第18話 最後の待ち合わせ
午後二時。
駅前のロータリーは、土曜のにぎわいに包まれていた。家族連れの笑い声、改札を抜ける学生たち、どこかへ急ぐビジネスマン。
その喧騒の中で、樹はベンチに腰を下ろし、スマホの画面を見つめていた。
「もう……二十分か……」
むーさんとの待ち合わせは、駅前ロータリーにある小さなパン屋の前だった。
なのに、時間を過ぎても彼は姿を見せない。
三十分ほど前、「これから向かうね」とだけ短くメッセージが届いていた。
だが、それ以降に送ったメッセージは、どれも未読のままだった。
(寝坊……じゃないよな。今までそんなことなかったし)
何度か鳴らした電話は、コール音のあとに自動音声で切れる。留守電にもならない。
冷たい風が通り抜けていき、樹は思わず腕をさすった。秋も深まり冬に近づこうとしている今日はもう肌寒い。
(まさか……)
ふと脳裏をかすめたのは、あの「呪い」のことだった。
翔琉が死んだ理由。むーさんが、あれ以来ずっと不安を抱えていた原因。そして、今まさに調べようとしていた“桐山”との約束。
――まさか、本当に。
「……いや、考えすぎだ。きっとスマホの電源が切れてるとか、それだけだ」
そう自分に言い聞かせるように呟く。
だが、心臓の鼓動は早まっていた。鼓膜の奥に、自分の血の音が響いている。
こういう時の胸騒ぎは、当たることが多い――嫌な記憶が、そう告げていた。
もう一度スマホを見た。
画面に変化はない。
既読は、まだつかない。
風が吹き抜け、駅前のにぎわいが遠く感じられた。
樹はスマホを握り直し、立ち上がる。
「……もう、家に行くしかないか」
このまま、何もせずに待っているのは――無理だった。
むーさんの家まで、電車で二駅。たったの十五分だ。
(ただの寝坊か、スマホの電池切れなら、それでいい)
(でも、もし――そうじゃなかったら……)
このところ、むーさんの様子がおかしかった。
「気のせい」と笑っていたが、何かに怯えているような言動がたびたびあった。
翔琉が死んだあの日から。
呪いを調べはじめてから。
胸の奥に、不安がしつこく居座っている。
いつもなら「大丈夫」と打ち消せたはずのそれが、今日に限って、まったく拭えなかった。
樹はスマホを手に取り、ためらいながらも通話画面を開いた。
連絡先から「桐山」の名前をタップする。呼び出し音が数回鳴ったのち、すぐに応答があった。
「もしもし、桐山さんですか。恋塚です」
『ああ、どうした? もう駅前だろ?』
「それが……友人が来ないんです。時間になっても現れなくて、連絡もつかない。メッセージは未読のまま、電話も……なのでこれから友人の家に行こと思うので、申し訳ないですが今日のお約束は……」
そこまで告げると、明らかに電話の向こうの空気感が変わり、一拍沈黙が落ちた。
桐山の声色が、微かに変わった。
『最後に連絡があったのは?』
「三十分位前に『これから向かう』って。けど、そのあと返事がないままで」
『……住所、教えてくれるか? 一緒に行こう』
「え?」
『俺はね、普段あまり外に出ないんだけど……正直、嫌な感じがする。何かが起きてる気がする』
樹はすぐにむーさんの住所を伝えた。
『最寄り駅で落ち合おう』と桐山が言い、通話は切れた。
十数分後。
むーさんの最寄り駅の改札を出ると、壁際に立つ男の姿が目に入った。
黒縁のメガネをかけ、細身のジーンズにシンプルなTシャツ。年齢は三十前後だろうか。
(……あの人?)
スマホを確認しながら近づこうとしたそのとき、男がこちらを見て、口を開いた。
「君が……樹くん?」
「はい。桐山さんですか?」
桐山は無言で軽く頭を下げた。
写真で見たことがあるわけでもないのに、妙に落ち着いた雰囲気が彼の人物像にしっくりきた。
「わざわざありがとうございます」
樹はそう言ってお辞儀をした。
「いや。俺も気になったし」
「早速ですが、友人の家に向かおうと思います」
「そうだね」
「こっちです」
短く言って、樹は歩き出す。
桐山も相槌を打ちながらついてくる。
住宅街を抜け、静かな坂をのぼる。むーさんが暮らすアパートは、もうすぐそこだった。
道中、樹は何度もスマホを確認したが、未読の表示は変わらない。
指先が汗ばんでいることに、あとから気づいた。
アパートの前に着くと、樹は無意識に息を呑んだ。
まるで、空気が違っていた。
「ここです。……行きますね」
階段をのぼると、すぐにむーさんの部屋が見える。
見慣れた扉の前で立ち止まり、樹は呼吸を整えると、インターホンを押した。
……応答は、ない。
もう一度押す。やはり返事はない。
ノブに手をかけると――
「……鍵、開いてる」
桐山が低く呟いた。
その言葉に、樹の背筋が凍りついた。
* * *
午後一時三十分。
むーさんはソファから立ち上がり、スマホを操作していた。
──「これから向かう」──
送信を終えると、上着を羽織り、鍵を手に取る。
少し寝過ごしたけど、電車一本でぎりぎり間に合う。
玄関のドアに手をかけ、出ようとしたその瞬間――
背後で“空気が鳴った”。
音のない音が、耳の奥を震わせる。
そして、首元に何かが触れた。
冷たい。
細くて、ざらりとした感触。
それは、長い髪だった。まるで生き物のように、首に巻きついてくる。
「うわっ……!」
むーさんは咄嗟に振り払おうとしたが、力が抜け、身体ごと後ろへ引きずられる。
――ドサッ!
