樹が苦笑しながらフォローすると、むーさんは一瞬で顔を明るくした。
「やった! オレも行く!」
「単純か……まぁ、そういうとこ、むーさんらしいけどな」
翔琉がため息混じりに呟く。
「そうだよな! この単純なところが、むーさんのいいところだよ」
頷きながら祥吾が言うと、その言葉に樹は笑いなが言う。
「祥吾……それ褒めてんの?」
「あったりまえじゃん……へへへ」
笑い声が重なってみんなで吹き出した。
そんな時、厨房から親しげな声が飛んできた。
「頼れる男の樹く~ん。こっちも頼めるかなぁ?」
先輩のコックが笑顔で手招きをしている。
「あ、はい。すぐ行きます」
軽く手を上げて合図を送ると、樹はみんなに向き直る。
「……いつも来てくれてありがとな」
「俺らもうまい料理いっぱい食えて、最高だぜ!はっはっは」
笑顔を見せる樹に、食べ物をモグモグしながら祥吾が豪快に笑う。
「じゃあ、カラオケでな」
「お仕事がんばって」
そのときの彼らは、ただ笑い合っていた。
楽しい時間、何気ない毎日……。
樹は、みんなが楽しそうに食事をしているのを見届けながら、静かに厨房へと戻っていった。