2. 冷たい旦那様
アメジスト色の瞳が私を見下ろしている。獲物を見る目、ではない。それ以下の――虫か何かを見るような目だ。気付けば私はガタガタと震えていた。しかし、ここで退くわけにはいかない。
ファーストコンタクト! 良い印象を持ってもらうのは今だ!
「わっ……わたくし、トゥーラ伯爵家が次女、アリアンナ・トゥーラと申しますわ! 本日は、ガロメル辺境伯殿の元へ嫁ぎに参りました!」
姿勢を正し、丁寧にお辞儀をする。緊張しすぎて自分が何を言っているのかもよくわからない。変な言い方になってしまっていないだろうか。
恐る恐る頭を上げ、『血みどろ辺境伯』、ディスエルグ様の表情を窺う。と、彼は脚を下ろし、乱雑に頭を掻いた。
「あー、そういや今日だったか」
良かった、不審者と間違われて殺される展開は避けられたみたいだ。
ひとまずの安堵を得て私はホッと息を吐いた。だがそれも束の間、ディスエルグ様は血塗れの手で私の腕を掴むと、門を蹴り開けてズカズカと屋敷へと入って行く。
「ルゼリア!」
「は、はい! ここに」
玄関扉をこれまた蹴り開け彼が乱暴に叫ぶと、ササっと一人のメイドさんが現れた。ディスエルグ様は私の腕を放し、彼女の方へと軽く突き飛ばす。今のところ動作がほぼ山賊だ。
「件の御令嬢だ。適当に案内しとけ。俺は次の討伐地に向かう」
「かしこまりました」
唖然とする私を余所に、ディスエルグ様はそのまま踵を返し、屋敷の外へと姿を消した。
トゥーラ伯爵様、『血みどろ』と言えど結婚相手には手荒な真似はしないはずじゃなかったんですか。私、物凄く手荒に扱われているんですが。
「どうぞこちらへ……」
「ど、どうも」
私は苦笑いを浮かべ、促されるままに歩き出す。このメイドさん……ルゼリアさんだっけ。すごく顔色が悪い。いつも『血みどろ』と対峙しているのだと考えると、その心労は察するに余りある。もう本当に、可哀想すぎる……。
彼女について行くことしばらく、私は三階のある一室へと通された。どうやらここが私の私室になるらしい。広い空間に豪華な調度品が設置された部屋はトゥーラ家のそれより更に立派で、ここがディスエルグ・ガロメルの屋敷だということを抜きにすれば、夢のような景色だった。
「あの、アリアンナ様」
「はいっ! 何でしょう?」
持って来た鞄を置いて部屋を眺めまわしていると、ルゼリアさんが不意に口を開く。何だろう、耳寄りな情報でも教えてくれるのだろうか? もしくは今後の予定とか?
しかし、張り切って耳を傾ける私の期待に反して、彼女はひと言。
「ご武運を」
それだけ言い残して、去ってしまった。
「……私、死ぬの?」
残酷なほど静謐な空間に取り残され、私はへなへなと床に座り込む。
が、すぐに「床に座るのは下品」と気付き、慌てて立ち上がり椅子に座り直した。
――記憶は体にも複製されているが、上手く使えるかは別問題。
アリアンナ様の仰っていた意味が今ならよくわかる。彼女の体を使っている私は、確かに彼女の記憶を見ることはできた。しかしそれは単なる知識として鑑賞できるだけで、例えば令嬢としての所作なんかは「覚えて」いるが自然に体が動くことは無い。記憶の中にある動作を真似ることしかできないのだ。
つまり常に注意を払っていないと、ふとした瞬間に「アキラ」に染み付いた動作が出てしまう。ちょうど、今みたいに。
病み上がりだから調子が悪い、ということでトゥーラ家の皆様は何とか誤魔化して来られたが、それは身内だからだ。正真正銘の他人が相手ではそうもいかないだろう。伯爵令嬢らしからぬ下品な言動をしてしまった日には、駄目な女だと見下されて更なる冷遇待ったなしだ。下手をするとトゥーラ家の皆様にも迷惑がかかる。
……まあ、ディスエルグ様はそういうの関係無く好感度最悪っぽいけど。
とにかく、使用人さんたちだけにでもちゃんとした令嬢として認識してもらわなければ、本当に微塵の頼りもなくなってしまう。
やるんだ、アキラ。
元々既に死んだ身、アリアンナ・トゥーラとして第二の生を謳歌してみせるんだ!
