第一章 9 リズカード・オーウェン
その晩、リズカードは破裂しそうなほどの頭痛に苛まれた。頭蓋骨の中、巨大な芋虫がうごめくような感覚に、声を漏らしそうになるのを必死で堪える。隣の寝台にいるエレカの眠りを妨げないように。
この痛みは今日一日だけで、現在の世界について多くを知ったことの副作用だった。こうなるのも久々のことだ。賢迅と呼ばれるほどの迅速な理解力の代償は、こうして強烈な痛みとなって夜中にやってくる。
これを初めて経験したのは十二歳、領土間の戦争に巻き込まれた時だった。当時は大義などない、悪徳領主と悪徳領主による力比べ、戦争のための戦争が日常的に行われていた。
身長の高かったリズカードは年齢を勘違いされて戦場に連れて行かれた。
こましゃくれた子どもだったリズカードは、こんな意味のない戦いに巻き込まれて死ぬのはゴメンだと思って戦線を逃げ出したところを、敵方から威嚇目的で飛んできた大空風波に運悪くぶつかった。魔法の兵器利用も平気で行われた時代だった。
生き延びたのは奇跡だと言われた。頭部は半分ほど破損し、壊れた脳が露出していたらしい。しかし、息さえあれば療養魔法でどうにかなる。リズカードは一年ほどかけて再生した。
覚醒したリズカードは──まず、最初に理解した。何を? わからない。とにかく「理解した」という感覚だけが、目覚めたばかりの意識に押し寄せてきた。恐らく、挫傷した脳が再生した後、知識や経験をもう一度詰め直そうとする行程だったのだろう。新しい家に元々住んでいた家の家財を運び込むようなものだ。
その晩、激しい頭痛に襲われた。泣き叫び大暴れしたせいで、身体を縛られて医者に連れて行かれたが、翌朝にはけろりと治った。
だが、次の日も再び「理解した」という感覚がやってきた。もう、理解することがなくなっても、自分が自分だと根拠なく思えるようになっても、「理解した」と頭は思い続ける。無を理解し続けるのは、リズカードにとってかなり不快だった。その不快感を収めるには、実際に「わからないこと」に出会って「理解」をするしかない。リズカードは地元の教会で学ぶことを始めた。これまでぱっとしなかった少年が、突然驚異的な理解力で文字を覚え、そこで学べる全ての神学を吸収してしまったので、神父たちはたいそう驚いた。
『煉獄から戻って以来、全く考えが止まらないんだ。このままでは悪魔に精神を乗っ取られ、おかしくなるかも知れない』
ある日、リズカードがそう告白すると、神父は神妙な面持ちで言った。
『それは神の賜った贈り物に違いない。今、クインティトに必要なのは全てを見通す慧眼を持つ者だ。大学都市へ向かい、そこで悪魔も入り込む隙もないほど完璧な知識を得るのだ』
正味、神はそれほど信じていなかったが、リズカードも同じことを考えていた。この頭脳は領主どもの下らない我欲のためではなく、クインティトに生きる人々のためにあるべきだ。
そうしてリズカードは支援を受け、齢一五にして大学都市へ赴き、哲学、法学、宗教学、魔法学、錬金学、数学、力学、兵学を二年で会得してしまった。その理解の速さに人々は驚き、この時既に彼は『賢迅』と称されていた。
その頃になると理解欲求はある程度落ち着いており、次は得た知識を生かすフェーズに入っていた。帰郷した彼はその知能を買われ、クインティトの自治評議会に最年少で名を連ねた上で、後に「賢迅伝説」としてまとめられる活躍をしていくことになる──。
目を覚ました時、懐かしい匂いを感じた。
リズカードは目を開く。頭痛はもう感じない。昨日仕入れた大量の知識は無事、頭の中に搭載できたようだった。
身を起こしながら匂いの出所を求めて、部屋の中を見渡す。柔らかな寝床や身体を洗うための場所があったりと、中世の常識に照らせば考えられないほど上質な居室だ。奮発したとは言っていたが、これだけの部屋を一七歳の少女が確保できてしまうのだから、中世に比べて圧倒的に豊かだった。その進歩は素直に喜んで良い。
