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アトランティスのつまようじ  作者: 関川 二尋
第十二幕
60/66

【脱獄物語】大脱走②

 わたしと鋭子はサイとコロをバスケットにいれ、カモフラージュシートをかぶって部屋を出た。

 そして廊下を戻り、先ほど通過した看守の横を、再び忍び足で通り過ぎ、さらに階段を上にあがった。

 するとまたもや鉄格子の扉と看守の姿に行き当たった。

 だがこの看守もまたきれいに居眠りしていた。

 そういえば最初の看守もそうだったが、この看守も足元にコーヒーのプラスチックカップを落としていた。


   ○


 どうも様子がおかしい。

 いくらなんでも好都合すぎる気がした。

 それともすでに何かが始まっているのだろうか?

 だが今はそれを気にかけている余裕はなかった。

 わたしたちは看守の横を通り過ぎ、さっさと鉄格子を開けると、廊下の奥に向かって歩き出した。


   ○


「ねぇ、次はどこに向かうの?」

「田中ハジメという男のところだよ。物質小型化装置を実際に作ったのは彼なんだ」

「囚人番号一番の人ね?」

「ああ、彼は正真正銘の天才なんだ」


   ○


 田中一の部屋は廊下の一番奥の部屋だった。

 万能合い鍵を取り出し、そっと扉を開くと、すばやく部屋の中に入り込んだ。

 部屋の中は真っ暗だった。

 だが間取りはどの部屋も一緒なので見当がつく。

 何だか泥棒になったような気分で、足音を立てないように居間の中に入っていく。そして壁を手探りしてスイッチをつけた。


   ○


 田中一の部屋は見事に整頓されていた。

 右手には書類を入れたグレーのキャビネットがあり、その中にはバインダーできれいに色分けされ、整理された書類がびっしりと並んでいた。

 部屋の中央には机とソファがあり、机の上には卓上時計とその下に何かを書いたリストがおいてある。

 左側には洋服ラックがあり、真っ黒い学生服と真白なワイシャツがそれぞれ七着きれいにつるされていた。さらに学生かばんも七個がきれいに並べて置いてあった。


   ○


 彼の部屋はまるで事務所のように無個性で、長年住んでいるわりに生活感というものがない部屋だった。

 だがそれは実に田中一らしい感じがした。

「なんかきれいすぎて怖い感じね」

 鋭子も同じ事を感じ取ったようだった。

「なに、几帳面なだけさ」


   ○


 わたしたちはカモフラージュシートをかぶったままで、寝室へと移動した。

 ノックをしたものかどうか迷ったが、結局そのまま入ることにした。

 寝室の中もきれいに整理されていた。

 眠っている田中一からしてそうだった。

 気をつけの姿勢をしたまま、まっすぐ上を見て横たわっている。

 わたしは壁のスイッチを手探りし、部屋の電気をつけた。


   ○


 明かりが灯ると、ベッドの脇にあるライティングテーブルに写真がたくさんあるのが見えた。

 父親と母親の写真、妹らしき子供の写真、それに家族で旅行に出かけたときの写真、小学生の時に写したらしい友人達の写真、修学旅行の写真などが所狭しと並べられ、フレームに入っていない写真も無造作に積み上げられていた。

 わたしはそれを見て、ふいに涙ぐみそうになった。


   ○


 田中一はきっと毎晩この写真を見て眠っているのだろう。

 彼の中で止まってしまった時間を懐かしんでいるのだ。

 それは彼が失った時間というものが、どれだけ大切なものであったかを示すものだった。


(大丈夫だよ、田中君、きっと連れ出してあげるよ)


 そこで田中一がゆっくりと目を覚ました。


「おはよう田中君、脱獄の時間だよ」

 田中一の目がまん丸に開かれ、それから悲鳴を上げようと口が開きだした。

 カモフラージュシートをかぶっていたことをすっかり忘れていた!

