8. 求められる決断
「は……はい?」
まさに「ぽかん」という顔で、ルゼリアさんは私を見る。やってしまった感が拭えない。私は慌てて弁明をすべく口を開いた、が。
「いっ、いえその、皆さん大変なのに親切で、私みたいなのにも丁寧に接してくださるし……有り難いなって!」
やってしまったその二である。言葉を急ぐあまり、完全に「アリアンナ」を忘れて喋ってしまった。言い終えた途端に激しい後悔が襲ってくるも、全ては後の祭りだ。
どうしよう。私が平民丸出しの台詞を吐く、ルゼリアさんは幻滅する、他の使用人さんたちにも話が広まる、果てはディズ様にも……!
そうなれば「アリアンナ」はおろか、トゥーラ家の評判まで落ちてしまう。家のために嫁いだ娘が、逆に家の名に傷を付けたと知ったら、トゥーラ伯爵様はどんなに落胆されるだろうか。いや落胆どころではない、名誉が大切な貴族社会のことだ、家そのものがひどく傾いてしまうかもしれない!
悪夢のような未来を想像してしまい、私は青ざめる。しかし、当のルゼリアさんはというと。
「っふ」
小さく、しかし確かに、笑った。それも嘲笑ではなく素直な、まるで親しい人と談笑している時のような感じで。
「こほん。失礼しました」
私が何か反応するより早く、彼女は即座に表情を整える。できるメイドさんは凄いや。私だったら、一回笑ったら手の甲でもつねらなきゃすぐには我慢できないのに。
「……奥様」
「はいっ」
思わずぴしりと背筋が伸びる。さすがに叱られるだろうか、なんておっかなびっくり様子を窺ってみるけれど、そんな不安に反してルゼリアは柔らかい声色で言った。
「次に旦那様から隠れられる時は、私の部屋へどうぞ。旦那様は使用人の宿舎には一切近付こうとしませんから」
一瞬、何を言われたかわからなくて固まってしまう。
数秒かけて彼女の言葉に込められた友好の意志を汲み取った私は、途端に視界が明るくなるような心地がした。
「あ……ありがとうございます!」
嬉しかった。魔物討伐を回避できる可能性が高くなったことが、ではない。ルゼリアさんが私にはっきりとした好意と善意を向けてくれたことが、とても嬉しかった。
友情、と言い切るのはおこがましいだろうけど、それに近いものを感じても良いんじゃないだろうか!
「それでは、失礼致します」
「はいっ! お仕事頑張ってください……まし!」
立ち去るルゼリアさんに、私は手を振る。貴族令嬢としてははしたない身振りだが、溢れ出る感情を堪えらえなかった。
「んふ……えへへ……」
周囲に誰も居ないのを良いことに、私は緩みきった笑みをこぼしながら私室へと戻る。
ケイリーさんに、ルゼリアさん。このお屋敷の中で良好な関係の輪ができ始めていることを、喜ばずにはいられなかった。
***
夕暮れ時。ルゼリアさんたちと仲を深められ浮かれていた私だったが、その人はそんな私の心に影を落とすかのように現れた。
「アリアンナ殿。少し、よろしいですか」
金髪の侯爵子息――エルヴィス様。昼、私になぜか「調子に乗るな」と警告? 威嚇? をしてきた彼は、にこやかな表情で話しかけてくる。書庫で本を読もうと思っていた私は、じり、と廊下の隅に寄りつつ彼の笑顔に問いで返した。
「ディ……ディズ様はどちらに?」
「さあ。執務室ではないでしょうか」
な、なんか嘘くさい! というか言葉の裏に、悪意がちらついている。
ディズ様がいらっしゃらないからだろう、私への悪感情を隠す気はあんまり無さそうだ。そもそもなんで彼がこんな感じなのか、その原因は皆目見当も付かないけど。
「いつもと変わらず良い庭ですね。外の空気を吸いながら、お話をしましょう」
エルヴィス様は窓の外を見ながら言う。褒め言葉も何となく白々しい。本音を言うと物凄く逃げたいんだけど、逃げるとその後が怖い気がするしなあ……。ディズ様は逃げても無邪気に追いかけてくるだけな一方、この人は何をしてくるかわからない。少なくとも、ロクな目には遭わなさそうだ。
内心白旗を上げた私は、エルヴィス様に連れられるまま、お庭にある東屋へと移動する。
ケイリーさんが居ないかとさりげなく探してみるが、残念ながらお庭には誰の姿も無い。東屋はお屋敷自体からやや離れているため、中に居る人に話し声が聞こえることも無いだろう。とても不本意だが、一騎打ちみたいな感じになるのだ。
私は嫌な汗をかきながら、エルヴィス様と対面する形で椅子に座る。
と、エルヴィス様はふっと笑顔を消し去り、冷たい視線と共に言い放った。
「端的に言います。兄さまと別れてください」
え、と声が漏れたかもしれない。その方向で、かついきなりその段階で話を切り出されるとは思いもよらず、私は唖然とする。