そんなことを思いながら、やがてリズカードは匂いの正体を発見した。
「……ヴィスか」
エレカの寝床はきらきらと光る粒子に彩られ、眠る彼女の肌もほのかに光を放っていた。
今の時代の空気は魔法も満足に出せないほど、ヴィスが極端に少なくなっている。なのに、この少女にこれだけのヴィス粒子が付着するのは何故なのか。
その理由はともかく──この出会いは何事にも代えがたい。
リズカードはシーツについたヴィス粒子を指ですくう。その途端、眠っていたエレカがもぞもぞと動いて、顔をあげた。
「あ、だ、ダメだって、触ったら……き、汚いから……」
明らかにリズカードに呼びかけたのではない、寝ぼけた声にリズカードの口元が緩む。
「俺は汚いとは思わないがな」
「えっ……、あ、リズカード、さん……ひっ、や、やだ! もうっ、こんな……」
エレカはばたばたと暴れて、身体についたヴィス粒子を叩いて散らそうとする。リズカードはとっさにその腕を掴んだ。
「ひゃ!」
「できれば落とさないで欲しい。今の時代では貴重な資源なんだ」
「そ、そんなこといったって……」
「ああ、君が綺麗好きなのは知っているが、ひとつ頼み事がある」
リズカードはそう告げると枕元に置いた麻袋を取って、中に入っているヴィス・スティックを見せた。
「こ、これは……」
「ヴィス・スティックといって、中には俺が全盛期の頃と同じパワーで魔法を使えるだけのヴィス結晶が入っている」
「ヴィス結晶って……リズカードさんのお腹に埋まってるのと同じ……?」
「ああ。結晶化したヴィスは粒子とは比べものにならないほどの魔力を宿している。だから、ほんの少しの量でも充実した魔法になるんだ。このスティックは万が一、ヴィスが枯れた時のために用意したんだが……残り三本しかない」
当時、ヴィスはいくらでもあったから、誰も枯渇するなんて予想していなかった。ヴィス・スティックの準備を提案した時だって冗談だと思われたくらいだ。
その話を聞いても、エレカはピンと来ないような表情をする。
「非常用の電池、って感じですか……それで頼みっていうのは?」
「君の肌についたヴィス粒子も、同じように集めておいてくれないだろうか」
「いっ!」
ばっ、とエレカは自分の身体を隠すように、ブランケットを抱き寄せた。
明らかな拒絶を示す反応にリズカードは慌てて言う。
「変なことを言ってすまない、ただの提案だ。嫌ならこの話は忘れてくれていい」
「あ、いい、嫌って、わけじゃなくて……これが魔法の源で、リズカードさんにとって大事なものっていうのは、わかってるんですけど……その……私にとって長い間、垢と同じようなものだったから、恥ずかしくて……」
ああ、とリズカードは声を漏らす。彼女は正体不明の粒子にだいぶ煩わされてきたらしい。
「そうか……しかし、俺にとって重要だとわかってくれているだけでも、ありがたい」
「いえ、そんな……。あの、お腹に入ってる結晶を使うわけにはいかないんです、よね」
「これは俺の生命維持しかしないようロックされているから、他の魔法には使えない。解除できるのはネナだけだし、すれば俺の肉体はこれまでの時間を取り戻して死ぬだろうな」
「そ、そうなんですね……その、ごめんなさい」
「謝る必要はない」と伝えたが、エレカから返事はない。少し気まずい沈黙が降りた。
やがて、エレカはおずおずと口を開く。
「あ、あの……シャワー浴びてきてもいいですか。起きた後にも浴びないと落ち着かなくて」
「ああ」
エレカは寝床から出ると、そさくさとシャワーの方へと向かった。
微かに聞こえてくる水音を耳にしながら、リズカードは指先についたヴィスを使い、シーツに残った粒子を浮かび上がらせ、ぱっと小さな火花に変えた。
「……人の機微というものは難しいな」
かつて、ネナにも頭でっかちと言われたことを思い出す。エレカが愛想を尽かさないことを願うばかりだった。