 わたしはあわててシートから飛び出すと、真っ先に彼の口をふさいだ。


   ○


「それでこれからどうするんです?」

 田中一は落ちつくと、メガネをかけながらそう言った。

 彼はいつもの学生服に着替え、かばんの中にノートパソコンや大量のUSBメモリ、基盤にコード、テスターなどの小さな機械をごちゃごちゃと詰め込んでいる。

 さらにもう一つのかばんには、寝室にあった写真をすべてほうり込み、すでにバッテンにして肩にかけてあった。


   ○


「まずは物質小型化装置そのものを小型化させる、それを手伝ってもらいたい」

「なにかいいアイデアが浮かびましたか?」

「まぁね、光を反射させて装置本体にぶつけるんだ、どうだろう?」

 田中一はメガネを中指でツッとあげた。

 それからしばらく黙り込み、キャビネットのあたりをじっと見つめた。

「ええ、理論的には可能ですね。でも反射させるものがないんです。専門的に言えばあれは特殊な波長の重力波を流してるんです。その波を反射させるような、特殊な波面を持つ板が必要なんです」


   ○


「鏡はどうかね?」

「鏡はダメですね、鏡自体が小さくなってしまいます。鏡に似てるけれど、こうホログラムシートのようなものであれば……」

「これはどう?好きな色合いの設定ができるんだけど?」

 鋭子はそういうとカモフラージュシートを広げて体に巻きつけた。

 またもや首から下が消えた透明人間のようになった。

 が、そこに突然色合いが生じた。

 シートが赤や緑、青、花柄のプリント、とめまぐるしく色彩をくるくると変えだしたのだ。

 それはイカの擬態によく似ていた。


   ○


「ちょっと見せてください、それ」

 田中一は突然立ちあがると、かばんの中にしまいこんだ機械類を再び引っ張り出しはじめた。

 鋭子は机の上にカモフラージュシートを広げて椅子に座り、ニコニコして田中一の様子を見守った。

「がんばってね、田中君」

 鋭子がそう言うと、田中一は沸騰したように真っ赤になってしまった。

 何度も繰りかえすようだが、本当に鋭子は美人なのである。

 まず男だったら、どんな有名俳優だろうとモデルだろうとジゴロだろうと、真っ赤になって照れてしまうだろう。

 彼女はそういう美人なのだ。


   ○


 田中一はカモフラージュシートの端に取り付けられたスイッチプレートにパソコンをつなぎ、すばやくキーをたたきだした。

 そして彼がキーをたたくたびに、シートは様々に色を変えだした。

 そうして五分ばかりが過ぎた頃、カモフラージュシートがホログラムのように、水銀と虹を同時に流し込んだような複雑な色彩に変化するようになった。

「うん、これならいけそうですね!」

 わたしと鋭子は顔を見合わせた。

 わたしはほっとしていた。鋭子はにんまりと笑っていた。


   ○


「それより……これから、どうやって実験室まで移動するんですか?」

 田中が聞いてきた。まぁもっともな疑問だろう。

「そうだな……カモフラージュシートはこれが最後だし、三人は入れない」

 わたしがそう言うと……


「――そろそろ始まると思うわよ――」

 鋭子は何気なくそう言って、ドアの方に目をやった。

 

 その瞬間、まるで合図したかのように警報装置がいっせいに鳴り出した。

 

   ○


「ほらね!」

 鋭子はそういって立ち上がった。

 廊下ではサイレンの音が響き、そのサイレンを圧するように大塚の声がスピーカーから流れ出した。


「科学者どもが逃げ出した! 一人残らず捕まえろ! スタンガンでも催眠弾でも使ってかまわん! とにかく一人もここから逃がすな!」

 大塚の声は寝ぼけている上に、少しパニックが混じっているようだった。


 わたしはそれを田中一の部屋で聞きながら、何事が起きているのだろうと不思議に思っていた。まだ科学者のどの部屋も開放していなかったからだ。もちろん彼らが一斉に自分の部屋から抜け出したとは思えなかった。


   ○


「もう、脱獄が始まっていたんですか?」

 田中が聞いた。

「いや、まだだれも逃げ出していないはずだが……」

 わたしはそう答え、鋭子を見ると、彼女はずい分とうれしそうな顔をしていた。

 何だかいたずらっぽいクスクス笑いをしている。

「そういえば、さっき陽動作戦がどうの、って言ってたアレか?」

「あたり! さっき虎子さんに、捕まったみんなで白衣を着て逃げてくれるように頼んだの! みんなびっくりするわよ、か弱い科学者を捕まえるつもりが、おっかないおじさんばっかりなんだから」


