第一話 曖昧な返事
ネタバレになるため書くか迷いましたが、この第一話には、注意:自死描写などが含まれます。
縄で作った輪っかの先に幻想が見えた。
Phantasm.
「ねぇ、あれ何に見える?」
「なんだろう」
雲を指さす彼女の傍ら、僕は答えを探さずただただ彼女の横顔を見ていた。
「この光の一つ一つに自分と同じ人間が住んでいると思うと不思議に思わない?」
「うん」
暗闇の中、小さな街頭に照らされる彼女の笑顔は美しかった。
End.
別に楽しかった日々とかではない。鬱々とした気持ちになるといつも彼女が浮かんできていた。
何でだろう。
目的がなくただ生きる真っ暗な世界。ぽつんと一人で生きていくしかない現状で、もう一人の表には出せないような僕と背を合わせて生きてきたけど、もうそれも疲れた。
不意に涙が溢れだす。
怖い。これで終わってしまうと思うと怖い。
刹那、感情とは体の現象に付随してくるものだと思った。
決意を決め、グッと手に力を込めた、踏み台にした足場が震えた。
力を込めて見えた輪っかの先には、居るはずのない彼女が見えた。目が涙で霞んでしまって何かを見間違いているのか、それともさっきたくさん飲んだ市販薬のせいなのだろうか。どちらにせよ、彼女は腕を横に大きく広げてこちらを見ていた。それはまるで僕を誘うように。
それに答えるように僕はそこへ向かった。
いや、本当に居た。
天井を見上げる視界の中に彼女が居た。
「今死のうとしたでしょ」
「え」
首が痛かった。やっとの思いで出た声で答える。
「えみ」
その女性はえみという名の人。少しだけ透過していたえみ。その先に居間の光が見えた。この光はカーテン越しに透けていて、その光は夜の世界を照らし、ここにも人が居ると誰かに教えているのだろう。
夜勤帰りの背中、家へとただただ足を進める人。人はここにも居て、その人は君たちと同じように時を刻んでいる、この光はそのことを教えているのだろう。
いつも曖昧な答えばかりする僕に愛想をつかしてえみは去った。いや、僕が去ったのではないか。怖くなって、逃げた。
乳房の下に隠れたほくろを見つけたあの日もごまかすばかり。「結婚したい」「え、ああ。そうだな」「いつもそれ、子どもが出来てからでも知らないよ」。
ボーっと考え事をしていた僕に、不思議そうな顔をしてえみは尋ねる。
「久しぶりに会えたのに、どうしてそんな様子なの? もしかして私に興味ないの?」
上の空だった僕を視線の前に戻したその声。視界はえみを捉えたが、まだ僕は上の空だった。
「わかった、考えさせてあげる」
そう言うと、どこか透けているえみは恐る恐る顔を近づける。その様子はまるで初めての挑戦に緊張しているようだった。彼女との距離がゼロになる。彼女の唇と僕の唇が密着した。ふんわりと柔らかく、しっとりとしたえみの唇は、僕の脳を確実に溶かしていく。「ん」。
チュッと唇が離れる時の音が鳴るまで僕の脳を溶かし続けた唇、残った脳細胞だけで考えるものはもう一度、もう一度キスをしたい、ただそれだけだった。
Some time.
「子どもね、預けた」
散々汚したベッドに横たわる二人の間に声が響く。
「誰の子ども」「貴方の」「僕の」「うん」「預けたんだ」「うん」「誰に」「元カレ」「元カレ」「うん」。
「元カレは貴方にすごく似た人」「僕に」「そ、貴方に、でも貴方とは違って多分ちゃんと育ててくれる人」「ふーん、僕がちゃんと育てないみたいだね」「だってそうでしょ、あの日、子どものこと言った日、曖昧に返事して逃げたじゃん」「あれは」「知らない」そう言うと彼女は僕に背を向けた。
布団に隙間ができそこから見る彼女の背中はきれいで、尾てい骨へ向かう曲線もきれいだった。ごまかすように抱きつこうと思ったが、体に力が入らずやめた。
僕の子どもか、あれからだともう小学生になるのかな。今考えると、一目でも良いから会ってみたかったという思いが巡る。
曖昧な返事。
僕の人生はいったい何だったんだろう。
「今からじゃ遅いよね」天井に向かって彼女に聞こえるようにつぶやく。彼女は布団で口を押えながら「遅いと思うよ」とつぶやいた。
何かを悟ったかのようにえみはこちらに体を向け、僕の腕を掴む。えみは自分の腕と僕の腕を布団から出して光に照らす。僕の手も透けていた。
「ほら」。
「ほんとだ」。
少しだけ部屋の温度が下がったと思うと、居間をオレンジ色に照らしていた光もだんだんと消えていった。