第一章 5 エレカ・ヤヒメ
オルガンの男がエレカのような何の特徴もない小娘を、見返りを期待せず助けるなんてありえない。エレカは、若い頃にオルガンの情婦としてクインティトを渡り歩いてき養母から、一時の親切から手込めにされてしまった女の子たちの話をいくつも聞かされてきた。
『オルガンの男連中が貧乏な少女を助ける理由はたったひとつ、カラダだ』
『エレカ、お前がオルガンに親切されたなら、美味いとこだけ受け取ってすぐ逃げ出しな』
『ま、あんたはお人好しだから、恩に対して後ろ髪を引かれるかも知れない』
『そんな時は……徹底的に「ざまあみろ」と思わなくちゃいけないよ』
ざまあみろ! ざまぁみろ! ざまーみろ!
エレカは頑張って頭の中で詠唱しながら、ストラトのおしゃれな街並みを走った。養母のアドバイスは効果てきめんで、人生最大のピンチを救ってくれた男に対する感謝も、ほどなく出し抜いてやった快楽へと変わっていった。
これでいいんだ。誰が、この身体をくれてやるか……。
そう息を巻いていたものの、数分も逃げたあたりでエレカの足は鈍り始める。ただ、それは疲労からではなく彼女の体質と気質が理由だった。
「ああ、もう……」
首筋や手首など露出したエレカの肌に、うっすらときらきらしたものが析出してきた。
普通の人は汗をかくところを、エレカの場合はどうしてか謎の粉が出てしまうのだ。虫の鱗粉のようなそれのせいで、小さい頃は「ガちゃん」と渾名されいじめられたこともある。だからこの体質がたまらなく嫌だった。
通行人の視線も痛く感じて、エレカは人気のないビルの間に駆け込んだ。すぐに肌をはたいて、憎らしい粉を落としていく。汚い、嫌だ、はやくどっかいけ……。
空に散ったきめ細かい粒は太陽の光を乱反射して煌々と輝く。
「──っ」
その光景を見て、エレカは思わず手を止めた。
不覚にも、その様子が綺麗に思えてしまったのだ。
あんなに嫌いだったもので安らぎを覚えてしまうなんて。それだけ、自分はさっきの出来事に強いショックを感じていたのだ。その事実に気がついたエレカは粉が散るのも構わず、両手で顔を覆ってうずくまってしまった。
「……うぅ」
情けない。惨めだ。こんなのって、ない。
「ううぅぅ……帰りたい、もう、帰りたいよぉ……ばあちゃん……」
エレカは泣いた。めそめそと、子供のように。
しかし、子供の頃と違うのはいくら泣こうが帰る場所なんてないことだった。養母が死に、わずかな遺産も大半が税金として徴収され、家は未成年で相続権がないとかで差し押さえられてしまった。学費も払えないから高校は退学を余儀なくされ、最後の頼みにしていた実父ダルタインに会おうとしたら文字通りの門前払い。
ここに至ってエレカはようやく、ひとりぼっちが、孤独と、初めてまともに直面したのだ。
──どうせなら、あのオルガンの男に手込めにされてしまえば良かった。
そんな自暴自棄な後悔すら意識に上ったその時、その望みに応えるように声がかかった。
「何故、泣いている」
エレカはあまり驚かなかった。
顔を上げると、果たして、先ほどのオルガンの男が傍らに立っていた。
どれだけ私が欲しいんだ、とエレカは投げやりに考える。
でも、いいや。そんなに私が欲しいなら──くれてやろう。エレカは涙を拭った。
「な、何でもないです。それより、しつこく追いかけてきて何が望みですか。ま、まあ、今の私にはお金も家もなくて、差し出せるのは……ひとつしかないですが」
気丈に言ったつもりだったが、頬の肉がぴくぴくと痙攣してしまう。怖い。嫌だ。でも、仕方がない。無償で救ってもらえるなんて、ありえないのだ。
悲壮な覚悟を決めたエレカに対して、男はほとんど即座に答えた。
「悪いが不要だ」
「……は?」
予想だにしなかった返答にエレカの思考は停止する。
「じゃあ、なんで私を助けたんですか? なんで追いかけてきたんですか?」
「どちらの問いにも、ひとつの回答で事足りる。君が困っていたからだ」
「……それでは追いかけてきた理由にはならないです」
「隠した涙に誓ってか?」
エレカの息がぐっと詰まる。なんて古くさくて大仰な言い回しだ。ただ、それだけに下心を感じなかった。きっと男は純粋な気持ちでそう言っている。
「そんなの信じられません」
それでもなお、エレカは突っぱねた。信じたくない、というのが本音だった。彼には下品な男であってほしい。そうでなければ「ざまあみろ」と罵倒した自分が恥ずかしくなるから。
「そうか。人の好意が信じられなくなるほど、君は追い詰められているのだな」
「えっ……」
しかし、男がそんなことを口にするので、エレカは思わず素の声を漏らしてしまう。
男はエレカと同じ視線の高さにしゃがみこんで言う。