   ○


 それはたしかにすごい陽動作戦だった。

 刑務所はパニックになっているだろう。

 と、ここで再び大塚の声が聞こえてきた。

「看守はカフェテリアに急行しろ! やつらトンネルを使うつもりだ! 絶対逃がすなよ!」

 大塚の声はだいぶ焦っている。

 現場のパニックはもっとすごいことになっているに違いない。

 

   ○


 わたしたちは急いで出かける準備を済ませると、扉を開けて廊下を覗いてみた。

 廊下には明かりが灯り、サイレンの赤いライトが点滅を繰り返していた。

 だがそれ以外はがらんとしている。

 廊下の端にいた看守はこの騒動の中、まだ眠り続けていた。

「今がチャンスなんじゃない?」

 まったくもって鋭子の言うとおりだった。

 わたしは一つうなずくと、田中一にカモフラージュシートを渡した。

 この先はもう隠れる必要もないだろう。


   ○


「先に実験室へ行って、物質小型化装置の起動準備をしていてくれ」

「分かりました」

 田中一はすっぽりとカモフラージュシートをかぶった。

 彼の姿が一瞬にして、まるで空気に溶け込んだように消えた。


   ○


「テルオ、次はどうする?」

「片っぱしから鍵を開けよう。そして科学者を実験室に集合させるんだ」

「わかったわ!」

 わたしたちは手近のドアから始めていった。

 まずわたしが万能合鍵でロックを外し、開いた部屋に鋭子が飛び込む。

 そして鋭子は俳優ならではの凛とした声を張り上げる。

「さぁ、脱獄の時間よ!さっさと白衣を着て実験室に集合!必要なものは小さくまとめて持ち出すこと!急いで!」


   ○


 彼女が声をあげると、一分もしないうちに科学者があわてて部屋から出てくる。

 白衣を引っかけ、鞄やリュックサックに、着替えやらノートパソコンやら、ノートやらをあふれるほど詰め込み、靴をはく時間も惜しんでとにかく外へ出てくる。

「脱獄の時間よ!実験室に急いで!」

「急いで出るんだ!実験室に集まってくれ!」

 わたしも彼女に負けじと声を張り上げながら次々とドアを開けていく。

 時間がたつにつれて廊下にあふれる科学者の数も増え、彼らのペット達もまた廊下を走り出すようになった。


   ○


 いろんな種類のネコ、大小毛並みもさまざまな犬、どういうわけかフェレット、ウサギなんかも飼い主を追いかけて走り出している。

 さらにその隙間をぬって走っていくのは車椅子に乗った老科学者達だ。

「そこのアナタ!車椅子を押していきなさい!」

「ワンちゃん、そっちじゃないわよ!」

「ほら、トカゲは抱いていきなさい!」

「あー、キミ!ここの部屋の人を起こしてきて!」

 混乱している科学者達やペットにまで、鋭子がきびきびと指示を飛ばしていく。

 そしてわたしはひたすら万能合い鍵を使って扉を開けていった。


   ○


 こうして史上最大の脱獄は始まった!


