第二話 淡い記憶
ことあるごとに思い出す記憶がある。きっと脳裏に刻まれているのだろう。
風呂上り、辛いこと、ぼーっとしている時、そんな時に浮かんでは、ひと時の泡のように消えていく、そんな記憶だ。
Memory.
「たばこは体に悪いです」
先生は言いきった。
小学生が集まる教室で先生は正面を向きみんなに話す。保険の時間だ。
「さらにたばこには受動喫煙というものがあって、たばこを吸っていない人にも影響があります。赤ちゃんをもうけたお母さんがたばこの煙を吸うだけでも、体の中の赤ちゃんに影響があります。だから、たばこはあまりお勧めしません」
たばこは体に悪いということは耳にタコができるほど聞いた。もうその言葉が耳に入るだけで気分が悪くなる。「はいはい分かっています」が頭の中をグルグル巡った。
でもその日は違った。暇つぶしで見ていた斜め前の席。そこに座る人の教科書を見ていると、その教科書の余白に『最悪』と書かれていくのを見た。僕はその様子が気になって、その教科書を注視した。すると、続けて『たばこ』と書かれていた。
End.
僕は彼女のことが気になっていた。僕は彼女に気に入られたいという思いがあった。それもあってか、その二文字を見てからのこと、大人になっても絶対に、絶対にたばこを吸わないと心に決めていた。それは今年で三十歳になる今でも頑なに守っていた。
***
『ピロン』
電話が鳴った。公衆電話からかかっていた。
『今○○病院、来て』
聞き覚えのある声だった。その声の正体は小学生の頃、斜め前に座っていたあの子のものだった。
「来た、遅い」
「ごめん」
夕方のひぐらしが鳴くとても良い時間帯、ムッとした表情でこちらをにらみつけてくる。
彼女と最後に出会ったのは成人式以来だろうか、十数年ぶりの再会にしては不思議と緊張感無く話せそうだった。
「どうして病院にいるの?」と言いかける間もなく「これ書いて」と指をさす。その指さす先、テーブルの上にあったものは婚姻届けだった。
「え、」
「もしかして、結婚してる?」
いやそこじゃない。
「してないけど、これはどういう」
「私死ぬの、その前にこれ書いてもらおうと思って、あなたとの子、一人にさせたくないでしょ」
あれ、俺に子どもいましたっけ。いや、彼女とは中学生の頃、付き合ってはいたが、あれをした覚えはない、それなのに子どもができるわけがない。もしかしてここは付き合うだけで子供ができるファンタジーの世界なのか? まさか俺の記憶が書き換えられているのか? などと冗談を脳内に並べ連ねながら、自分にも言い聞かせるように「一回落ち着こう」と言った。
話を聞くと、ある人と子どもが出来たけど、その人は子どもが出来たと分かると逃げたらしい。それで、5歳になるまで女手一つで育ててきたけど体を悪くして今は入院中。さらに余命宣告を受けたのだとか、いや、ここはちょっと曖昧らしい。このままだと死んじゃうぞみたいな感じだったかもって彼女は付け加えて言った。でも、この入院で今までの生活を見直し、自分がこの先、もし早くして死んでしまったら残った娘はどうなるのかと考えたという。もちろん彼女以外に娘を見られる人は、彼女のお母さんとして居て、入院中は娘をそこで見てもらっているのだが、彼女とお母さんとの関係はあまり良くないらしく、できれば自分でどうにかしたいと語った。
少しでも彼女を知っている人にこの子がわたってほしい、という思いから始まった昔の彼氏に電話をかけ続ける生活。僕と同じようなやり取りをし、断られ、やり取りをし、断られを繰り返し良いと言う人を待った。大抵の人はドッキリに似たものに気分を害し、怒って帰っていったそうだ。そうなるのもよく分かる。でも、僕は気分を害すことはなく彼女の話に聞き入っていた。それは僕が最近、仕事以外で人と話をしていなかったことに関係があるのだろうか。
「今何しているの?」
彼女が問う。
「小説家かな?」
「何で疑問形」
さっきまでの話は一旦置いて世間話をすることになった。
「いや、それだけで生計をたてているわけじゃないから、夢みたいな」
「ふ~ん」
夕日が彼女の顔を赤く染めていった。「君は」と聞こうとしたがあまりよくない想像が浮かぶのでやめた。
「結婚は?」
再び彼女が問う。
「してないよ」
「ご予定は?」
「全く」
彼女がちらっとさっきの婚姻届けを見る。いや、今はーというようにこちらを振り返る。
「久しぶりに見た私はどう?」
返答に困る急な質問に驚きながらも、その言葉に答えるように、改めて彼女の全身を見た。彼女はベッドに座り、白い服を着て、点滴に繋がられている。良い女性になっていた。うん? この時の良いとは何なのか分からないが、頭に浮かんだのはその言葉だった。
「うーん、か」
つい、肝心なところで言葉が詰まってしまった。
「か?」
目が合う。
そうだ、この瞳に惚れたんだった。
不意に十年前の記憶が思い出された。
Memory.