「好意が信じられないのであれば、俺が君を助けた実質的な理由を話そう。どうせ信じないならそれでいい。ただ、せめて耳には入れてくれ。実は俺も君と同じく窮地にある。俺は千年以上の過去からやってきた。それだけの期間をとある山の中、地中深くに眠っていたんだ」
「え、ええ?」
千年眠っていた? 急になんのことか思ったら、おとぎ話のようなことを話し始めたので、エレカは混乱する。
そんな話、嘘に決まってる、と理性はすぐに警鐘を鳴らしたが──でも、なんとなく納得できてしまうような雰囲気はあった。古くさい断定調の喋り方、穴から這い出てきたような風体、そして、もしその話が本当なら、彼がフルシークレットのオルガンだという、とんでもない事実にもうなずけてしまうのだ──。
「俺は千年という年月を甘く見積もっていた。そのお陰で右も左も東西南北もわからない。灰色の道に無数の建築物、光、板、指、箱、オルガンやらミクシアンやら、ストラトやらトロポスやら、意味不明なことばかりだ。ゆえに俺はこの世界の案内人を必要としている。君を助けたのはそれが理由だと言ったら、どうだろうか?」
「あ、あなたは中世から来たってことですか……」
呑み込みきれずエレカがワンテンポ遅れた質問をすると、男はきゅっと眉間に皺を寄せた。
「それも気になっていたのだが、チューセイとは何だ?」
「え……中世っていうのは……」
本当にわからないらしい。エレカは頭を必死に動かして、説明を試みる。
「その、今から千年前くらいって、版歴──えっと、今の世界標準になっている暦のことですが、版歴一〇〇〇年前後ですよね。そのくらいの時代を中世って呼ぶんです」
「おお!」
男は目を見開いて、大きな声を出した。
「そうか! 『中世』とは俺たちの生きていた時代のことなのか!」
「は、はい……」
エレカは若干引きながらうなずく。中世は小説や漫画、映画の題材として永遠のド定番だから、その程度のことを知らない方が珍しい。だから、その真に迫ったリアクションは、千年前から来たという言葉を裏付けているようにも見える。
もちろん、ただの中世にハマりすぎて、自分が中世から来たと思い込むようになっただけの人かも知れない。騎士物語を読みすぎて、自分を騎士だと思い込んでしまった男が主役の喜劇小説が、数百年以上も昔に書かれている世界なのだ。
どうしよう──エレカの心は揺れ動いていた。
この人を信じるか、信じないか。
信じるのであれば、さしあたり、ひとりぼっちは回避できるかも知れない。でも、もし彼が別の本性を隠していたら、エレカの人生は雑巾のように絞られ尽くして終わってしまう。地獄へと通じる穴はこの街のそこかしこに開いているのだ。
そこまで考えた後、いや──と、エレカは自分の感情に向き合った。
私はまだ、救世主を期待してしまっている。
自分を助け、追ってきたこの男を、信じてみてもいいんじゃないかと思い始めている。なにせエレカは、自分がダルタイン=ライゴーという、クインティトの経済システムを司る重鎮の娘だと信じてここまでやってきたのだ。目の前の男が中世出身のタイムトラベラーだと信じて、何がいけないのだろう。
でも──と、感情はぐらぐらとあちこちに傾き、一秒前とは全く違う心境になってしまう。信じるにせよ、逃げるにせよ、いい加減に決心をつけたかった。
──そうだ。
ふと、エレカは思いついた。千年前という時代が何故、現代でも人気を博しているのか──その理由を考えれば、男が中世から来た証拠を見ることができる。
「……あなたには助けてもらった恩があります。この世界の常識程度なら教えてもいい」
エレカが恐る恐る切り出すと、男の顔がぱっと期待に輝く。
「ほ、本当か!」
「ただ、まだ信じられません。街中で声をかけるオルガンの人はだいたい詐欺か人さらいです。なので、あなたが本当に中世出身というのなら……私に魔法を見せて下さい」
口にしてからなんて間抜けなことを言っているのかと、自分で呆れた。信じたいと思っているのに、無理難題をふっかけている。
確かに、中世の遺構を分析した結果、魔法らしきものがあったのではないか、と唱える学説はいくつもある。現在も、〈ヴィス〉という謎に包まれた物質が大気中、ほんの僅かに含まれていることは科学的な常識であり、それが中世の資料に頻出する魔法の源と結びつけらることから、千年前はヴィスの量が豊富で魔法も実在したのではないか、と推測されている。他にいくつも、魔法の存在を示唆する文献や事実があった。
けれども、重要なことは「魔法は現存しない」という確固たる事実だ。このことは科学的に証明され、教科書にだって載っている。