 最終的には逃げ出した科学者203人、そのペットが84匹、持ち出したかばん320個という、それは大規模な脱獄となった。


 わたしたちは二階の囚人を全て解放すると、さらに三階に移り、同じ様に百人以上の囚人を解放して回った。


   ○


 やがて全ての牢屋の扉が開かれ、部屋の中には誰もいなくなった。

 廊下にあふれていた科学者達もみな実験室へと移動していた。

 サイレンはまだ鳴っていたが、それをのぞけばずいぶんと静かだった。


 わたしはそこでふと立ち止まり、廊下を振り返ってじっとその光景を見つめた。


 全てのドアが開かれているこの光景、がらんとした廊下、それはわたしがずっと夢見てきた光景だった。


   ○


 もうここには誰も閉じ込められてはいない。

 みんなが自由な世界へと解放された。そんな感じがした。

 小鳥達が巣立ったあとの、空っぽの巣を見ているような感じだ。

「やったわね、テルオ」

 鋭子はわたしの肩に手をかけてそういった。

「ああ、でも一階が残ってる!」

 一階には唯一の女性囚人、小夜子の部屋がある。

「そうね、まだまだ走らなくちゃ」


   ○


 そういって鋭子は早足で歩き始めた。

 わたしもすぐに後を追いかけた。

「次はどうするの?」

 そう言って鋭子が振り返った。

「一階まで降りて、最後の科学者を助け出す」

「保健室のマドンナね?」

「ああ、この脱獄は彼女がいなければ不可能だった」

 わたしは鋭子と並んで歩き出した。

 廊下を抜け、階段を降りていく。

「……ねぇ、ちょっと待って輝男。この脱獄の主役はわたしじゃなかったの?」


   ○


 鋭子が立ち止まった。

 あわててわたしも立ち止まった。

 鋭子は階段の上からわたしを見下ろしている。

「もちろん、きみのおかげだよ、というよりみんなに感謝している」

「わたしもその他大勢と一緒なんだ?」

 いきなり何を言い出すんだろう?というのが正直な感想だった。

 だが鋭子はすっかり腹を立てていた。

 わたしを見下ろしている目がやけに冷たい。

 こんな時だというのに……わたしは彼女の地雷を踏んだらしい。


   ○


「輝男、正直に答えて。あなたはその保健室のマドンナが好きなんでしょ? 彼女は若いし、わたしみたいなおばさんじゃない、そうなんでしょう? はっきり言ってちょうだい!」

