プロローグ~満月~
「ねぇ、知ってる?今日みたいな満月の夜にさ……それで色んな不思議な事が起きたり、その後行方不明になったとか……」
「え?なにそれぇ……怖いんだけど……」
大学生くらいの男女数人が、歩きながら会話を交わし彼女の隣を通り過ぎていく。
ふとその言葉に引かれるように、彼女は足を止めて空を仰いだ。
「こんな時間になっちゃったけど、本当だ。お月様まん丸だぁ」
明るい光を放つ満月が、漆黒の空に浮かぶ。
めっきり暗くなるのが早くなったこの季節に彼女はそう呟いたが、その表情は明るい笑顔を伴っている。
吐息は白く、首にはマフラーと温かいボアのついた上着。ポニーテールでまとめた髪が背負ったランドセルに少しかかり、まだ幼い彼女を元気で明るい雰囲気に見せていた。
今日も学校帰りに、習っているピアノ教室のレッスンが終わったところ。
物心ついた頃からおもちゃのピアノで遊んでいた彼女は、五歳の頃からピアノ教室に通い始めてそろそろ四年が経とうとしている。
来月に開催されるコンクールの小学生の部に出る事が決まった時は緊張と喜びが入り混じっていたが、お父さんとお母さんが笑顔で喜んでくれたのを見たときは、本当に嬉しくて頑張ろうと思った。
右手に持っている彼女の身体には少し大きいと感じるトートバッグには、可愛いうさぎのマスコット人形と、お母さんが作ってくれた川瀬 美咲という名前のシールが可愛く貼られていて……。
そのバッグの中には、コンクールで弾く曲の楽譜が数枚並んでいて、それを見た彼女はさっきまで弾いていたであろうメロディーを手袋をした指で奏でながら、交差点の信号が青になるのを待っていた。
駅前メイン通りは、この時間になると様々な人たちで賑わっている。
学校帰りの学生・仕事が終わって帰路に向かっている大人達。
これから夕飯を食べに行こうかと話ながら歩く数人のグループ。
車道には、ヘッドライトが点灯された行き交うバスや自家用車、まだ仕事中の社用車……それぞれの行先に向かって走行中している。
彼女もこの信号を渡った先でお母さんが車で迎えに来てくれている。
ようやく個人でも携帯電話が持てるようになり、お迎え専用でお父さんが用意してくれた美咲用の一台。かわいいうさぎのストラップを付けた携帯に、送られているお母さんからのメッセージ。
『いつもの所で待ってるからね』
それを見た美咲は『お母さんのお迎え』という安心できるワードを確認してホっとする。と、同時に彼女の身体は正直に反応した。
グルグル……。
(お腹鳴っちゃった……今日の夕飯はなんだろう?)
少し長く感じる信号待ちの間、美咲はお母さんの作ってくれる温かいごはんを思い浮かべた。肉じゃがかな、それともハンバーグ……。そんなことを考えているうちに、気持ちまでふんわりとほどけていく。
同じように横断歩道の信号が青に変わるのを待つ人たちも、きっとお腹すいてるんだろうなぁと想像すると、彼女の表情は自然とほころんでいた。
――ピコンピコン……。
ようやくメイン道路の歩行者信号が点滅する頃には、横断歩道の付近は大勢の人が寒さをこらえながら足を止めてたが、そろそろこちら側も渡れると思ったのかみんなが一斉に歩く準備を始める。
と……。
――ドン!
(……え?)
彼女の背中を衝撃が走った。
何が起こったのか理解する間もない。
それでも――ほんの一瞬、彼女はバランスを崩しながら思わず後ろを振り返る。目を見開いたまま立ちすくむ見知らぬ誰か。だがその人物は次の瞬間、後ずらしながらかけ出し、暗がりへと消えて行った。
(……だ、れ?)
直後、小さな身体は勢いよく道路に投げ出され、彼女の目飛び込んできたのは、眩しいヘッドライトの光……。
――キキキィ~!!ドォーン!
鈍く重い金属音が辺りに響き渡る。
その衝撃で、持っていたバッグがはじけ、まるで手品のハットから紙吹雪が溢れ出すように、数枚の楽譜がヒラヒラと宙を舞う。
――ボンッ!
彼女の身体は無抵抗なまま無機質な物体に叩きつけられ、そのまま冷たいコンクリートに投げ出させれる。
ドサリと鈍い音を立て、横たわる彼女の近くに転がる潰されたランドセルが、全ての衝撃を物語っていた。
「きゃあ!」
「おい!大丈夫か?」
「だ、誰か!救急車!」
「あ、あの車が跳ねたんだっ!」
近くにいた目撃者の男性が、横断歩道を過ぎた辺りで止まっている車を指さして叫び、その車は急ブレーキをかけ停止している。
周りからいろんな声が聞こえてくるが、それが自分に向けて発せられた言葉だと理解するには、彼女は幼すぎた。
(なんか痛いなぁ。どうしちゃったんだろう?身体が動かない?)
指先や両足を動かそうとしても力が入らない。自分の意志で身体を動かす事も出来なくなって、コンクリートと密着した頬の隙間から赤黒い液体がドクドクと流れているのが見える。
同時に意識が遠くなっていく中で、なんとか最後の力を振り絞り横断歩道の向かいに目線を動かすと、一台の車から不安そうな表情の人が慌てて降りてくるのが見えた。
(おかあ……さん?)
彼女を迎えに来ていたお母さんが、駆け寄ってくる。
「美咲!美咲!大丈夫?しっかりして!どうして……」
半ば上ずった声のお母さんの目からは涙が絶え間なくあふれて、彼女の頬にポタポタと落ちてきた。
(どうしたの?なんでそん……な悲しそうな顔をして……いるの?)
遠のく意識の中で微かに見えたお母さんは笑顔ではなく、泣き叫びながら彼女の身体を揺さぶる姿だった。
「救急車はまだ? はやくっ!はやく来てぇ!」
彼女を抱き抱えながら、絶叫に近い声で叫ぶお母さんの声は、もう耳から入ってくる音でしかなくなっている。
(なんか、眠くなってきた……かも)
「だめよ!美咲。目を開けてっ!お願いっ」
おかあさんの泣き叫ぶ声、駆け寄る人々の足音、近づいてくる救急車のサイレンの音――全てが別世界のように遠ざかっていき、彼女の意識はゆっくりと闇に包まれていった。
その光景を少し離れた場所からそっと見つめている1つの影――。
「お、俺の……せい?」
その言葉を口にした瞬間、その影は恐る恐る後ろに下がり、やがて足早にその場を去っていく。
そんなすべての出来事を見下ろす、空に輝く赤黒い満月の光が、美咲の魂を吸い上げるかのように、横たわるその身体を冷酷に照らしていた――。
満月の夜
これからお母さんの夕飯を楽しみに帰宅途中の美咲には
もうなにも食べる事が出来なくなってしまいました
まだ幼い女の子の最期が悲しいです