振り袖姿の彼女はとても綺麗で、言葉を失った。
彼女との付き合いは中学生にまで振り返る。中学生の頃、彼女とは一年弱付き合って、別れてからはほとんど関係を持つことは無く、話しすら交わさなかった。再び視界に彼女が入る。視界に入っても、特に話す話題が浮かばない自分がもどかしい。そこに拍車をかけるように、高校三年間、女性と話したのは「あー、うん」ぐらいで、もう異性との話し方を忘れてしまっていた。話しかけたとしてもそこから続く話ができない。いや、保育園、小学生の頃から異性と話すのを避けてきた人生だ。そんな僕に彼女ができたという事実そのものが不思議なくらいだった。
「ゆき」
「あっ」
彼女に呼ばれた。いつも通り急に声をかけられると出てしまう「あっ」という言葉とも取れない声が漏れる。僕は率直な言葉を紡いだ。
「すごい綺麗」
言った後に気付いた、急にこんな言葉を異性から言われるのは気持ち悪いのではないかと。素直に挨拶だけしておけば良かった。
一瞬の間、後悔がそこを埋めた。その間を終え彼女の口から言葉が紡がれる。
「ありがとう」
にっこりとした笑顔。それを見た瞬間、さっきの後悔が冷たいそよ風に吹かれた。
そう言えば昨日、橋の下にある美容室で髪を切った時に着付けを明日の朝するからとても忙しい、という店員の話を聞いていた。その時にえみの名前も出てきていたことをその時、思い出した。
End.
「かわいい、かわいいよ」
目線をわざと合わせてくる彼女を振り払いながら言葉を紡ぐ。
「ふふ、ありがとう」
彼女はあの時と同じように、にっこりとした顔で笑った。
***
「ねぇ、そこの引き出し開けて」
「ここ」
「うん」
開けると中には色鉛筆と画用紙、その上に小さな長方形の箱があった。
「それ一本あげる」
そう言われて取り出したのはたばこだった。
「あ、吸ったことある?」
一本だけ取り出し、一本だけ欠けた、たばこの入った箱を彼女に手渡す。
「ないかな」
「じゃあ、初めてだね」
彼女はそこで一息つく。それは世間で言うため息と呼ばれるものだろうか。
「いやー、生きるのが辛くなってね、気づいたら吸っていたのよね。吸っている時とその後は少しは気分が良くなって、まだこうして生きていられる」
「……」
相槌を打とうにも上手く打てなかった。
「子どもの前じゃ無理だけど」
そう言って彼女は苦笑いをした。それはまるで、教室の一席に座る小学生の頃の、小さな彼女に向かって答えるかのように。そして、その小さな彼女は教科書の余白に『最悪』と『たばこ』の二文字を書き連ねる手を止め、きっとこう言うのだろう「お姉さん、何で泣いているの」と。
僕はとっさにハンカチを取り出しえみに手渡す。「ありがとう」と言うえみの声は震えていた。
帰り道、コンビニエンスストアに立ち寄り、ライターを買った。
カサカサと音をたてるレジ袋。
夜道にすれ違う人々の背中は一回り小さく見えた。それは、その人たちが下をずっと見ているように僕が感じたからだろうか。
周りを見渡すとほとんど人のいない公園が目に入った。そこのベンチに座りたばこに火をつけた。ふーっと一息といきたかったところだったが、げほっとむせた。もう一度、次はあまり空気を吸いすぎないようにして、同じように空気を吐き出した。それに連なるようにため息もでた。
「はぁ」
何だか肩の力が抜けた。
煙とともに凝り固まっていた信念が口から現れた。それは、周りの空気に紛れ、馴染んでいくと、いったいどれが自分の信念だったのか分からなくなり、その様子を観察した後にはもう見つけることは出来なくなっていた。
今日あったことを思い出しながら、手をベンチに付けた。体を少し後ろの方へ、手の支えを借りて夜空を見上げた。オリオン座ぐらいしか分からない僕は適当に星をつなげて何かを作る。手の熱さを察知して、前方へ視線を動かすとたばこはすっかりと小さくなっていた。思っていたよりも時間が経っていたことに気付く。火の点いたたばこをじっと見つめていると、たばこの火はだんだんと移動していき、たばこの質量を確実にうばっていった。初めて吸うたばこは甘くて、苦かった。