「ちがうよ! 僕が好きなのは君だけだよ。本当だ!」

「……うそばかっり……」

「うそじゃない! その……ずっと……憧れてたんだ! ……それは今も変わらない、ほんとうに誓って……」


   ○


 とそこで鋭子がにんまりと笑った。

 さっきの怒りの表情はきれいに消えている。

 そして今度は意地悪そうな、でも実にうれしそうな笑顔が広がった。


「今のゼンブ演技だった?」


 鋭子の演技に引っかからない人間がいるはずがない。

 なにしろ彼女は天才女優なのだ。

 だが不思議と悪い感じはしなかった。

 だからわたしは階段の下から彼女に手を差しのべた。

 鋭子はわたしの手をとって優雅なしぐさで階段を下りた。


   ○


「あなたって、とてもだましがいがあるわ」

「ありがとう、絶好のカモになった気分だよ」


 それからわたしたちは再び、本館中央の廊下を目指して走り出した。

 目指す小夜子のいる部屋は、その廊下を突っ切って反対側の棟、その一階にある。

 そして彼女が最後の囚われ人だった。


   ○


 中央廊下は混乱を極めていた。

 あちこちでグレーの制服を着た看守達と、白衣を着た虎子のニセ科学者軍団がもみあっている。

 スタンガンの火花が飛び、麻酔銃を発射する銃声が響き、それをさらに圧するような虎子の部下の怒号と、看守達の悲鳴がめちゃくちゃに絡みあっている。

 その大騒ぎの中を、本物の科学者連中が走り、車椅子を右に左に暴走させ、犬や猫たちが興奮しながら主人の後を追いかけていく。


   ○


 わたしたちはなるべく彼らの邪魔をしないように、壁際のなるべく隅に沿って走っていった。

 途中でスタンガンをもった看守と鉢合わせたが、わたしはそいつの手首をつかむと、再び強烈な一本背負いをお見舞いしてやった。

 それがあまりに見事に決まったので、自分でもびっくりしたくらいだ。


 その日のわたしはとにかく絶好調だったのだ。


 危険だったのはその時くらいで、あとは中央廊下を無事に渡りきった。

 そこで廊下はT字路に突きあたり、右へ行けばカフェテリアおよび実験室、左に行けば女性用の監獄となる。

 幸い左側の廊下には誰もおらず、わたしたちは一気に廊下を走りぬけた。


   ○


 そしてこちら側の棟はずい分と静かだった。

 元から囚人は小夜子ひとりだし、看守も全員が出はらっていた。

 廊下を塞いでいる鉄格子の扉を万能合鍵で開き、さらに無人の廊下を走っていく。

 すると、目的の小夜子の部屋は見つかった。

「いよいよ最後の一人だ」

 わたしは言った。走ってきたせいでまだ息が乱れている。

 もう歳なのだから仕方がない。

 だが鋭子はうっすら汗をかいていたものの、元気そのものだった。

「さぁ、急ぎましょう!」

 わたしは再び万能合鍵を鍵穴に差し込んだ。


   ○


「織田博士?」

 扉の向こうから、おずおずとした調子で小夜子の声が聞こえてきた。

「ああ、脱獄の時間だよ!」

 わたしははりきって答えた。

 すると扉の向こうで小夜子の歓声が聞こえ、スケイプが小夜子に応えて喜びの吠え声を上げるのが聞こえてきた。

 わたしは万能合鍵のスイッチを何度か押し、ぐるりと回した。が、なかなか鍵が開かない。


   ○


 いったんそれを外し、中の様子を見てみると、鍵を開くための特殊繊維がボロボロになっていた。

 どれもささくれ立ち、折れ曲がり、今にも切れそうになっている。

「輝男、落ち着いて、大丈夫よ」

 鋭子が背中から声をかけてくれた。

 わたしはもう一度万能合い鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくりと何度かひねった。

 ブチブチと繊維が切れる音が響き、同時にカチリとロックが外れる音が響いた。

 わたしはそっと息を吐きだした。


   ○


 何とかうまくいった。

 同時に額から汗が流れてきた。

 今さらになって開かなかった時の恐怖が込み上げてきたのだ。

「博士!」

 扉が開かれ、小夜子が飛び出してくると、いきなりわたしに抱きついてきた。

 彼女はしっかり脱獄用の衣装に着替えていた。

 真っ黒のトレーナーの上下に黒のキャップ、さらに今日の脱獄のために、スケイプにまで真っ黒のTシャツを着せ、黒いバンダナまで巻いていた。


   ○


「ずっと待ってたんですよ!」

 小夜子はしばらく抱きついていたが、やがて体を離すとそう言った。

 そして傍らにいた鋭子の存在にはじめて気がついた。

 彼女は目をまん丸にして鋭子を見つめ、それから今度は鋭子に抱きついておいおいと泣き始めた。

「あなたが助けに来てくれたんですね、本当にどうもありがとう」

 鋭子は小夜子の体をそっと抱きしめ、子供をあやすように背中をゆっくりなでてやった。

 そして困ったようにわたしを見つめた。

「なんか、娘が出来たような気分、変な感じだわ……」


   ○


 鋭子はそういったが、悪い感じではないらしい。

 しばらく彼女を抱きしめて髪をなでていたが、やがてきっぱりとした様子で彼女の体を離した。

「さて、いつまでも泣いていない。脱獄するわよ!」

「はい!」

 そしてスケイプにリュックを背負わせ、自分もリュックを背負うと、改めてわたし達の前に立った。

「準備オーケーです!」

「よしっ、じゃあ出発しよう、ところで例の睡眠薬は持っているのかね?」

「はい、持ってますよ」

 小夜子はポケットから大きな薬のビンを取り出した。

「でもあと一瓶は冴子さんに渡してあります」

 その一言でピンときた。看守が眠ってい理由だ。

 たぶん冴子シェフはすでに行動を開始していたのだ。


   ○


「これで何人分くらいかね?」

「たぶん二百人くらいですね」

 瓶の中には鮮やかな黄色の錠剤がたっぷりと詰まっている。これをどうやって残りの看守連中に飲ませたものか?

 今はまだアイデアが浮かばない。

 だが必ずこれが必要になる瞬間が来るはずだ。

 そう思い、とりあえず鋭子に渡すことにした。

「とりあえず君が持っていてくれ」

「わかったわ」

 それからわたしたちはいよいよ、最後の大勝負の待つ実験室へと歩き始めた。


 時刻は午前二時、聖脱獄記念日がまだ始まったばかりの時間だった。



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