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第一章 7 エレカ・ヤヒメ

 熱いシャワーが頭から降りかかり、身体の輪郭を温めていく。積もった汚れの流れ去る感触に、連れ合いになった人が賢迅リズカードだったという緊張も解れ、エレカはようやく人心地ついたような気がした。

 それから、バスタイムルーチンをこなそうとして、いつものケア用品がないことに気がつく。そうだ、ここはもう慣れ親しんだあの家じゃない。エレカのものはほとんど取り上げられて、なんとか持ち出せたのは着替えとスマートデバイスだけ。備え付けの石鹸で身体を洗いながら、侘しさにエレカの気持ちは沈む。


 この先、どうしよう。何もなくなったエクソスの故郷に帰るのは論外として、こうなれば今いるストラトのどこかに仕事と家を見つけなくてはならない。ただ、未成年のエレカにまっとうな働き口があるかどうか。リズカードの存在は心強くあるものの、まだ未来の環境に馴染めていない分、エレカより立場は弱いかも知れない。

 きっと、数多の行くあてのないミクシアン──通称『彷徨えるミクシアン』たちと同じように〈ミクロア〉と呼ばれるストラト最大の繁華街に出向くしかないのだろう。ミクロアは絢爛さと貪婪さを併せ持つ最も開放的な地域で、そこなら誰も人の出自なんか気にしない。一番良いのは、そこで住居つきのいい職場にうまく転がり込むこと……。


 そんな物思いに耽りながら浴室から出ると、リズカードはベッドの端に座り、テレビでニュースチャンネルを眺めていた。

 シャワーを浴びて千年分の汚れを落とした彼は、まさに精悍な賢者の顔つきをしていて、うっかり見つめるていると呼吸を忘れてしまうくらい澄んだ顔立ちをしている。リズカードを題材にした創作物はたいてい秀麗なキャラクターデザインになるが、どの「リズカード」たちよりもリズカードらしいとエレカは感じた。まあ、本人だから当然といえば当然なのだが。

 リズカードはエレカが戻ってきたことに気がつくと、ほっとしたように言った。


「やっと戻ったか、エレカ。君がいないと、このニュースが何を言っているのか、全くわからないんだ」

「私も全部わかるわけじゃないんですが……」


 身の回りのことならともかく、国際情勢は複雑すぎてハードルが高い。

 すると、リズカードはエレカに身体を向けて、改まった様子で言った。


「では、君の知っていることを話してくれ。例えば、どうして俺のことを知っている?」

「それは……リズカード・オーウェンはクインティトの英雄だからですよ」


 エレカは言いながら、隣のベッドの端、リズカードと向かい合うように座った。


「『賢迅伝説』という有名な説話集……みたいなのがあって、賢迅リズカードが数々の悪徳領主と知恵と力でこらしめたり、大きなプロジェクトに挑んだり、帝国の侵略戦争から司令官としてクインティトを守り、人々に幸福をもたらしたというお話が教科書にも載っています」

「ふむ……まあ、確かにそんなようなことをやったはやったが、大した持ち上げぶりだな。ちなみに、その『教科書』とは何だ」

「えっと、平たく言えば全市民が必ず目にする本、でしょうか。賢迅リズカード・オーウェンの名は誰もが知っているということです」

「なるほど。この腹に入ったヴィス結晶のこともそこに書いてあるのか」


 リズカードは自分のお腹を撫でながら訊く。


「はい。腹部にヴィス結晶を埋め込み、隣国の将軍の船団もろとも相打ち……というクライマックスになってます」

「ははは。それは面白い」


 現に生きている本人が笑い飛ばすのだから、あの有名な散り際は創作なのだろう。

 それでも実際、リズカードはあの時代から去ったのだ。エレカはその理由が気になった。


「あの、本当のところはどうだったんですか?」 

「実際、か」


 リズカードは遠い過去を思うように目を細めた。


「『賢迅伝説』がどう語っているのか知らないが、まず俺が歴史から姿を消したのに、悪徳領主も侵略戦争もあまり関係ない。もっと、クインティトに住む全員の生命に関わるような、戦争よりも深刻な事件があったんだ」

「戦争よりも深刻な……?」


 ピンと来ないエレカの反応を見て、リズカードは考えるように指を顎にあてがった。


「……この時代には膾炙していないようだな。だとすれば、その『賢迅伝説』は真実を知る者が事件の顛末を隠蔽するために書いたものかも知れない」

「えっ……い、隠蔽?」

「君のことを信頼していないわけじゃないが、ことがことだ。今話すのは控えておく」

「そ、そうですか」


 よくわからないけど話はお預けらしい。エレカは肩透かしを食らったような気分になる。


「ただ、君のことを巻き込んだわけだから、今の俺の状況は話しておいた方が良いだろう」


 そう言って、リズカードは居住まいを正した。


「俺はとある理由で千年前にヴィス結晶を宿し、山の地中深くで千年間の眠りに就いた……んだが、正確に千年眠っていたわけではない。今のヴィス結晶の大きさから逆算する限り、二百年ほど寝過ごしてる」

「に、二百年寝過ごし?」

「計算違いで、だ。笑えるだろう、実際は千二百年も眠っていたんだ」


 冗談めかして言われたが、エレカはぶんぶんと首を振った。

 衝撃的なことが多すぎて失念していたが、確かにリズカードの活躍した世代は版歴八百年代の末ごろだった。中世という区分は変わらないが、その二百年の違いはあまりにも大きい。