それを理解した上で、魔法を見せろと突きつける。中世から来た男はどう対応するのか。エレカは固唾を呑んで男を見据えた。
「……魔法、か」
男の反応はなんとも言いがたいものだった。まるで、自由に使えた過去を振り返るようなニュアンスを感じるが、そう信じたいエレカの錯覚かも知れない。
「無理ですか」
「不可能ではない。だが、この時代の空気はヴィスが希薄でどうも過去と勝手が違う」
そんなことは誰だって知っている。エレカはじっと男の次の言葉を待った。
エレカの視線にたじろいだのか男は頭を抑えて少し黙り、それからおずおずと口を開く。
「ああ、その──ひとつ、確かめたいことがあるんだが……」
「な、何ですか」
さっきまで自信に満ちた様子だったのに、突然、歯切れが悪くなる。
怪訝に思ったエレカの隙を突くように、男はエレカの頬に手を伸ばしてきた。
「ひゃっ!」
突然の踏み込んだ行動に反射的にその手をひっぱたく。その衝撃でエレカの肌についていた粉がふわっと舞い、空気中できらきらと光った。その輝きを目にした瞬間、どっと恥ずかしさが訪れる。嫌だ──ずっとこの粉を、浮かべっぱなしだったなんて。
「む、気分を害したなら、すまない……だが、気になってしかたなかったんだ」
思わず身を引いたエレカに、男はとんでもないことを言い放った。
「未来人は皆、皮膚にヴィス粒子をまとっているものなのか?」
「……え?」
エレカは何を言われたのか全く理解できなかった。
「こ、これは、汗の代わりに出るものでっ、その、汚れと同じようなもので……」
しなくていい弁明が咄嗟に口から飛び出る。しかし、男は首を振った。
「いいや、汚れなどでは断じてない。これはヴィス粒子といって魔法の源だ。その証拠に……」
そう言って、オーケストラの指揮者がするように、手首をくいっと振ってみせる。
すると、キラキラと舞っていた粒子が男の手の中に吸い込まれ、次の瞬間、エレカの周囲にボッ、と炎が出現した。
「きゃっ!」
「光飾『炎の舞踊』だ」
男が手を振ると、それに合わせて炎は色を変えて、くるくるとふたりの周囲を回転し始めた。その動きはだんだんと早まっていき、やがて天に向けて散開し、パチパチと音を立てて爆ぜた。数十本の光の筋がぱっと広がって、消える。
それはテーマパークで見るようなイルミネーションよりもずっと綺麗で、エレカは息も忘れてその光景に見入ってしまった。
「……うそ」
「このヴィス粒子の量ではこれが精一杯なのだが、どうだろうか」
男は窺うようにエレカを見る。エレカは震えを抑えるように自分の首筋を押さえたが、さっきまで肌に張り付いていた粉はきれいさっぱりなくなっていた。
──本当なの? 今まで煩わされてきた粉末は、魔法の源だったの? だとしたら、どうして、どうして私はそんな体質を? 頭がぐらぐらしてきた。わけがわからない。
確実に言えることが、男は確かに魔法を使ったのだ、というのもまたどうかしている。
こんな大事な場面で──幻想的な、非現実的な現象にすがるしかないなんて。
でも──。
「わ、私……だけです」
やがて、告解するようにエレカは細い声で言った。
「他の人は普通に汗をかきます。ヴィス粒子が肌につくのは……私だけです」
「ふむ。ヴィスをまとうのは君だけ……また新たな謎か。まあ、今更ひとつ増えたところでどうということはない。重要なことは、君といれば俺は少しだけ魔法を使えるということだ」
男は何か、手応えを得たような顔つきで言った。エレカは息を呑む。
──君といれば、少しだけ魔法が使える。
そんなロマンスでしか聞かないような台詞が、光輪で縁取られたように耳に響いたのだ。
エレカは、私はこの人と行動を共にすることになるのだろうな、と急に腑に落ちた。
決断しろ、私。
エレカは深く息を吸い込むと、長く吐き出してから言った。
「わかりました。信じます……いえ、信じさせてください。あなたは困っていた私を、純粋に助けてくれたということを」
「おお……それはつまり、この世界のことを教えてくれるということか!」
男は目を輝かせる。その子どもっぽい表情にエレカは毒気を抜かれ、思わず苦笑した。
「はい、私の知識なんかで良ければいくらでも」
「ああ、ありがとう! 恩に着るぞ!」
そんな歓喜の声を上げると、彼はエレカの手を取って握ってくる。あまりに自然な所作だったのでエレカも思わず握り返してしまう。
そして、身体が強ばった。彼の手は熱く、まるで土をかきわけて出てきたばかりのように筋張っていて、綺麗好きなエレカとしては平常心でいられないくらいの臭みを感じてしまった。
「あの、まずはシャワーを浴びましょう……」
「シャワー? それは一体、何だ」
真剣な表情で言う彼を見て、エレカはこの先の途方も無さを感じ始めた。