そしてあわよくば良い感じに幸せになって、アリアンナ様に見せつけてやる! ……いや、アリアンナ様はもうどっかに転生しちゃったし、幸せったってここからどうすれば良いのか全然わかんないけど……。
「ええい、切り替え切り替え! 頑張れアキラ!」
私は鞄を開け、荷物を整理し始める。アリアンナ様のアクセサリー一式、伯爵様ご夫妻が持たせてくださった上等な香水、アリアンナ様のお姉様から譲り受けた豪華な装丁の本、それから――と、そこで私はぴたりと手を止めた。
そう言えば。式も何も無いから全然そんな感じしなかったけど、私は今日からディスエルグ様のお嫁になる。夫婦になるのだ。
ということは、今夜は。
初夜である。
***
「命だけはご勘弁命だけはご勘弁命だけはご勘弁……」
日が沈んだ後、私は私室のベッドに腰掛け全力で神様に祈っていた。
昼間に初夜のことを思い出してから戦々恐々で、夕飯とかめちゃくちゃ豪勢だった気がするけど全く覚えていない。全てが恐怖で塗り潰されて、今に至るまでの記憶が曖昧だ。
一般的なセ……えっちなことがどんな感じかは知らないしアリアンナ様の記憶にも無いが、たぶん何か素敵な雰囲気で素敵な幸せな良い感じのあれなんだろう。そして『血みどろ辺境伯』がするのは絶対そういう感じじゃない。絶対痛いことされる。流血沙汰必至。
ああ神様お願いです、骨の二、三本は我慢しますから命だけはどうか。
私は灯りを落とした部屋の中で一心に祈る。祈って祈って祈って……気付けば朝になっていた。
「……あれ?」
朝。紛うことなき、朝だ。私はカーテンを開けて日光を浴びる。初夜、通り越したんだけど。ディスエルグ様もしかして部屋間違えた?
困惑しつつも、私はとりあえず着替えて部屋を出る。その足で一階へと降り玄関ホールに行ってみると、直後にバン! と正面扉が勢いよく開いた。
「戻った」
ドカドカと荒っぽい足取りで入って来たのは、ディスエルグ様。昨日と変わらず血みどろだけれど、いっそう血の匂いは濃くなっていた。まさかとは思うけどこの人、夜通し魔物狩りをしていたのだろうか? 怖すぎる。
でもこれはチャンスだ。たまたまとは言え彼の帰宅に立ち会えたのだから、「夫を出迎える健気な良妻」を演じて少しでも好感度アップを狙おう。
「お、おはようございますディスエルグ様」
私は引きつりそうになる顔を必死に制御し、笑顔を作った。で、それを見たディスエルグ様はというと。
「何してんだテメエ」
一蹴。思いっきり眉間に皺を寄せ、私を睨みつける。
「や、あの……お出迎えを……。そ、そういえば昨晩は……!」
「余計なことすんな。殺すぞ」
冷や汗でびちょびちょ、再び。無理だこれ。好感度以前の問題だ。
「ジェーン! ザック!」
「はいっ!」
「只今!」
ディスエルグ様の呼ぶ声に応え、メイドさんと執事さんがしゅばばっと出て来る。昨日のルゼリアさんと同じく、二人とも酷い顔色だ。
ジェーンさんとザックさんはディスエルグ様から何やらあれこれと早口で申し付けられ、ぺこぺこと頭を下げる。
そしてそのまま、三人はどこかへ去って行った。
…………私は!?
仮にも妻。仮にも伯爵令嬢。なのに冷遇っていうか、完全に要らない子扱いだ。じゃあなんで結婚なんかするんですか! と叫びたくなる。
「はあ……部屋に戻ろ」
とぼとぼと思い足取りで、私は階段を昇る。
扱いが乱暴であっても、少なからず何かを求められているのだと思っていた。けれどディスエルグ様の様子を見るに、彼は私に何も期待していない。あるいは、私は彼の期待するところに全く応えられていない。
妻としても伯爵令嬢としても役立たず。これでは穀潰しみたいなものだ。そんなことでは……
……不用品ってことで殺されるのでは?
「やばいやばいやばいやばい!!」
恐ろしい仮説にぶち当たってしまい、私は私室に駆け込む。
そうだ、相手はただの貴族様じゃない。あの『血みどろ辺境伯』だ! 残虐な戦闘狂で、会話もロクに成立しない。ってことは良識とか倫理観とかもたぶん無い。
きっと「アリアンナ」を娶ったのは気まぐれなんだ。だから不快に思ったら死刑! 魔物に殺されたということにして隠蔽! みたいな展開もあり得るんだ……!
恨みますよアリアンナ様! でも同情します! いややっぱり恨みます!
「何か、何かで私の利用価値を……」
私は部屋中を歩き回って対策を考える。すると、ふと机の脇に置いておいた鞄が目に入った。そっと近付き、その鞄を開ける。中には、トゥーラ家から持ち出して来た――邪法の書が入っていた。
アリアンナ様の部屋に隠してあったため何となく持って来てしまったが、大っぴらに置くのは気が引けて鞄に入れっぱなしにしておいたそれを、私は静かに取り出す。ぱらぱらとめくって見てみれば、アリアンナ様の記憶を以てしても解読が困難な文章がずらりと並んでいた。
しかしただひとつ、「魂魄移しの法」という章だけは「記憶」にあった。アリアンナ様はこれを使って、私を転生させたのだろう。
邪法。遥か昔に使われていたとされる、邪悪で奇怪な術。現代ではタブーとされ仔細は伝わっていないとの話だけれど、アリアンナ様が使えたということは……きっと、彼女の体に転生している今の私にも使える。
「四の五の言ってる場合じゃない。やらなきゃ殺られるんだから!」
私は椅子に座り、邪法の書を改めて開く。文章は古文体かつ酷く難解。だけど「記憶」を頼りにじっくり時間をかければ、読めないことはないはずだ。
それに所々に図解があって、各章がおおよそ何の術について述べているかは予想がつく。解読の助けになるだろう。
邪法を、学ぶんだ。そしてディスエルグ様の役に立つ人間だと示す。もしくは殺されそうになっても反撃できる力を手に入れる。もうそれしか、私に生き延びる術は無い!