 エレカの反応に、リズカードも真顔になって神妙にうなずいた。


「そう、笑えない。俺と同じように眠りに就いた仲間が十人ほどいるんだが、そのうちのひとりと約束したんだ。ちょうど千年後にルイモンド島で会おうとな」


 十人、というワードに反応して、エレカの背筋がぴんと伸びた。


「その十人って、もしかして『十賢晶(じゅっけんしょう)』ですか」

「十賢晶……なんだそれは。それも『賢迅伝説』に?」

「い、いえ、それはまた別の創作ですが……」


 リズカード伝説は擦られすぎて、現代では史実をどれだけ参照にして、自分だけの最強のリズカード伝説を描くか、というフェーズに入っている。その中でも人気なのが「十賢晶」──要するに、賢迅リズカードと他九人の賢者たちによる精鋭ユニットという括りだった。

 リズカードが興味を示したので、エレカは検索をかけてその十人の名前を読み上げた。ひとりひとりと実際に知り合いだったようで懐かしむようにうなずいていたが、彼が最も反応したのはネナ・ルコンという名前だった。


「ネナ! そう、ネナと約束したんだ。ネナは魔法作りの専門家で、この千年以上持続する魔法を作ったのも彼女だ。他の面々は、どうせ復活すれば嫌でも顔を合わすだろうと高をくくって話題にもしなかったが、ネナとだけは明確に約束を交わしたんだ」

「でも、それで、二百年寝過ごしたってことは……」

「ああ、約束に二百年遅刻してる。だから一刻も早く約束の場所に向かわなければならない」


 笑えないのに笑うしかない理由がよくわかった気がした。

 ネナ自身もリズカードと同じような処置をして千年の眠りについたのであれば、彼と同じように寿命については心配ないのだろう。ただ、現われるかどうかわからない相手を、二百年という人智を超えた時間を待ち続けることに、果たして人は耐えられるのだろうか。

 現実的に考えて、その約束が果たされることはないのでは──とエレカは思う。

 もちろん、そんなことは彼自身もわかっているはずだ。それでも行かないわけにはいかないのだろう。そのほかに彼女に出会えるあてがないのだから。


「だから……ルイモンド島を目指して、トロポスのゲートにいたんですね」


 エレカが言うと、リズカードは感心したように腕を組んだ。


「その通り、察しがいいな。タクシーにゲートの前で降ろされたんだ」


 ええ? その言葉にエレカは首を傾げる。


「フルシークレットのオルガンなら、無条件で通ることはできたんじゃ……」


 すると、リズカードは思い切り苦い顔をして、じとっとした目つきでエレカを見た。


「……なあ、ずーっと気になっていたのだが、いい加減に教えてくれ。オルガンとは、ミクシアンとは何だ? フルシークレットの何が偉いんだ? それがわからないことには俺はこの街を満足に歩くこともできん」


 ああ、確かにそうだ。あまりにもエレカにとって、普通のことなので説明を忘れていた。


「え、えっと、どこから話したら良いか──」


 オルガンとミクシアン、当たり前にある割に煩雑な歴史のあるこの区分を、何も知らないリズカードにどう説明するべきか、エレカが頭を悩ませた時だった。

 ポンパーン、と部屋のチャイムが鳴った。

 エレカとリズカードは二人揃ってドアの方に目を向ける。


「何の音だ」

「えっと、来客です」

「……この世界の誰が、俺たちに用があるっていうんだ」

「あ、それは、その……」


 リズカードの深く押し殺した声音にエレカはたじろいでしまう。人が正しい意味で「警戒」するのを初めて見た気がする。この人は確かに、フィクションで描かれてたきたような命のやり取りを、実際に経験してきたのだろうと肌で感じた。

 ポンパーン、と催促するように再びチャイムが鳴る。今度は同時に、エレカのスマートデバイスがバイブ音で通知を知らせたものだから、またリズカードを凍り付かせた。


「どうなっている……まさか、誰か俺の目覚めたことを知って……?」

「だ、大丈夫ですから落ち着いて、そこに座っててください!」


 エレカは大きな声で言いながら、玄関の方へと走った。三度目のチャイムは鳴らすまいと、モニタで外の様子も確認することなく、ドアを開ける。

 そこにいたのは、一台のデリバリーボットだった。


「お待たせしました。マザーラ・クッキング&デリバリーサービスでございます。注文頂いたお料理をお持ちしました」

「あっ、ありがとうございます。どうぞっ」


 エレカは扉を開けっぱなしにして、デリバリーボットを招き入れる。ボットはするすると室内に入り込むと、ぽかんとしているリズカードの目の前で停止し、その顔面をぱかっと開いた。

 その中身を見て、リズカードは愕然と呟く。


「なんだこれ……りょ、料理か?」

「はい。その、お腹空きませんか」


 おずおずとエレカは訊ねる。思えば、今日は何も食べていなかったので、リズカードがシャワーを浴びてる間にこっそり注文していたのだ。懐事情が悲惨なので最低ランクのオードブルだが、それでもエレカたちにとってはご馳走に見える。

 リズカードは目を燦然と光らせた。


「ああ! わからないことだらけで忘れていたが、腹ぺこだったんだ! 食べていいのか!」

「はい、食べましょう」

「恵みに感謝する!」


 リズカードは両手を合わせると、テーブル状に変形したボットの上、温かな煙を上げるオードブルに食らいついた。その様子に、エレカは高校で同級生だった男子たちを思い出す。いつの世でも男の人ってこうなんだな、と思いながら、エレカもチキンを口に運ぶ。緊張の連続でへとへとだった身体にその脂身の甘さが沁みた。

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