「な、なぜ……ですか」
なんとかそう絞り出せば、エルヴィス様は軽く溜め息を吐いて答えた。
「貴女の立ち振る舞い、言葉遣い、そして兄さまの話される普段の様子……どれを取っても、兄さまに相応しくはありません」
「ふ……相応しくないとは、どういうことですの?」
私は彼に言い返すつもりで、また問いを投げかける。だが彼はじとりと私を睨み付け、不快感をあらわにしながら言った。
「言葉のままです。気付いていないとでも思いましたか? 貴女の所作はまるでかびたケーキに新しいクリームを塗りたくったよう……表面だけ取り繕って、中身は下品そのものです。貴女のような者が妻であっては、兄さまが恥をかかれます」
「かびたケーキ……!?」
酷い言いようだ。けれども、実のところ全くその通りなので反論できない。
私はアリアンナ様のお体を使っているだけの村人で、言葉遣いも立ち振る舞いも彼女の見様見真似。ディズ様は所作とかあまりお気になさらないタチのようだが、普通の貴族の方、それこそエルヴィス様の目には見苦しく映っていたのだろう。
自分なりに頑張っているとはいえ、所詮は付け焼刃だ。私はうつむき、エルヴィス様は淡々と言葉を続けた。
「それに、魔物狩りにしても。どんな手を使って兄さまを騙しているか知りませんが、貴女ごときが役に立つはずもない。見ればわかります。貴女は体を鍛えてもいなければ、戦術立案に長けているわけでもないと」
「ぐっ……」
これまた反論できない。まさか邪法を使って戦っていますだなんて、言えるはずもないからだ。エルヴィス様から見た私は、弱いくせになぜかディズ様の魔物討伐のお供をする胡乱な女、といったところか。
ディズ様が邪法のことを黙っていてくださったのには感謝だけど、邪法について伏せることがこんな形で支障を招くなんて……。
更に縮こまる私に、追撃するかのようにエルヴィス様は口を開いた。
「だいたい……そう、これが一番問題ですね。貴女は兄さまから離れたがっている」
はっと私は顔を上げる。エルヴィス様は私の全てを見透かすように、鋭い視線を無遠慮に突き刺してきていた。
「兄さまを心から愛することも、立場のためと割り切ることも、はたまた逃げ出すこともしていない。中途半端な志で兄さまの妻が務まるとでも?」
「それ、は」
にわかに胸が苦しくなる。図星だ。自分でもわかっている一番駄目なところを寸分違わず指摘され、私はかさを増した自己嫌悪にいとも容易く呑み込まれた。
私は、使用人の方たちとは、少しずつ仲良くなれてきている。反面、ディズ様とはちゃんと向き合えていないままだ。振り回されるまま、抵抗らしい抵抗もせず、差しさわりが無い程度に逃げるだけ。
心がときめくことがあっても、ディズ様のことを愛してると、胸を張っては言えない。彼が内心にまでは踏み込んで来ないことに甘え、ずっと曖昧な気持ちで居る。
そんな私は確かに、エルヴィス様の言う通り……ディズ様に、いや誰にも相応しくない。
「お膳立てはして差し上げましょう。ガロメル家にもトゥーラ家にも損が無いように、私の持つ権力の全てを惜しみなく用いて場を整えます。ですから貴女は、兄さまと離縁してください。願ったり叶ったりでしょう?」
「どうして、そこまで……?」
何と答えたら良いかわからなくて、私は疑問を示すことでまた逃げる。けれどもその疑問自体は本音からのものだ。
どうしてエルヴィス様は、こんなに私とディズ様を別れさせたがるのだろう。私に離縁を要求するだけならまだしも、離縁のための根回しまでするというのは、いささか気合いが入りすぎている。
見えない意図に怯える私に、エルヴィス様は堂々とした笑顔と共に答えた。
「兄さまを敬愛しているからです。兄さまは強く、美しく、お優しい。誰よりも尊きお方には、その輝きを支えるに能うだけのお相手が必要でしょう」
……ええと、政治的な理由じゃないんだ……?
私情しか見えない言い分に、私は拍子抜けする。
なんかスフィリア家とガロメル家の関係がーとか、ガロメル家の望ましい立ち位置がーとか、そういう理由があるのかと思ったのに。大好きなディズ様に私みたいな虫がつくのが許せない、みたいな、要するにそういうこと?
私が反応に困っていると、エルヴィス様は椅子から立ち上がった。
「半月後にまた来る予定があります。答えはその時にでも、聞かせてください」
そうして何事も無かったかのように去る彼を、私は呆然と眺める。彼が提示した離縁の要求は想像した以上に私的で……だけど、私への指摘は全て的を得ていた。
決めなくてはならない。私はこれから、どうするのか。ディズ様と自分の心に向き合い、答えを出さなくては。