背中から廊下に倒れこみ、そのままズルズルと部屋の奥へと連れ戻される。
足元には、脱げかけたスニーカーが散らばっていた。
片方は中途半端に足に通ったまま、もう片方は玄関マットの上に転がっている。
――逃げようとした。
けれど、逃げ切れなかった。
床を爪で引っかいて抵抗しながらも、足が、背中が、冷たい何かに引き込まれていく。
目の端に、ベッドの下の闇が広がっていくのが見えた。
その闇の中に、**もやのような“影”**が立っていた。
人の形。女のように見える。
……あの夜と同じ“影”だ。
カラオケの後、あの時見た影と……。
「ん?……影?」
一瞬、むーさんの脳裏に、翔琉のメモの文字が浮かぶ。
──「影を重ねる」──
確か翔琉が残してくれたメモに書いてあった。
助かるための、何か。
(……影を、重ねる……)
むーさんは浮かんだその言葉に、わずかな希望を見出そうとした。
“助かるかもしれない”――そう思い、震える両手を、影に向かって広げた。
「……たぶん……これで……助かる……っ」
怖い。怖いけど、やらなきゃ。
意を決して、その煙のような影に、指先を差し出す。
――ヌチャリ。
次の瞬間、ぬめるような冷たい感触が、指にまとわりついた。
それは液体でも霧でもない。
粘膜のような、何か生きたものが、肌のすき間に這い込んでくるような感触だった。
「うっ……!」
影は指先から這い上がり、手首、肘、肩、首筋へと這い広がっていく。
服の上からではなく、服の内側に入り込み、皮膚を這う。
血管を伝うように、冷たい何かが身体の内側を這っていく。
息が詰まる。寒気が止まらない。
顔にまで影がのしかかる。
鼻腔に入り込み、口の中にも流れ込んできた。
むーさんは嘔吐感に襲われながら、それでも目を開けた――その先に、“目”があった。
赤黒く濁った瞳。
それはまっすぐにむーさんを見据えていた。
怒り、悲しみ、嫉妬、怨念……おぞましい感情が渦巻いている。
その目と視線が合った瞬間――
むーさんの心臓が、一瞬止まった。
「や、やっぱり……怖い」
身体が凍りつき、喉の奥が勝手に震え出す。
肺が拒絶し、呼吸が乱れ、汗が噴き出す。
「……っ、や、やだ、ムリだッ!! ムリだって!! やめてぇぇッ!!」
叫び声が喉を裂いた。
両腕を振り回し、影を必死で振り払う。
涙があふれ、鼻水と混ざり、顔がくしゃぐしゃに歪む。
むーさんが全身で影を振り払った、その瞬間――
影は、まるで驚いたように動きを止めた。
“拒絶された”という現実に、ほんの一瞬怯んだ。
伸ばしていた腕のような形が揺れ、頭を伏せるように影が小さくすぼまる。
――それは、泣いているように見えた。
だが、次の瞬間。
影の輪郭がぶるりと震えた。
波打つように闇が広がり、怒気が部屋中に満ちていく。
「……チガウ……チガウ……」
低く、かすれた声が呻くように漏れる。
それは悲しみとも怒りともつかぬ、壊れた感情の残響だった。
そして――
首に巻きついていた髪の束が、生き物のように一気に強く絞まり、むーさんの身体を宙へと持ち上げた。
「っが……あ……ッ!」
空気が入らない。喉が潰れる。
肺が焼けるように痛い。目の奥が熱い。
足がばたつき、壁を蹴る。けれど、影はびくともしない。
視界がにじみ、何もかもがスローモーションになっていく。
けれど――意識はまだ残っていた。
(だめだ……殺される……誰か……)
むーさんは震える手で、ポケットを探った。
指先にスマホの感触を見つける。必死で掴み出す。
影に吊られたまま、スマホを片手で持ち、ロックを解除しようとする。
画面がにじむ。指が震えてうまく動かない。
顔の横に浮かぶスマホの光だけが、最後の希望だった。
メッセージアプリを開く。
樹とのトーク画面。
打ち込む。
『たすけ』
て……を押そうとした瞬間、首に巻かれた髪がさらに強く締まり、骨がミシリと軋んだ。
「ッ……が……ッ……!!」
喉が潰れる音が、自分の内側で聞こえた。
指が止まる。
スマホが、手から滑り落ちた。
――ドサッ。
次の瞬間、影がむーさんの身体をベッドの上に叩きつけた。
衝撃でマットレスが軋む音だけが、空間に跳ねた。
むーさんの身体は痙攣し、一度大きく跳ねぐったりと沈んだ。
――グギッ!
その音だけで、何かがもう戻らない場所へいったとわかった。
首は深く折れ、口はわずかに開き、目は半ば虚ろに開かれたまま、動かなくなった。
喉には髪の束の痕が、深く食い込んでいた。
部屋の中には、もう何の音もしない。
……ただ、床に落ちたスマホの画面が、微かに光っていた。
その文字列――
──『たすけ…』
そのまま、画面が自動で暗転する。
未送信のメッセージだけを残して……。




